のコンテキスト キューバ

キューバ共和国
República de Cuba
国の標語:¡Patria o Muerte, Venceremos!
(スペイン語:祖国か死か、我々は打ち勝つ!)
国歌:La Bayamesa(スペイン語)
バヤモの歌

キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)/レプブリカ・デ・クバ/、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島(西インド諸島の一部)に位置する社会主義共和制国家。首都はハバナ。人口は11,181,595人。

キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。政治思想としてはマルクス・レーニン主義(ソ連のスターリンが考案)とホセ・マルティ思想を採用している。

詳細について キューバ

基本情報
  • 通貨 キューバ・ペソ
  • 母国語表記 Cuba
  • 呼び出しコード +53
  • インターネットドメイン .cu
  • Mains voltage 110V/60Hz
  • Democracy index 2.84
Population, Area & Driving side
  • 人口 10985974
  • 領域 109884
  • 駆動側 right
履歴
  • ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。

    スペイン植民地時代
     
    1591年のキューバとフロリダ半島の地図

    1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。

    スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学や要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。

    そこへつけこむ形で、300年かけてキューバ開発は多国籍化した。ウェストファリア条約締結によりスペイン帝国は凋落、1680年のインディアス法令集成からは王室が富鉱を独占する規定がなくなり、5分の1税を払うだけで採掘が許された。1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。そしてマーチャント・バンクに開発されていく。

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    ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。

    スペイン植民地時代
     
    1591年のキューバとフロリダ半島の地図

    1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。

    スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学や要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。

    そこへつけこむ形で、300年かけてキューバ開発は多国籍化した。ウェストファリア条約締結によりスペイン帝国は凋落、1680年のインディアス法令集成からは王室が富鉱を独占する規定がなくなり、5分の1税を払うだけで採掘が許された。1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。そしてマーチャント・バンクに開発されていく。

    19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。

    また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。

    その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。

    独立戦争(1868年 - 1902年)
     
    ホセ・マルティ

    最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。

    1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。

    旧共和政時代(1902年 - 1959年)

    1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。

    1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会はプラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモとバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。

    「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。ユナイテッド・フルーツ、アメリカン・タバコ・カンパニー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークなどの多国籍企業が進出し、現地では鉄道会社も設立された。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。1920年代半ばには合衆国の投信マネーが電力系統へ流れてきて、ゼネラル・エレクトリック系の電力証券(Electric Bond and Share Company)とその子会社(American & Foreign Power Company Inc.)が全土の電力網を作り上げた。このころ砂糖市場は国際問題化した。キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。

    不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。

     
    独裁者[要出典]バティスタ大統領(1952年)

    1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで独裁政治[要出典]を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。[要出典]これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。そしてユーロダラー戦争が誘発された。

    1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。

    メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「グランマ号」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ(キューバ革命)。

    キューバ革命(1959年 - 80年代)
     
    マヌエル・ウルティア大統領、チェ・ゲバラ、カミーロ・シエンフエゴス

    革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化して、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。

    バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。

    これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業というあらゆる産業が対象となった。たとえば、精糖会社ではユナイテッド・フルーツが国有化されたほか、1960年7月に国有化された米系企業としては、Rothschild-Samuel-Suignan(たばこ会社)、ゼネラル・モーターズ・アクセプタンス(産業金融)、オクシデンタル生命、アメリカン・インターナショナル・グループ、チェース・マンハッタンとファースト・ナショナル(現:JPモルガン・チェース)[1]があげられる。

    1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件またはプラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。

     
    ボリビアにおけるチェ・ゲバラ(1967年)

    1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となった。アメリカは、海上封鎖で対抗した。ソビエト連邦やキューバは反発した。ソビエト連邦側からの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意し、この危機は回避された[2][3]。核戦争は回避したが、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。より正確には、合衆国経済の機関化を追及するケネディ政権と、キューバの旧支配者であるシャドー・バンキング・システムとの対立が深まった。

    1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣した。ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニア、ベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国やボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス・レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリにおけるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。

    1973年、CIAによって画策されたチリ・クーデターでアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。

    1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダに軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻)。

    冷戦終結以降(1991年 - 現在)
     
    ハバナの革命広場にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル・カストロ(2003年9月27日)

    冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏(バルサ)で米国フロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。

    深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。なお、土地の私有化によって、ビルバオ・ビスカヤ・パナマが最初のモーゲージ貸付を行った[4]。

    2000年代にかけてキューバは中華人民共和国との関係を深めた。また、ベネズエラのウゴ・チャベス政権とは石油などにおける資源ナショナリズムを共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。

    アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行われた[注釈 1]。11月6日、アメリカ合衆国上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。

    国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた[5][6][7]。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。なお、アメリカは、表向きは経済制裁を継続していたビル・クリントン政権時代に、ハバナのアメリカ利益代表部の大改築を行っている。

    2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。

    2007年5月、米テキサス州エル・パソの連邦地裁が、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、キューバの雪解けは国際政策となった。

    2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ中央銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した[8]。なお、日本貿易保険はキューバ中央銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている[9]。

    アメリカのバラク・オバマ政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。

    その後、2017年のドナルド・トランプ大統領就任以降、アメリカはキューバに再び厳しい姿勢を示している。

    略年表 1492年 クリストバル・コロン、キューバ島に到着(12月27日) 1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル、キューバ総督に任命 1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始 1895年 ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日) 5月19日 マルティ戦死 1898年 米西戦争(2月) 1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月) 1903年 アメリカ、グァンタナモ湾を租借 1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月) 1953年 モンカダ兵営襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月) 1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命 1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動、活動開始 1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月) 1958年 反乱軍の最終攻勢始まる 1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日) 2月17日 フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命) 4月15日 フィデル・カストロ、ニューヨークへアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はアイゼンハウアー大統領がゴルフに出かけたとの理由で首脳会談を拒否 5月17日 農地改革法公布 1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表 2月4日 アナスタス・ミコヤンソ連副首相訪問、キューバ・ソ連通商条約調印 4月4日 ユナイテッド・フルーツ社有地が接収される 6月29日 テキサコ製油所介入 7月1日 エッソとロイヤル・ダッチ・シェルの製油所へ介入 7月2日 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当制度を廃止 8月6日 アメリカ企業接収 1961年 アメリカと国交断絶(1月3日) 4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃 4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言 4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件) 4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表 1962年 キューバ危機(10月15日)、ケネディ米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日) 10月27日 オリエンテ州北部でU-2機撃墜 10月28日 フルシチョフ・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ 1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問 1965年 キューバ共産党結成 1967年 フィデル・カストロ、チェ・ゲバラのボリビアでの死亡を発表 1975年 第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化 1976年 新憲法制定 クバーナ航空455便爆破事件。傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレス、乗客乗員73人全員を殺害 1977年 アメリカと利益代表部設置で合意 1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺 1983年 アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵 1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法[注釈 2] 成立、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が署名 1993年 ドル所有の合法化 12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命 1995年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意[10] 1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法[注釈 3] 成立、クリントン大統領が署名 1998年 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のキューバ訪問 1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表、エリアン少年事件 2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表 2001年 アメリカからへの食糧購入開始 2002年 ジミー・カーター元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正 2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス、キューバを北朝鮮やイランと並ぶ「圧制の拠点」と発言し、打倒すべき独裁政権のひとつにあげた。キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラへ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミで逮捕される 2008年 2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表 2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出 2009年 6月 米州機構総会においてキューバの復帰が認められる。しかしキューバは復帰を拒否 2011年 部分的に市場経済が導入される 2014年 12月18日 アメリカとの国交正常化交渉を開始すると発表 2015年 4月11日 59年ぶりのアメリカ・キューバ首脳会談が行われる 7月20日 アメリカと国交回復 2016年 9月、国営企業で働く約100万人を対象に10月から課税すると発表。約半世紀ぶりに国営企業従業員への課税となる 11月25日、フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去[11] 2018年 4月19日、ミゲル・ディアス=カネルが国家評議会議長に就任 2019年 新憲法(現行憲法)制定。国家元首の役職が43年ぶりに「大統領」となる 2021年 4月19日、共産党第8回党大会にて引退を表明したラウル・カストロに代わる第一書記にミゲル・ディアス=カネルを選出[12]^ 桜井雅夫 ほか2名編 『発展途上国の外国系企業国有化 解説とリスト』 アジア経済研究所 1978年 100-106頁 ^ 日本放送協会. “「ウクライナ情勢 外交解決は?」(ここに注目!)”. 解説委員室ブログ. 2022年2月20日閲覧。 ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,旺文社世界史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “キューバ危機とは”. コトバンク. 2022年2月20日閲覧。 ^ The Cuban Democracy Act of 1992, S. 2918: hearing before the Subcommittee on Western Hemisphere and Peace Corps Affairs of the Committee on Foreign Relations, United States Senate, One Hundred Second Congress, second session, August 5, 1992, part4, p.76. "Banco de Bilbao Vizcaya Panama, S.A. holds a first mortgage on certain real estate as additional collateral on the line of credit." ^ United Nations>General Assembly>Resolutions>Necessity of ending the economic, commercial and financial embargo imposed by the United States of America against Cuba ^ United Nations>General Assembly>Resolutions ^ United Nations>General Assembly>Archives>Resolutions ^ (PDF)『債権取立不能のおそれに関するお知らせ』明和産業、2008年8月18日。 オリジナルの2011年11月15日時点におけるアーカイブ。https://web.archive.org/web/20111115115440/http://www.meiwa.co.jp/ir/calendar/pdf/20080818_8103_sai.pdf  ^ 『キューバ国立銀「輸入代金払えず」、日本貿易保険に通告』日本経済新聞、2008年8月19日。 オリジナルの2008年8月23日時点におけるアーカイブ。https://web.archive.org/web/20080823162211/http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080818AT3S1800718082008.html  ^ 米、キューバに移民協議再開を提案 フランス通信社、2009年5月23日 ^ フィデル・カストロ氏死去=90歳、キューバ革命の英雄 時事ドットコム 11月26日付 ^ “キューバ新指導者にディアスカネル氏 カストロ統治に幕”. AFPBB News. フランス通信社. (2021年4月20日). https://www.afpbb.com/articles/-/3342914 2021年4月20日閲覧。 


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