のコンテキスト オーストリア

オーストリア共和国
Republik Österreich
国の標語:なし
国歌:Land der Berge, Land am Strome(ドイツ語)
山岳の国、大河の国

オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、ドイツ語: Republik Österreich、バイエルン・オーストリア語: Republik Östareich)、通称オーストリアは、中央ヨーロッパに位置する連邦共和制国家。首都はウィーン。

ドイツの南方の内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたことがある。

詳細について オーストリア

基本情報
  • 通貨 ユーロ
  • 母国語表記 Österreich
  • 呼び出しコード +43
  • インターネットドメイン .at
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 8.16
Population, Area & Driving side
  • 人口 8979894
  • 領域 83858
  • 駆動側 right
履歴
  • オーストリアの成立

    ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域にはさまざまなケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた[1]。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[1]。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった[2]。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した[2]。

    1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[3]。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[3]。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[4]。

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    オーストリアの成立

    ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域にはさまざまなケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた[1]。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[1]。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった[2]。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した[2]。

    1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[3]。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[3]。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[4]。

    ハプスブルク家支配の成立
     
    1605年の ハプスブルク皇帝の紋章

    ザルツブルクはザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)が領主となった。1290年、アルブレヒト1世がエンス渓谷の所有権と諸権利をめぐってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公、サヴォイア公、ザルツブルク、アクイレイア、コンスタンツの聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟の諸都市、およびスイス誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランスを範にとり財政改革を行うことになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世はモルガルテンの戦いに敗れてフランスに接近した[5]。

    フリードリヒ3世の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。

    1358年にハプスブルクはオーストリア大公(オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。

    ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも領地を獲得し始める。1477年、フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国のマリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した[6][7]。彼の子のフィリップ美公はカスティーリャとアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした[6][7]。

    1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死したあと、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[8]。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。1648年にヴェストファーレン条約が結ばれ、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。

    マリア・テレジアと二元主義
     
    1683年の第二次ウィーン包囲はオスマン帝国のヨーロッパ侵略を打ち砕いた
     
    18世紀のウィーン

    レオポルト1世 (1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年のウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世)[9]に続く一連の戦役(大トルコ戦争、1683年 - 1699年)の結果締結された1699年のカルロヴィッツ条約により、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国・スラヴォニアを獲得した。カール6世(1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711–1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。

    カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。プロイセン領となったシュレージエンをめぐって再び七年戦争(1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。オーストリアはプロイセン、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割(1772年と1795年)に加わった。

    神聖ローマ帝国の解体と二重帝国
     
    ジャン・バティスト・イザベイ作「ウィーン会議」(1819年)

    フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の[10]1804年、オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における4つの列強国のひとつと認められた(ウィーン体制)。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が作られる。

    未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争のためにドイツは統一国家を目指した[11]1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一は大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦のいずれかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年にフランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦い、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。しかしオーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年に普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦い[11]で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった[12][13]。

    1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した[14]。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、さらにはイタリア人、ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。

    この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。たとえばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告 (Reichsgesetzblatt) は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対にほかの民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。

    第一次世界大戦と共和制への移行
     
    1910年時点のオーストリア=ハンガリーの言語民族地図

    1914年にフランツ・フェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、紛争は第一次世界大戦に発展した。

    4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び、事実上の降伏をした。

    第一次世界大戦の降伏直後にオーストリア革命が起こり、皇帝カール1世は「国事不関与」を宣言して共和制(ドイツ=オーストリア共和国)に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉を迎えた。

    1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、そのほかの領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の4分の1程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった[15]。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。

    戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ、1925年から1929年には経済はやや上向いてきたがそこへ世界恐慌が起き、1931年にクレディタンシュタルトが倒産した。

    ファシズムからアンシュルスへ

    1933年、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)[16][17]。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた[18]。対立が高まり内戦(2月内乱)となる[16][17][19]。

     
    進駐ドイツ軍を歓迎するウィーン市民

    内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し[20][19]、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス(ドイツ語版)のクーデターが起こり暗殺された[21][22]。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した[23]。3月13日にアンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。

    オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオストマルク法を制定してオーストリアをオストマルクとし[23]、1942年にアルペン=ドナウ帝国大管区群と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日、ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し[24]、4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人[25] 、ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は6万5,000人に上っている[26]。

    第二次大戦後

    ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された(連合軍軍政期)[27]。1943年のモスクワ宣言のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり[24]、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた[28]。

    冷戦の影響を受けて数年かかった交渉の末、1955年5月15日、占領4か国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言した[29]。1995年に欧州連合へ加盟し[30]、間接的な憲法改正は加えられている[29]。

     
    インスブルックは1964年と1976年のオリンピックを開催している

    第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年および1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党の党員に平等に分配されるというものである[31]。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある[32]。1945年以降、単独政権は1966年 - 1970年(国民党)と1970年 - 1983年(社会党)のみで、ほかの期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)のいずれかになっている。

    1970年 - 1983年の社会党政権における経済政策はおおむね自由化を進める方向で動いた。

    このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきたクルト・ヴァルトハイムが、1986年に大統領となった。

    ^ a b Johnson 1989, p. 19. ^ a b Johnson 1989, p. 20–21. ^ a b Johnson 1989, p. 21. ^ Johnson 1989, p. 23. ^ エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 (リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月) 71-72頁、157-162頁 ^ a b Johnson 1989, p. 25. ^ a b Brook-Shepherd 1998, p. 11. ^ Johnson 1989, p. 26. ^ Johnson 1989, p. 26–28. ^ Johnson 1989, p. 34. ^ a b Johnson 1989, p. 36. ^ Johnson 1989, p. 55. ^ Schulze 1996, p. 233. ^ Johnson 1989, p. 59. ^ Brook-Shepherd 1998, p. 246. ^ a b Johnson 1989, p. 104. ^ a b Brook-Shepherd 1998, p. 269-70. ^ Brook-Shepherd 1998, p. 261. ^ a b Johnson 1989, p. 107. ^ Brook-Shepherd 1998, p. 283. ^ Johnson 1989, p. 109. ^ Brook-Shepherd 1998, p. 292. ^ a b Johnson 1989, p. 112–3. ^ a b Johnson 1989, p. 135–6. ^ Rűdiger Overmans. Deutsche militärische Verluste im Zweiten Weltkrieg. Oldenbourg 2000. ^ Anschluss and World War II. Britannica Online Encyclopedia. ^ Johnson 1989, p. 137. ^ Manfried Rauchensteiner: Der Sonderfall. Die Besatzungszeit in Österreich 1945 bis 1955 (The Special Case. The Time of Occupation in Austria 1945 to 1955), edited by en:Heeresgeschichtliches Museum / Militärwissenschaftliches Institut (Museum of Army History / Institute for Military Science), Vienna 1985 ^ a b Johnson 1989, p. 153. ^ Brook-Shepherd 1998, p. 447,449. ^ Johnson 1989, p. 139. ^ Johnson 1989, p. 165.
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