のコンテキスト ケベック州

ケベック州
仏: Québec
モットー: "Je me souviens"
ジュ・ム・スヴィアン (私は忘れない)

ケベック州(ケベックしゅう、仏: Québec [kebɛk] ( 音声ファイル) ケベク、英: Quebec ...続きを読む

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仏: Québec
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ケベック州(ケベックしゅう、仏: Québec [kebɛk] ( 音声ファイル) ケベク、英: Quebec [kwɨˈbɛk] ( 音声ファイル)[kɨˈbɛk] クェベック、ケベック)は、カナダ東部の州の1つである。当州の公用語はフランス語だけであり、明白なフランス語圏である(当州で育った人は英語はまったく話せないという人も多い →#言語)。正しい綴りは唯一の公用語のフランス語で(そして英語でも)アクサンテギュの付いたQuébecである。略語QC、Que.またはPQProvince du Québecの略)

詳細について ケベック州

基本情報
Population, Area & Driving side
  • 人口 8831257
  • 領域 1542056
  • 駆動側 right
履歴
  • 先コロンブス期

    クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がアメリカ大陸に到達するまでは、この地域にはアルゴンキン族(クリー族(Cree)、ミックマック族(Micmacs)含む)、及びイロコワ族(モホーク族(Mohawks)含む)などの狩猟インディヘナが居住していた。また北部にはイヌイット族も居住していた。

    フランス人の入植

    1492年にスペインのカトリック両王の命を受けたジェノヴァ人の航海者コロンブスがイスパニョーラ島へ到達し、アメリカ大陸を「発見」すると、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化が進み、ケベックにも1534年にフランス王フランソワ1世の命を受けた探険家、ジャック・カルティエが到達した。カルティエはセントローレンス湾周辺を探検し、この地を「ヌーヴェル・フランス」(ニュー・フランス)と名付け、フランス王による領有を宣言した。

    1604年にサミュエル・ド・シャンプランにより最初の定住植民地が開拓され、1608年にはヴィル・ド・ケベック(現在のケベック・シティー)に毛皮の貿易拠点が建設され、植民地開発が本格化した[1]。ケベック植民地が創設されたことによりフランス人による開拓が進み、1642年にはヴィル・マリー(後のモントリオール)市が建設された。「ヌーヴェル・フランス」(北米フランス植民地)はミシシッピ川流域にまで及んだ。その後、イギリスとフランスの間での北米の覇権争いが続いた。

    移民社会は通常、男性の入植者が女性と比較して圧倒的に多く、ヌーベルフランスにおいても当初は同様の傾向が見られたが、ルイ14世による「国王の娘たち」政策によって渡航費や支度金が与えられた女性が入植し、男女比の改善とそれに伴う人口増加がみられた[1]。

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    先コロンブス期

    クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がアメリカ大陸に到達するまでは、この地域にはアルゴンキン族(クリー族(Cree)、ミックマック族(Micmacs)含む)、及びイロコワ族(モホーク族(Mohawks)含む)などの狩猟インディヘナが居住していた。また北部にはイヌイット族も居住していた。

    フランス人の入植

    1492年にスペインのカトリック両王の命を受けたジェノヴァ人の航海者コロンブスがイスパニョーラ島へ到達し、アメリカ大陸を「発見」すると、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化が進み、ケベックにも1534年にフランス王フランソワ1世の命を受けた探険家、ジャック・カルティエが到達した。カルティエはセントローレンス湾周辺を探検し、この地を「ヌーヴェル・フランス」(ニュー・フランス)と名付け、フランス王による領有を宣言した。

    1604年にサミュエル・ド・シャンプランにより最初の定住植民地が開拓され、1608年にはヴィル・ド・ケベック(現在のケベック・シティー)に毛皮の貿易拠点が建設され、植民地開発が本格化した[1]。ケベック植民地が創設されたことによりフランス人による開拓が進み、1642年にはヴィル・マリー(後のモントリオール)市が建設された。「ヌーヴェル・フランス」(北米フランス植民地)はミシシッピ川流域にまで及んだ。その後、イギリスとフランスの間での北米の覇権争いが続いた。

    移民社会は通常、男性の入植者が女性と比較して圧倒的に多く、ヌーベルフランスにおいても当初は同様の傾向が見られたが、ルイ14世による「国王の娘たち」政策によって渡航費や支度金が与えられた女性が入植し、男女比の改善とそれに伴う人口増加がみられた[1]。

    イギリスの支配
     
    1774年のケベック

    18世紀の七年戦争(特に北米での戦争を「フレンチ・インディアン戦争」と呼ぶ)により、ケベック・シティー、モントリオールが相次いで英軍に占領されると、1763年のパリ条約でイギリス領となった。当初、イギリスはフランス人入植者の同化を目指したが、フランス人入植者の多くがケベックを離れなかったことに加え、イギリスからの入植者が増えなかったことから同化政策を断念し、英国議会が制定したケベック法により、フランス民法典やローマ・カトリックの存続が認められ、フランス色が残った[1]。当時のフランス系住民は約6万であった。このため、カナダは英語とフランス語を国の公用語としているが、ケベック州では今日までフランス語のみが公用語となっている。

    連邦への加盟

    1776年にイギリスから独立したアメリカは、ケベックの反英感情の強さをテコに連邦参加を呼びかけていたが、当時のケベックの住民はアメリカよりはイギリスに付いていた方が得策と考えていた。ケベックは、1791年に植民地統治法(英語版) (Constitutional Act) によって、アッパー・カナダ(後のオンタリオ州)とロウアー・カナダ(後のケベック州)に分割された。1867年のカナダ自治領 (Dominion of Canada) の成立により、ロウアー・カナダ植民地はケベック州となった。元々かなり貧しい州で、社会的にも遅れていたため、近代化がなかなか進まなかった。さらに、経済の重要部門は少数派のイギリス系住民が運営し、州予算は当時から連邦政府に大きく頼らざるを得ない状況であった。フランス系の大半は農業に従事し、教育や社会福祉は教会が主に携わった。カナダ国内で産業化が進行すると、ケベック州においては農村から都市(モントリオール)へ人口が移動するが、モントリオールではイギリス系の商人が事業を展開していたため経済格差が広がり、富裕層はイギリス系住民で労働者階級をフランス系住民が担うという構造であり、フランス語話者はいわば「二級市民」と呼ぶに等しい状況であった[2]。

    1898年にカナダ議会により、ルパート・ランド-ノースウエスト準州に属していたジェームズ湾沿いの北部ケベックに領土を拡大した。そして、1912年に、イヌイットが居住する極北のウンガバ半島を加えた。1920年代以降の、電力と非鉄金属などの重工業化はイギリス系とアメリカ資本を中心に行われた。1927年に、当時はカナダと同格の事実上の独立国だったニューファンドランド(現在のニューファンドランド・ラブラドール州)との境界が、英国枢密院司法委員会によって確立されたが、ケベック側は、公式にはこの境界線を認めていない[3][4][5]。1944年にはアルミニウムのような産業を拡張するのを助けるためにイドロ・ケベックが設立された。

    静かなる革命

    1960年代の州政府による一連の社会改革(公的部門を基にした経済自立戦略)は、英語系住民によるケベック経済の支配構造を変え始め、教会による教育・社会福祉への関与も州政府の役割に取り替えた。これは州首相ジャン・ルサージュ(カナダ自由党)がはじめた「静かなる革命」と呼ばれるもので、民族主義(ケベック・ナショナリズム)と社会民主主義に動機付けられた。静かなる革命の一環として電力会社の州営化と教育省の設置が行われ、フランス語話者の地位改善が図られた[6]。 1965年に、州民の年金と公共保険を扱うためのケベック州投資信託銀行が設立されたが、同社は債券や株式への投資などを行っており、その後の州の経済発展に寄与している。1976年まで職場において、ボスの言語は英語、労働者はフランス語とされ、企業内は英語に限られていた。

    20世紀後半のケベック

    1967年にモントリオール万国博覧会 (EXPO'67) が開催されている。また、1976年にモントリオールオリンピックも開催されている。

    1977年に、フランス語憲章が成立し、英語使用の規制とフランス語使用の促進が図られたため、英語話者のケベックからの転出が増加した[7]。

    様々な面でアメリカ合衆国と緊密な、中央政府からの分離主義的傾向が永年にわたってくすぶり、1970年には過激派「ケベック解放戦線」 (FLQ) のテロで、時の労相兼州副首相が誘拐、殺害される惨事(オクトーバー・クライシス)も起こった。政治レベルでの連邦政府への反感も根強いが、独立を巡って1980年と1995年に行われた住民投票では、2回とも否決された。1980年の住民投票では独立反対の割合が約60%。1995年の投票ではモントリオール市民、先住民ならびにメティ(先住民との混血者)たちの反対票が勝敗を決したものの、反対票の割合は約50.6%と賛成と反対の差が縮まっている。カナダ最高裁は単なる過半数の賛成では条件に満たないとした。この背景には、社会的経済的主導権をフランス系住民が完全に握るべきだという主張と、フランス系住民の出生率低下・移民の増加による民族構成変化への不満がある。単純に見ると、独立運動は労働組合と地方の住民に根強い人気があり、不況になると勢いづき、景気が回復すると下火になる。

    また、旧英領北アメリカ法 (British North America法) を踏襲した1982年憲法をケベック州のみが批准しておらず、これも火種のひとつとなっている。

    1989年3月、太陽風の影響でケベック州の送電線網が機能を停止。約600万世帯に及ぶ大規模な停電の被害を受け、復旧に数か月の時間がかかった[8]。

    新型コロナウイルスの感染拡大

    2021年1月、新型コロナウイルス感染拡大に伴い夜間外出禁止令が発出された。これはスペイン風邪の流行以来の100年ぶりの措置となった。カナダ国内の死者は4月までに約2万4200人を記録したが、多くはオンタリオ州とともにケベック州から生じたものとなった。同年5月1日、モントリオール市内で外出規制に反対する抗議デモが約3万人を集めて行われた。ケベック州政府は、感染拡大の鈍化を理由として、5月3日からモントリオール市内の夜間外出禁止開始時間を1時間半遅らせ午後9時半にすると発表した[9]。

    ^ a b c 矢ケ崎、菊池、丸山 2018, pp. 3. ^ 矢ケ崎、菊池、丸山 2018, pp. 5. ^ Louise Accolas and Marie Barrette (2001年10月31日). “Le ministre des Ressources naturelles du Québec et le ministre délégué aux Affaires intergouvernementales canadiennes expriment la position du Québec relativement à la modification de la désignation constitutionnelle de Terre-Neuve”. Secrétariat aux affaires intergouvernementales canadiennes. 2009年12月24日閲覧。 ^ “Maps of provincial electoral divisions by administrative region”. Le Directeur général des élections du Québec. 2009年12月24日閲覧。 ^ “Les frontières du Québec”. Ministère des Ressources naturelles et de la Faune (2002年). 2009年12月24日閲覧。 ^ 矢ケ崎、菊池、丸山 2018, pp. 7. ^ 矢ケ崎、菊池、丸山 2018, pp. 8. ^ “太陽嵐で大規模停電が起きるわけ”. ナショナルジオグラフィック. 2022年2月23日閲覧。 ^ “カナダ・モントリオールで反コロナ規制デモ、接種会場が閉鎖に”. AFP (2020年5月2日). 2021年5月2日閲覧。
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