シタデル・ラフェリエール

シタデル・ラフェリエール(Citadelle Laferrière)は、ハイチ北部のラ・フェリエール山の頂に築かれた巨大な要塞である。シタデル・アンリ・クリストフ(Citadelle Henri Christophe)、あるいは単に「シタデル」とも呼ばれる。この巨大石造建築物は、独立してまもないハイチを旧宗主国であるフランスの侵攻から守るための要塞化の一環として、20万人もの奴隷労働者を使い、1805年から1817年に建てられた。

シタデルは、その威容からハイチの国民的シンボルになっており、観光省のポスター、通貨、郵便切手などのデザインにもなっている。のみならず、この要塞は西半球最大のものであり、1982年には近隣のサン=スーシ宮殿などとともに、「シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園」の名でユネスコの世界遺産に登録された。

シタデル・ラフェリエールは、ジャック砦(Fort Jacques)やアレクサンドル砦(Fort Alexandre)などとともに、ハイチの防衛システムを構成するものであった。ジャック砦もアレクサンドル砦もジャン=ジャック・デサリーヌが旧宗主国フランスの侵攻に備えて、1805年に建造を命じていたもので、ポルトープランスの防備を目的としていたものである。

シタデル・ラフェリエールは、1805年にアンリ・クリストフが主導する形で建造を命じられた。そのとき、クリストフはハイチの将軍であり、北部地方のchief administratorだった。クリストフはアレクサンドル・ペションと共謀して、1806年にハイチ皇帝デサリーヌに反旗を翻した。デサリーヌの死後、クリストフとペションの間で権力闘争が持ちあがり、ハイチは南北に分断された。北部を掌握したのがクリストフで、彼は1811年にハイチ国王アンリ1世として即位することを宣言した。

クリストフはある侵攻に際して、自軍に海岸沿いの有用な作物や食料を焼き払わせ、山頂のシタデルに続く一本道に待ち伏せを仕掛け、籠城することを計画したこともあった。

クリストフの王政はその独裁性から長続きせず、1820年に軍隊の一部が反乱を起こし、ほどなくしてクリストフはサン=スーシ城で自殺した。伝説によれば、自らを銀の小銃に込めた黄金の弾丸で撃ち抜いたという。彼の忠臣たちは生石灰で遺骸を覆い、損壊されないようにとシタデルの中庭の一つに葬った。

写真提供者:
SPC Gibran Torres, United States Army - Public domain
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