のコンテキスト 北海道

北海道(ほっかいどう)は、日本の北海道地方に位置する道。道庁所在地は札幌市。

47都道府県中唯一の「道」である。ブランド総合研究所による「都道府県の魅力度ランキング」で2021年現在、13年連続で1位に選ばれ、観光意欲度、産品購入意欲度でも1位、居住意欲度でも3位となっており、各意欲の面で高い評価を得ている。

詳細について 北海道

Population, Area & Driving side
  • 人口 5383579
  • 領域 77984
履歴
  • 旧石器時代

    北海道には数万年前の氷期にシベリアからマンモスやオオツノシカなどの大型哺乳動物を追いかけて、陸橋となった宗谷海峡を人類が渡ってきたとされる。約12,000年から13,000年前(-8000年から-9000年)には、氷河が後退し温暖となってからは本州からも渡来したようである。

    道内各地で旧石器時代の発掘調査は、群馬県の岩宿遺跡で旧石器が発見されたのをきっかけに行われるようになった。それらの遺跡は約2万年前から1万3000年前の間、つまり後期旧石器時代と推定されている。現在のところ最も古い遺跡は、千歳市祝梅(しゅくばい)三角山遺跡と考えられている。この遺跡から採取した炭化材を放射性炭素年代測定法では21450±750年BPであった。出土した石器類は、ナイフ形石器・尖頭器・削器・石核などである。これらの石器の原材料となった黒曜石の産地は「十勝石」の名で親しまれている白滝村が代表的である。他には、置戸・十勝三股・赤井川などがある[1]。

    縄文期、飛鳥時代

    縄文時代に入ると、渡島半島・函館市の女名沢遺跡など、本州からの亀ヶ岡文化の影響が見られるようになる。

    縄文時代後期の周堤墓は北海道にしか見られず、特に石狩低地帯に集中している。最も大きいものは千歳市郊外にあるキウス周堤墓群で、知床半島の付け根部にある斜里町でも朱円遺跡、芦別市野花南、標津町伊茶仁(いちゃに)などで発見されている。

    北海道ではストーンサークルが多く発掘され考古学上議論を呼んでいる。渡島管内森町の鷲ノ木遺跡、後志管内小樽市の忍路環状列石・地鎮山環状列石、余市町の西崎山環状列石、石狩地方では空知管内深川市の音江環状列石、旭川市の神居古潭ストーンサークルなど。

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    旧石器時代

    北海道には数万年前の氷期にシベリアからマンモスやオオツノシカなどの大型哺乳動物を追いかけて、陸橋となった宗谷海峡を人類が渡ってきたとされる。約12,000年から13,000年前(-8000年から-9000年)には、氷河が後退し温暖となってからは本州からも渡来したようである。

    道内各地で旧石器時代の発掘調査は、群馬県の岩宿遺跡で旧石器が発見されたのをきっかけに行われるようになった。それらの遺跡は約2万年前から1万3000年前の間、つまり後期旧石器時代と推定されている。現在のところ最も古い遺跡は、千歳市祝梅(しゅくばい)三角山遺跡と考えられている。この遺跡から採取した炭化材を放射性炭素年代測定法では21450±750年BPであった。出土した石器類は、ナイフ形石器・尖頭器・削器・石核などである。これらの石器の原材料となった黒曜石の産地は「十勝石」の名で親しまれている白滝村が代表的である。他には、置戸・十勝三股・赤井川などがある[1]。

    縄文期、飛鳥時代

    縄文時代に入ると、渡島半島・函館市の女名沢遺跡など、本州からの亀ヶ岡文化の影響が見られるようになる。

    縄文時代後期の周堤墓は北海道にしか見られず、特に石狩低地帯に集中している。最も大きいものは千歳市郊外にあるキウス周堤墓群で、知床半島の付け根部にある斜里町でも朱円遺跡、芦別市野花南、標津町伊茶仁(いちゃに)などで発見されている。

    北海道ではストーンサークルが多く発掘され考古学上議論を呼んでいる。渡島管内森町の鷲ノ木遺跡、後志管内小樽市の忍路環状列石・地鎮山環状列石、余市町の西崎山環状列石、石狩地方では空知管内深川市の音江環状列石、旭川市の神居古潭ストーンサークルなど。

    続縄文文化 本州以南は多数の渡来人(弥生文化の担い手)が進出、弥生時代に移行するが、北海道には弥生文化(水稲耕作)が伝播せず、続縄文文化が展開した(本州の弥生・古墳時代に並行する続縄文時代[* 1]は、紀元前2世紀から8世紀の奈良時代頃まで続いた)。この文化は、北は樺太南端部、東は国後島・択捉島、南は宮城県北部から新潟県にまで及んでいる。時期のはじめの土器は東北北部の土器(亀ヶ岡文化)の影響が及んだ恵山式土器で紀元前2世紀から3世紀までを恵山文化と呼ぶ。この文化と弥生文化との交流を示す鉄器や碧玉製の管玉が見つかっている。また、この文化の影響が道央部に及んで江別式土器が出現する。この土器は後北式土器[* 2] とも呼ばれている。江別式土器を特徴とする江別文化は紀元前1世紀から7世紀頃までで、サケ・マスの漁撈生業を中心とした狩猟・採集経済である。この文化の遺跡からソバの花粉や緑豆の種子が検出されており、食用植物が栽培されていたと考えられる[3][4]。 擦文文化 つづいて、7世紀後半より土師器の影響を受けて縄文がなくなり、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文式土器を特徴とする擦文時代となって、この文化を8世紀までを前期、9世紀 - 10世紀を中期、12世紀頃までを後期の三期に区分する。この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって、12世紀頃には移入品の鉄器を使用し、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟した。 オホーツク文化期 擦文文化が営まれていた頃、北海道東部のオホーツク海沿岸には、北の樺太方面から漁業と海獣狩猟を生業とするオホーツク文化を営む人々が移住したが、アイヌ文化が成熟した頃に姿を消した。アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。この古代文化は、3世紀から13世紀に樺太、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に展開された。うち北海道に分布するこの文化の遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推測されている。 アイヌ文化 擦文文化は、オホーツク文化や本州以南の日本文化の影響を受けてアイヌ文化へと移行した。イナウや捧酒箸を用いた神事、イオマンテ、アットゥシの着用などの「いわゆるアイヌ文化」の成立時期は日本本土における鎌倉時代の事とされる。アイヌ文化期は明治期に和人の進出が本格化するまで続いた。和人進出(奈良時代 - 鎌倉時代)

    古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場している。事実かどうかは諸説あるが、『日本書紀』には、斉明天皇が阿倍比羅夫に命じ、蝦夷を征するため、渡島へ1万の軍勢を送ったとある。比羅夫は蝦夷を下し、さらに降伏した蝦夷とともに粛慎なる異民族を討ち、捕虜を連れ帰ったという[5]。

    奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行なった。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていた。恐らく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられている。

    中世以降、北海道の住民は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、北海道の地は蝦夷が島、蝦夷地(えぞち)など様々に呼ばれた。古代の蝦夷(えみし)は農耕も生活の柱としていたが、次第に狩猟・漁業に特化し、鉄などを日本人(和人)の交易で得るようになっていった。

    また鎌倉時代以降になると、後の松前藩や和人地の基礎となった渡党の活動が見られるようになる。

    松前藩(室町時代 - 江戸時代)
     
    松前崇広は、江戸時代末期の大名。蝦夷松前藩の12代藩主。

    室町時代には、渡島半島南端(後の和人地)に和人、渡党、アイヌが居住し、豪族が館を構えていた[6]。和人の築いた道南十二館のひとつである勝山館跡では和人とアイヌの混住が考古学的にも確認されている[7]。当地に割拠していた館主(たてぬし)らは安東氏と被官関係を結んでおり、かれらが北海道に渡った時期は不明であるが、その多くは鎌倉時代に津軽や糠部の北条氏所領の代官層であった侍の子孫とも考えられている[8]。室町・戦国期には本土から和人の渡海者が増え、現地のアイヌとの間に対立が起きたという。近世以前の北海道に関しては松前藩の由緒を記した『新羅之記録』(寛永20年(1643年)成立)があり、同書に拠れば康正3年/長禄元年(1457年)に起きたコシャマインの戦いで、甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広がアイヌの指導者コシャマインを殺し、和人の勝利を決した。信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は後に松前の氏を名乗り、代々蝦夷地の南部に支配権を築いた(松前藩)。

    松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、アイヌとの交易条件を自らに有利なものに変えていった。アイヌはシャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いで蜂起したものの、松前藩によって鎮圧された。天明4年(1784年)からは蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。

    江戸時代後期に、ロシアがシベリアから領土を広げつつ日本と通商を求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本に北海道近辺で接触した。中にはゴローニンや高田屋嘉兵衛のように相手国の捕虜になった人もいた(ゴローニン事件)。ロシアの脅威に対する北方防備の必要を認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者に蝦夷地を(樺太・千島列島を含め)探検させ、地理的な知識を獲得した。また、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)には西蝦夷地を松前氏から取り上げた。また、統治機構として享和2年(1802年)に蝦夷奉行を置き、後に箱館奉行、松前奉行と名を変える。幕府の統治はアイヌの負担を若干軽減したが、基本的な支配構造には手を付けなかった。ゴローニン事件解決以降、ロシアの領土拡大的な南下が停滞したため、奉行は文政4年(1821年)に廃され、全蝦夷地は松前藩に還付された。

    近代(明治 - 昭和前期)

    律令制・幕藩体制の延長期

     
    箱館府の置かれた五稜郭の函館奉行所(函館市)
    移住者の出身府県 戸数別(明治15年〜昭和10年)[9]出身府県 戸数 青森県 68,855 秋田県 64,067 新潟県 61,636 宮城県 51,831 富山県 48,445 石川県 47,901 岩手県 40,318 山形県 39,009 福島県 33,122 福井県 27,392 東京府 21,862 徳島県 17,970 岐阜県 15,297 香川県 14,367 広島県 10,777 愛知県 9,377 愛媛県 9,239 兵庫県 9,047 鳥取県 7,665 茨城県 6,950 滋賀県 6,533 長野県 5,956 高知県 5,810 岡山県 5,563 栃木県 5,473 静岡県 5,234 奈良県 5,049 大阪府 5,033 福岡県 5,017 山口県 4,951 神奈川県 4,948 三重県 4,914 千葉県 4,670 山梨県 4,642 和歌山県 4,559 群馬県 3,891 埼玉県 3,890 京都府 3,751 熊本県 3,481 島根県 3,150 佐賀県 2,602 鹿児島県 2,505 大分県 2,472 長崎県 1,500 宮崎県 624 沖縄県 67 その他 5,794 総数 717,206

    慶応4年/明治元年4月12日(1868年5月4日)に、新政府は蝦夷地にそれまで置かれていた箱館奉行を箱館裁判所に置き換え、すぐにその名を箱館府と改めた(府藩県三治制)。これに伴い、道内でもそれまでの公議御料(幕府直轄領)は天領(天皇の御料)となった。ただし、明治元年12月(1869年1月)旧幕府軍が五稜郭を占拠し榎本武揚を首班とする「蝦夷共和国」が成立、翌年にかけて新政府軍との間で戊辰戦争の一つ箱館戦争が戦われた。旧幕府側の降伏直後の明治2年(1869年)、和人地および蝦夷地(北州)には大宝律令の国郡里制を踏襲し北海道11国86郡が置かれた(→北海道 (令制))。同年7月(天保暦)館藩(松前藩)領以外は箱館県(箱館府の後身)から引き継ぐ開拓使(「使」という名称は、律令制下で使用された臨時の独自な任務をこなす令外官である。東北地方などには按察使が置かれた)が設けられ北海道の開拓は本格化した。当初、開拓使直轄領以外では、道外の藩・士族・寺院・華族などによる幕藩体制と同様の北海道の分領支配も行われていた[10]。また、同年10月場所請負制が漁場持と名称を変えしばらくの間存続することとなった。

    北海道11国86郡(1869年設置) 郡 読み 渡島国 亀田郡 かめだ 茅部郡 かやべ 上磯郡 かみいそ 福島郡 ふくしま 津軽郡 つがる 檜山郡 ひやま 爾志郡 にし 後志国 久遠郡 くとう 奥尻郡 おくしり 太櫓郡 ふとろ 瀬棚郡 せたな 島牧郡 しままき 寿都郡 すっつ 歌棄郡 うたすつ 磯谷郡 いそや 岩内郡 いわない 古宇郡 ふるう 積丹郡 しやこたん 美国郡 びくに 古平郡 ふるびら 余市郡 よいち 忍路郡 おしよろ 高島郡 たかしま 小樽郡 おたる 郡 読み 胆振国 山越郡 やまくし 虻田郡 あぶた 有珠郡 うす 室蘭郡 むろらん 幌別郡 よりへつ 白老郡 しらおい 勇払郡 ゆうふつ 千歳郡 ちとせ 石狩国 石狩郡 いしかり 札幌郡 さっぽろ 夕張郡 ゆうばり 樺戸郡 かばと 空知郡 そらち 雨竜郡 うりゆう 上川郡 かみかは 厚田郡 あつた 浜益郡 はまましけ 天塩国 増毛郡 ましけ 留萌郡 るもい 苫前郡 とままえ 天塩郡 てしほ 中川郡 なかかわ 上川郡 かみかは 郡 読み 北見国 宗谷郡 そうや 利尻郡 りしり 礼文郡 れふんしり 枝幸郡 えさし 紋別郡 もんべつ 常呂郡 ところ 網走郡 あばしり 斜里郡 しゃり 日高国 沙流郡 さる 新冠郡 にいかっぷ 静内郡 しずない 三石郡 みついし 浦河郡 うらかわ 様似郡 さまに 幌泉郡 ほろいずみ 十勝国 広尾郡 ひろお 当縁郡 とうふち 上川郡 かみかは 中川郡 なかかわ 河東郡 かとう 河西郡 かさい 十勝郡 とかち 郡 読み 釧路国 白糠郡 しらぬか 足寄郡 あしょろ 釧路郡 くしろ 阿寒郡 あかん 網尻郡 あはしり 川上郡 かわかみ 厚岸郡 あつけし 根室国 花咲郡 はなさき 根室郡 ねむろ 野付郡 のつけ 標津郡 しべつ 目梨郡 めなし 千島国 国後郡 くなしり 択捉郡 えとろふ 振別郡 ふれへつ 紗那郡 しやな 蘂取郡 しへとろ 得撫郡※ うるっぷ 新知郡※ しむしる 占守郡※ しゅむしゅ

    ※ 得撫郡、新知郡、占守郡の3郡は、1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約により得撫島以北の千島列島を編入したため千島国に加わった

    注:よみがなは『新北海道史』による
    明治維新の変遷期 明治3年(1870年)、根室国の花咲郡、根室郡、野付郡が東京府の所領となったが、同年末に返上。 明治3から4年(1870年 - 1871年)本願寺道路が建設される。 明治4年(1871年)5月に開拓使庁も函館から札幌に移転。同年の明治4年7月14日(8月29日)廃藩置県に伴い館藩の旧領(爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡)に館県設置。その直後に分領支配も終わり、館県以外の地域はすべて開拓使の直轄となった。同年旧暦9月、館県は道外の弘前県などと合併、弘前県(青森県)の一部となり消滅。明治5年10月(1872年)、福島郡など四郡(旧館県)が青森県から開拓使に移管。これにより、北海道全域が開拓使の所管となる。また、札幌農学校の開校もこの年で、同年旧暦10月10日(11月10日)には大区小区制が施行され、明治5から6年[* 3](1872年 - 1873年)には札幌本道が建設されている。1874年(明治7年)には開拓と北辺の守りを固めるため屯田兵の駐屯が開始された。1876年(明治9年)9月には漁場持(場所請負制)廃止。1879年(明治12年)7月23日、郡区町村編制法(明治11年7月22日太政官布告第17号)を施行。1885年(明治18年)の太政官廃止に先立つ1882年(明治15年)、開拓使は設置からわずか13年で廃止された。
     
    1888年建設の道庁旧本庁舎(札幌市)
    近代行政機関の設置 開拓使を置き換えるように北海道全体として初の近代行政区画・近代行政機関である函館県、札幌県、根室県の3県(三県一局時代)が設けられた(内閣制の発足は1885年(明治18年)12月22日である)が、当時は人口も少なく非常に偏った分布(特に根室県の人口は著しく少なかった)で3県体制が機能していないことから、1886年(明治19年)には道内全域を管轄する北海道庁が置かれた。1896年(明治29年)になると旭川にて陸軍第七師団が編成され、1899年(明治32年)10月1日には北海道区制および北海道一・二級町村制が施行されている。明治政府の政策により多くの人が全国各地から移住し、道内各地に開拓の波が押し寄せた。特に東北地方と北陸地方からの移住者は全体の7割近くを占め、言語や習慣などの点で北海道文化の礎となった。これにともない官営幌内鉄道や北海道官設鉄道をはじめとする鉄道や国道が建設されたが、網走刑務所に代表されるように、懲役刑の一環として行われた面もある。石炭が産出されることから、数多くの炭鉱が開発され、輸送するための鉄道が縦横に張り巡らされた(明治29年北海道鉄道敷設法、大正11年改正鉄道敷設法)。人口も増加し、1922年(大正11年)4月20日には市制を施行し北海道区制を廃止。

    1943年(昭和18年)3月20日には町村制の改正により北海道一・二級町村制が廃止(旧二級町村は特例で指定町村と)された。1946年(昭和21年)9月27日の府県制改正にともない、北海道における自治制度を規定していた「北海道会法」と「北海道地方費法」が廃止されて「道府県制」に移行し、指定町村の特例も廃止されている。もっとも、和人の「開拓」はアイヌにとっては土地収奪と強制移住を伴うものであり、「日本による侵略」であったとする見方もある(本多勝一など)。

    移住者の出身地域 戸数別(明治15年〜昭和10年)[9] 東北地方
      
    41.4% 北陸地方
      
    25.8% 関東地方
      
    7.2% 四国地方
      
    6.6% 中部地方(北陸除く)
      
    5.6% 近畿地方
      
    5.4% 中国地方
      
    4.5% 九州地方
      
    2.5% 沖縄地方
      
    0.0% その他
      
    0.8%
    気象害

    1902年(明治35年)、1913年(大正2年)、1931年(昭和6年)、1941年(昭和16年)は冷夏になり、農作物の収率が例年の半分以下になる大凶作となった[11]。また、1912年(明治45年)3月、暴風雪が発生し、死者68人の被害[12]。

    1932年(昭和7年)8月25日から15日間道内で降り続いた雨は石狩川、天塩川、幌内河、夕張川、美唄川、江別川などを氾濫させた[13]。前年の凶作に追い打ちをかける水害により農村部は疲弊した。

    1936年(昭和11年)10月3日、北海道全域で暴風雨。釧路市では民家の裏山が崩れ死者7人[14]。渡島半島では大島村で死者16人、小島村で死傷者16人、吉岡村で死者1人。どの町村も民家の流失多数。港湾施設も道路や船入澗(防波堤、係留施設)が大破して漁船が全滅に近い状態となった[15]。

    昭和戦後

    1950年(昭和25年)、北海道を開発するため、調査・立案及び実施に関する事務を担当する北海道開発庁が総理府の外局として設置された。北海道内には北海道開発局と各地方に開発建設部が置かれ、開発の任に当った。第二次世界大戦の復員兵や、旧植民地からの帰還者の受け入れ先として北海道が注目され、人口が急増した。

    戦後復興と高度経済成長期の初めは、北海道産の石炭が重宝され、多くの炭鉱労働者が北海道で暮らしたが、1960年代に石油へのエネルギー転換が起こり、1980年代までにほとんどの炭鉱が閉山された。これに伴い、不要になった鉄道が相次いで廃止され、市民生活の自動車化が推し進められた。道路網の整備が行われ、道央自動車道をはじめとする高速道路が建設された。他の都府県は直轄国道(旧一級国道)以外の整備補修を自ら行うのに対し、北海道はすべての国道を国が管理する体制がとられた。

    1967年(昭和42年)には旭川市旭山動物園が開園し、1968年(昭和43年) には北海道百年記念祝典が開催された。

    また、1971年(昭和46年)に日本で4番目の地下鉄となる札幌市営地下鉄が開業。翌1972年(昭和47年)にはアジア初の冬季オリンピックである第11回冬季札幌オリンピックが開催され、オリンピック後の4月1日には札幌市が政令指定都市に指定された。

    1988年(昭和63年)7月20日には、新千歳空港が千歳空港に代わる民間航空用の空港として開港した。

    平成期

    2001年(平成13年)の中央省庁再編により、北海道開発庁は統合され、国土交通省北海道局となった。それに伴い、北海道開発局は国土交通省の地方支分部局となった。

    2003年(平成15年)9月26日午前4時50分頃、 十勝沖地震 - Mj 8.0Mw 8.0〜8.3)、北海道新冠町・静内町・浦河町・鹿追町・幕別町・豊頃町・忠類村・釧路町・厚岸町で最大震度 6弱、死者・不明者2人。津波警報が発表され2メートルを超える津波が来襲し2人が飲み込まれ、2年後に1人が遺体で発見された。

    2008年(平成20年)7月7日〜7月9日 - 北海道洞爺湖サミット開催。

    2010年(平成22年)、支庁制度改革、支庁を「総合振興局・振興局」と改称。

    2018年(平成30年)9月6日午前3時8分頃、胆振地方中東部(北緯42.7度 東経142.0度)で最大震度7 (M.6.7) を観測する北海道胆振東部地震が発生した。厚真町では震度7を観測した。北海道で震度7を観測したのは観測史上初。

    ^ 関口明「文化は北から南から」10-13ページ(田端宏・桑原真人・船津功・関口明『北海道の歴史』山川出版社 2003年3月) ^ 関口明「文化は北から南から」23ページ(田端宏・桑原真人・船津功・関口明『北海道の歴史』山川出版社 2003年3月) ^ 菊池俊彦「縄文時代の北海道」 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編『列島の古代史 ひと・もの・こと 1 古代史の舞台』岩波書店 2006年 14-15頁 ^ “「函館市史」通説編1 2編4章3節-5”. archives.c.fun.ac.jp. 2019年10月11日閲覧。 ^ “いしかり博物誌/第10回 日本書紀と石狩川”. 石狩市 (2014年7月13日). 2020年5月19日閲覧。 ^ 田端宏・桑原真人・船津功・関口明 『県史1 北海道の歴史』 山川出版社、2015年第2版3刷、58-59頁。 ^ 瀬川拓郎 『アイヌの歴史 海と宝のノマド』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2007年、42-43頁、229頁。 ^ 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 草風館、2015年、126-127頁。 ^ a b 北海道の開拓と移住 ^ 北海道はかつて38団体・個人が分割統治していた?明治初期の分領支配時代の真相 ^ “図説:東北の稲作と冷害”. 農研機構. 2021年8月9日閲覧。 ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p289 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067 ^ 二十日余降やまず、浸水一万戸『東京朝日新聞』昭和7年9月11日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p198 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 大演習の北海道に暴風雨襲来『北海タイムス』昭和10年10月5日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p683) ^ 渡島半島の被害甚大『北海タイムス』昭和11年10月5日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p683 )


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