万里の長城(ばんりのちょうじょう、中国語: 万里长城、拼音: Wànlǐ Chángchéng ワンリー チャンチョン、モンゴル語: Цагаан хэрэмᠴᠠᠭᠠᠨ
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、満州語: ᡧᠠᠩᡤᡞᠶᠠᠨ
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šanggiyan jase)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6 kmである。

 
各時代の長城。      戦国期の各国長城       秦の長城       前漢の長城       北魏の長城       北斉・隋の長城       金の長城       明の長城
万里の長城以前

国境に沿った長大な防御壁、いわゆる長城を最初に建設したのは斉[1] または楚[2] とされ、春秋時代に建造はさかのぼるとされる。やがてこの長城建造は他国にも波及し、戦国時代には外敵に備えるために、斉や韓、魏や楚のように北方牧民族と接していない国も含めた戦国七雄のすべての国々が特に警戒すべき国境に長城を建設していた。そのなかで、遊牧民族に備えるために北の国境に長城の建設を行っていたのは燕、趙、秦の3か国であった。秦の長城は現在の甘粛省岷県から北東に、黄土高原を貫いて現在のフフホト市トクト県まで伸びていた。趙の長城は本来の趙の本拠地からはるかに北に離れた黄河の北岸から現在の河北省にかけて走っており、さらに黄河屈曲部の河套平原の北、陰山山脈の南麓にもう一本長城を建設していた。これは国土北部に広がる遊牧地帯への勢力拡張と、その先にある広大な可耕地である河套平原の確保を目的としていたとされる[3]。燕の長城は長大であり、現代の河北省北部から遼寧省を取り囲むように伸び、さらに鴨緑江を越えて朝鮮半島にまで伸びていた。この長城は戦国時代初期に燕が東胡を圧迫して得た遼西・遼東の新領土を確保するために建設されたものであり、建設時期としては各国長城の中で最も新しいものの一つであった[4]。

建設

こうした長城をつなげ、「万里の長城」と呼ばれる一体化した大長城に再構築したのが始皇帝である。彼は中華を統一後に国内にある長城を取り壊すと、遊牧民族に備えるために北に作られた3か国の長城を修復・延長し、繋げて大長城としたのである。この時の長城は版築により粘土質の土を固めて築いた建造物であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、場所にもよるが多くの区間はそれほど高くない城壁(幅3 - 5 m、高さ約2 m)だったという。この時の長城は東部においては現在の物よりかなり北に、西部においてはかなり南に位置しており、現在の甘粛省岷県から陝西省北部、内モンゴル自治区南部、河北省北部から遼寧省北部を通り、その東端は朝鮮半島に及んだ。また趙の築いた陰山山脈の長城もそのまま修復・維持されていた[5]。

武帝による修復と延長  敦煌にある前漢の長城

始皇帝の没後秦は崩壊し、その混乱の隙をついて北方では匈奴が強盛となり、中原王朝を圧迫するようになった。このため長城は前漢にも引き継がれたものの、修復と維持にとどまって延長工事は行われず、また匈奴の領域となった河套平原の北の長城は放棄されていた。この状況が大きく変化するのは武帝の時代である。武帝は匈奴に対し積極攻勢に打って出て領土を大きく拡張し、その新領土を守る形で長城を延長していった。まず紀元前127年に衛青が黄河屈曲部以南および河套平原を占領すると、すぐに陰山山脈の長城を復活させて守りを固めた[6][7]。ついで紀元前121年に霍去病が祁連山脈北麓のオアシス都市群、いわゆる河西回廊を獲得し西域諸国へのルートを確保すると、紀元前111年にこの地域を守るための長城建設が開始され、紀元前100年には完成した[8]。これにより長城は黄河上流からはるかに西へと延長され、玉門関にまで達した。さらに紀元前102年には陰山山脈の長城のさらに北、山脈北麓に2本の長城を増設し、防衛線をさらに北進させた。同時に河西回廊においても、酒泉から流れる弱水の流れに沿って長城が建設され、さらに弱水の終点であるオアシス・居延沢を囲むように長城が建設された。先述の陰山北麓の長城は居延の長城と連携できる位置に建設され、これによって黄河から河西回廊にいたる広大な砂漠・草原地帯が匈奴から漢の領域に併呑された。また、これにより長城の総延長は約20000里(7930 km)に達した[9]。この漢の長城はすべての長城の中でも最も長く、西は現在の甘粛省西端にある玉門関から東は朝鮮半島北部にまで達していた。

長城の放棄と南北朝時代の復活

しかしこの長城も8年に建国された新王朝期の混乱によって大打撃を受け、25年に後漢が建国されたころにはかなり荒廃した状態となっていた。光武帝期にはやや復興の兆しがあったものの、結局のところ維持ができず、後漢の半ばごろには長城は放棄されてしまった。その後、三国時代や五胡十六国時代には北方異民族の力が強くなり頻繁に侵入が繰り返されたものの、中原の諸王朝に長城を維持する国力はなく、長城防衛は放棄されたままだった。

長城防衛が復活するのは、華北を統一した鮮卑族の北魏王朝の時代である。この時期、北魏のさらに北方に柔然が勃興し勢力を強めたため、北魏は423年に首都平城の北側、現代の北京の北側から陰山山脈の南麓にかけて長城を建設し、その来襲に備えた[10]。この長城は、漢代長城よりかなり南寄りに位置し、東部はほぼ現在の線に沿ったラインに建設されていた。この長城はその後渤海にまで延長され、東西分裂後の東魏、さらには北斉にも引き継がれた。北斉の時代には柔然に代わって突厥が勢力を拡大し盛んに南進したため、この長城に加え、さらに華北平原の北、山海関から北魏の長城まで長城を延長し、さらにそこから太行山脈の南端まで長城を建設することで、首都鄴のある華北平原を取り囲む一大長城を建設した。さらにその西、晋陽の西側の山脈に南北に走るもう一つの長城を建設し、領土を長城で固く守る体制を作り上げた[11]。この長城は552年から565年にかけて建設されたが、北斉の内政は混乱を続けており、北周の侵攻に長城は何の役割も果たさないまま577年に北斉は滅亡した。北周を簒奪して建国され、のちに中国を統一した隋もこの長城を維持し、さらに文帝は首都大興を守るために黄土高原を東西に横切る長城を建設した。煬帝もいくつかの長城を建設している。

その後、唐王朝は長城防衛そのものをふたたび放棄し、その後の五代十国や宋王朝もこの方針を引き継いだため、長城はしばらく中国史から姿を消した[12]。ただし、漢民族の王朝ではなかった西夏[13]、遼も長城のような防衛線を定めて城を築いていた。

金の界壕

長城が復活を遂げたのは、女真の建国した金の時代であった。金はさらに北方からの襲撃を恐れ、国境の線に沿って界壕と呼ばれる長大な空堀を掘った。界壕の内側には掘った土を盛り上げて城を築き、ここで実質的に長城防衛が復活した。界壕の位置は時代によって異なり、1138年ごろに最初に築かれた界壕は現代の内モンゴル自治区北部、呼倫湖の北側を走っていた。その後、そこからかなり南下した内モンゴルの草原の中に1181年ごろに界壕が築かれ、さらに1190年ごろには大興安嶺山脈の北に沿って界壕が築かれた。これらの界壕の建造場所は徐々に南下しており、金が草原地帯の支配権を失っていき領土が縮小していったことを示している[14]。この界壕は非常に堅固なものであったが、モンゴル人の建国したモンゴル帝国によって難なく突破され、長城を越えて侵入したモンゴルによって金は滅亡した。金に代わって中国を支配するようになったモンゴル人の元は長城を築かなかった。

現存長城の建設  万里の長城(明代) 清代後期の長城の古写真(1907年)

南方から興った中国人の王朝である明が元王朝を北方の草原へ駆逐しても、首都を江南の南京に置いた朱元璋は長城を復活しなかった。長城防衛を復活させたのは明の第3代皇帝である永楽帝である。首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した永楽帝は、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られ、北方国境全域において長城を建設した。しかし長城防衛が本格化していくのは永楽帝の時代ではなく、第5代の宣徳帝の時代になってからである。この時代に、永楽帝時代に北進していた前線を後退させ、かわりに長城による防衛が用いられるようになったためである。この長城防衛は、1449年の土木の変によって正統帝がオイラトのエセン・ハーンに捕虜とされたことからより重視されていくようになった。それまでの版築による低い長城から、磚(レンガ)による堅固な長城へと改築が進められたのもこの時代である。長城そのものも新設や延長が繰り返され、西は甘粛省西部にある嘉峪関から河西回廊の諸都市を守る形で東へ走り、銀川盆地の北側から黄土高原を西進し、山西省の北側の稜線を通って燕山山脈を走り山海関に達する長大な長城が完成した。山海関付近からは、さらに遼西遼東を守る形で北方に伸びた部分も15世紀には建設され、東端は李氏朝鮮との国境である鴨緑江にまで達していた。さらに長城は一本だけではなく、長城主線の補助として銀川付近から北京北方にいたるまでの間は二本目の長城が築かれ、二重の守りを固めていた[15]。特に首都北京周辺は長城が近接していることもあり厳重に守りが固められた。しかし長く伸び過ぎた長城を守ることは難しく、しばしば遊牧民は長城を突破した。1550年には庚戌の変が起き、モンゴルのアルタン・ハーンが長城を突破して北京を包囲している。これを受け、1568年には譚倫や戚継光らによって北京北方の長城が大規模に改修された[16]。

明末に満洲族(女真)が勃興して1616年に後金を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返された。遼東に張り出すように伸びていた部分はヌルハチによって破られ、1619年のサルフの戦いによって山海関以東の地域はほぼ後金の手に落ち、長城は山海関にまで後退した。その後も後金は明に対して有利に戦いを進めるも、名将袁崇煥に阻まれ長城の東端の山海関を抜くことができなかった。袁崇煥は後金の謀略にかかった明の崇禎帝に誅殺された。その後に明は李自成に滅ぼされ、後金から改名していた清は、明の遺臣の呉三桂の手引きにより山海関を越え、清の中国支配が始まった。その後、清は長城防衛を行うことはなく、長城は放棄された。

^ 「万里の長城 攻防三千年史」p23 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ 「万里の長城」p17 長城小站編著 馮暁佳訳 恒文社 2008年11月25日第1版第1刷 ^ 「万里の長城 攻防三千年史」p64-66 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ 「万里の長城」p39-40 長城小站編著 馮暁佳訳 恒文社 2008年11月25日第1版第1刷 ^ 「万里の長城」p46 長城小站編著 馮暁佳訳 恒文社 2008年11月25日第1版第1刷 ^ 長城と防衛線沿いの城址遺跡の報告は、「長城資源調査報告」として文物出版社(北京)から刊行されている ^ 森谷一樹「内外モンゴル・河西回廊・楼蘭における一辺130 mの囲郭遺跡の分布と展開-衛星画像・GISの歴史学・考古学への応用-」https://doi.org/10.24517/00064490 ^ 「万里の長城 攻防三千年史」p94 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ 「万里の長城 攻防三千年史」p98-102 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ 「万里の長城」p49 長城小站編著 馮暁佳訳 恒文社 2008年11月25日第1版第1刷 ^ 「万里の長城 攻防三千年史」p148-151 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ 「万里の長城 攻防三千年史」p143-178 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ コヴァリョフ・エルデネバータル「タングートの国、西夏の北疆:考古学的証拠と史料にもとづいた [英文] https://doi.org/10.24517/00064491」 ^ 「万里の長城 攻防三千年史」p183 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ 「万里の長城 攻防三千年史」p212-213 来村多加史 講談社現代新書 2003年7月20日第1刷 ^ 「万里の長城」p156 長城小站編著 馮暁佳訳 恒文社 2008年11月25日第1版第1刷
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