تونس
チュニジア詳細について チュニジア
- 通貨 チュニジア・ディナール
- 母国語表記 تونس
- 呼び出しコード +216
- インターネットドメイン .tn
- Speed limit 50
- Mains voltage 230V/50Hz
- Democracy index 6.59
- 人口 11565204
- 領域 163610
- 駆動側 right
- 詳細は「チュニジアの歴史」を参照
古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。
現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナと東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年))、北アフリカをイスラム世界に編入した。
ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、フィリッドイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった(チュニス征服 (1535年))。
詳細は「オスマン時代のチュニジアの歴史」を参照ハフス朝は1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強による侵略でオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。
...続きを読む詳細は「チュニジアの歴史」を参照古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。
現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナと東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年))、北アフリカをイスラム世界に編入した。
ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、フィリッドイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった(チュニス征服 (1535年))。
詳細は「オスマン時代のチュニジアの歴史」を参照ハフス朝は1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強による侵略でオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。
フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャなどの活躍により1861年には憲法(チュニジアの憲法)が制定され、サドク・ベイはイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。
1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約、1883年のラ・マルサ協定でフランスの保護領フランス領チュニジア(1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。
1907年にはチュニジア独立を目的とする結社「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。
第二次世界大戦では北アフリカ戦線の一部となり、イタリアに近いため枢軸国が最後まで拠点とした。
ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は戦後の1956年、ベイのムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。
1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。
現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と高く、国民の不満は後述するジャスミン革命などにつながった。
2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる。この革命を発端に、政変活動が中東・北アフリカ地域に瞬く間に広がる(アラブの春)も、他国ではことごとく失敗し(アラブの冬)、チュニジアは唯一の成功例となった[1]。
2011年10月23日、革命後初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。
11月19日制憲議会選挙で第1党になったアンナハダ(ナフダ)と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国のための会議(共和国会議、CPR)当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 [2]
2013年2月、野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド内相に組閣要請した。7月にはラライエドもまた繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明[3]。
2014年1月26日、制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。
2019年10月に就任したカイス・サイード大統領[4]は、経済低迷や新型コロナウイルス感染症拡大への国民の不満を背景に、2021年7月25日に議会の停止と首相解任を発表した[5][1]。2022年2月には、司法の独立のためにジャスミン革命後に設立された最高司法評議会を解散させて暫定司法評議会を置いて裁判官の解任権を得たと主張し、同年6月1日に裁判官57人を「腐敗し、テロリストを擁護している」という理由で解任した[1]。サイード政権は、2014年憲法に代えて大統領権限を強化する憲法改正案を発表して同年7月25日の国民投票では94.5%の賛成(暫定結果)を得たが、イスラム主義勢力と世俗派を含めて投票ボイコット運動が展開されたこともあって投票率は30%強にとどまり、欧州連合(EU)は投票率の低さとジャスミン革命以来の民主主義の維持を注視していることを表明した[6]。なお首相には、2021年10月、アラブ・マグリブ・チュニジアのすべてで初の女性首相であるナジュラ・ブデンが就任している[7]。
^ a b c 【グローバルViews】「アラブの春」成功のチュニジア 民主化逆行、カギ握る労組『日経産業新聞』2022年7月20日グローバル面 ^ 「チュニジア:連立政権3党が権力配分に合意」毎日新聞(2011年11月23日) ^ “12月総選挙の意向表明=混乱収拾図る-チュニジア首相”. 時事ドットコム (2013年7月30日). 2013年7月30日閲覧。 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「日本国外務省」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 「チュニジア大統領、議会を停止 首相を解任」AFP(2021年7月26日)2022年7月28日閲覧 ^ 憲法改正を問う国民投票が実施、賛成9割超(チュニジア)JETROビジネス短信(2022年7月28日)同日閲覧 ^ Salem (2021年9月29日). “Tunisia's president appoints woman as prime minister in first for Arab world”. CNN. 2021年9月29日閲覧。