Gjirokastra

( ジロカストラ )

ジロカストラ(アルバニア語: Gjirokastër、ギリシア語: Αργυρόκαστρο、トルコ語: Ergiri、イタリア語: Argirocastro)はアルバニア南部の人口43,000人の都市である。歴史的な地域であるエピルス地方にあり、ジロカストラ州とジロカストラ県の首府である。旧市街は世界遺産に登録され、希少なオスマン帝国時代の町並みや農民によって築かれた多くの歴史遺産が残されている。ジロカストラはジロカストラ山とドリノ川の間の谷に位置し、海抜は300メートルである。ジロカストラ城が市内を見下ろし、5年ごとにジロカストラナ民族文化フェスティバルが開かれている。ジロカストラは共産主義時代の指導者エンヴェル・ホッジャやアルバニアの著名な作家イスマイル・カダレの出身地で、市内にはエチェレム・チャベイ大学がある。

ジロカストラが歴史的な記録に現れたのは1336年で、名称はギリシャ語でアルギロカストロ(Argyrokastro)。当時は東ローマ帝国の領域の一部であった。のちにアルバニア人貴族ジョン・ゼネビシ(1373-1417)の公国であったジロカストラ公国の中心地となる。その後、5世紀にわたりオスマン帝国の支配下となった。バルカン戦争時にはギリシャ人が居住していることを根拠としてギリシャ陸軍によって占領されたが、1913年に新たに独立を宣言したアルバニアに組み込まれる。これに反発した地元のギリシャ人たちは、ゲリラ闘争によって続きを読む

ジロカストラ(アルバニア語: Gjirokastër、ギリシア語: Αργυρόκαστρο、トルコ語: Ergiri、イタリア語: Argirocastro)はアルバニア南部の人口43,000人の都市である。歴史的な地域であるエピルス地方にあり、ジロカストラ州とジロカストラ県の首府である。旧市街は世界遺産に登録され、希少なオスマン帝国時代の町並みや農民によって築かれた多くの歴史遺産が残されている。ジロカストラはジロカストラ山とドリノ川の間の谷に位置し、海抜は300メートルである。ジロカストラ城が市内を見下ろし、5年ごとにジロカストラナ民族文化フェスティバルが開かれている。ジロカストラは共産主義時代の指導者エンヴェル・ホッジャやアルバニアの著名な作家イスマイル・カダレの出身地で、市内にはエチェレム・チャベイ大学がある。

ジロカストラが歴史的な記録に現れたのは1336年で、名称はギリシャ語でアルギロカストロ(Argyrokastro)。当時は東ローマ帝国の領域の一部であった。のちにアルバニア人貴族ジョン・ゼネビシ(1373-1417)の公国であったジロカストラ公国の中心地となる。その後、5世紀にわたりオスマン帝国の支配下となった。バルカン戦争時にはギリシャ人が居住していることを根拠としてギリシャ陸軍によって占領されたが、1913年に新たに独立を宣言したアルバニアに組み込まれる。これに反発した地元のギリシャ人たちは、ゲリラ闘争によって北エピルス自治共和国を成立させ、ジロカストラに首都を置いたが、ジロカストラを含む北エピルスは1921年には最終的にアルバニア領となった。アルバニアに政治危機を引き起こした1997年のアルバニア暴動は、市内にも及んだ。

アルバニア人と並んで、かなりのギリシャ人マイノリティーが市内に居住している。 ジロカストラは、サランダとともにアルバニアにおけるギリシャ人コミュニティーの中心であると考えられており、市内にはギリシャの領事館が置かれている。

ジロカストラでは鉄器時代に遡る陶器が発見され、それが最初に現れたのは青銅器時代後期のエルバサン県パズホクで、アルバニアのいたるところでこれらの陶器が発見されている。[1]ジロカストラ周辺で人が最初に住み始めた記録では、ギリシャ人の部族であるハオニア人(英語版)の名が記されている。

町の城壁は3世紀に遡る。高い石の壁の城塞は6世紀から12世紀にかけ建築された。[2]この間、ジロカストラは大きな商業的な中心として開発されアルギロポリス Argyropolis (古代ギリシア語: Αργυρόπολις, 銀の都市の意)やアルギロカストロン Argyrokastron(古代ギリシア語: Αργυρόκαστρον, 銀の城の意)として知られていた。[3]

 メラニテッケ

町は東ローマ帝国、エピロス専制侯国の領域の一部となり、最初の記録ではアルギロカストロと東ローマ皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスによって1336年に言及されている。[4]1336年-1418年の間は、アルバニア人貴族ジョン・ゼネビシ(英語版)下のジロカストラ公国(英語版)の首都であった。

1417年になるとオスマン帝国の一部となり1419年にアルバニア・サンジャク(英語版)の首府となる。[5]オスマンの旅行家エヴリヤ・チェレビが1670年にジロカストラを訪れた時、200戸の住居が城壁内にあり、東側にはキリスト教徒の街区であるKyçyk Varosh(城外の小さな街区の意)に200戸が、Byjyk Varosh(城外の大きな街区の意)には150戸が、他に Palorto、Vutosh、Dunavat、Haxhi Bey、Memi Beyの6の街区が城の周辺の丘陵地に点在していた。[6]チェレビの記録によれば、町には当時2,000戸の住居と8つのモスク、3つの教会、280の商店、5つの泉、5つのキャラバンサライがあったとされる。[6]

1811年、ジロカストラはアルバニアで生まれたテペデレンリ・アリー・パシャが率いるヤニナ・パシャルク(英語版) の一部となり、バルカン半島南西部にある半自治の封建領地に変わって、1822年にアリー・パシャが亡くなるまで続いた。1868年にパシャリクが落ちると、エルジリ・サンジャクの首府になる。1880年7月23日にアルバニア南部の政治連盟プリズレン連盟の会議がジロカストラで行われ、オスマン帝国のアルバニア人人口が多い地域が他国に割譲された場合に反乱を起こすことが決定された。[7]

1831-1912年のアルバニア人の民族覚醒でジロカストラは運動の中心地となり、一部のグループはスカンデルベグの肖像を運び入れたと報告されている。スカンデルベグはアルバニアの国民的な英雄で、この時代の運動の象徴であった。[8]ジロカストラには多数のギリシャ人が居住しており、第一次バルカン戦争時(1912-1913)にギリシャ人により町の自治が要求され、ギリシャ人の領域となった。オスマンもこの時期になると、ジロカストラからは撤退している。[9] 

しかしながら、1913年のロンドン条約と1913年12月17日のフィレンツェ議定書によってアルバニアに与えられた。[10]この出来事による変化は地元のギリシャ人にはまったく支持されていないことを示し、ゲオルギオス・クリスタキス・ゾグラフォス(英語版)の下に集結し抵抗勢力が作られた。[11]組織はすぐに、ギリシャと合同で地元による自治か列強などによる国際的な軍の駐留をジロカストラやサランダ、コルチャに要求した。[12]

1914年3月、北エピルス自治共和国はジロカストラで独立を宣言し列強とコルフ議定書(英語版)で確認された。[13] しかしながら第一次世界大戦でアルバニアが崩壊したため、共和国は短命であった。[14] 1914年10月-11月にギリシャ軍が戻り、再びジロカストラをサランダやコルチャと共に攻略している。[15] 1916年4月にジロカストラを含むこの地域を「北エピルス(英語版)」と言及し、ギリシャに併合した。[15]パリ講和会議により戦前の状態に戻され、1913年のフィレンツェ議定書で決定された国境が支持され、ジロカストラは再びアルバニアの主権下に戻された。[16]1939年4月にジロカストラはイタリアのアルバニア侵攻に続いて、イタリアに攻略されている。ギリシャ・イタリア戦争中の1940年12月にギリシャ軍が市内に侵攻し、ナチス・ドイツの攻略と1941年4月に再びイタリアが支配する前の4か月間にわたり駐留した。1943年9月のイタリア講和後はドイツによって支配され、最終的に1944年にアルバニアは解放され、ジロカストラもアルバニアの主権に戻される。

第二次世界大戦後の共産主義政権下でのジロカストラは、工業や商業の中心として開発が進められた。博物館都市として地位が上がり、共産主義のリーダーであるエンヴェル・ホッジャの生誕地でもあるジロカストラでは、ホッジャの生家が博物館になっている。[17]共産主義の時代が終わった1991年以降、ジロカストラは経済的な問題に直面している。1993年にはギリシャ人マイノリティーとアルバニア警察との衝突の中心地にもなった。[18]1997年には大規模なねずみ講の破綻によるアルバニア経済の大混乱による影響をジロカストラでも受けている。[19] サリ・ベリシャ政権に対する反政府運動の中心となり、反体制派による暴動が起こり、最終的にサリ・ペリシャ政権は辞職する。1997年12月16日にホッジャの生家は何者かによる破壊の被害を受けるが、のちに修復されている。[20]

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ISBN 978-1-84511-287-5. https://books.google.co.jp/books?id=wPOtzk-unJgC&pg=PA23&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=Ergiri%20proved%20a%20major%20center%20of%20Albanian%20national%20activity&f=false 2010年9月30日閲覧。  ^ James Pettifer. “The Greek Minority in Albania in the Aftermath of Communism” (PDF). Camberley, Surrey: Conflict Studies Research Centre, Royal Military Academy Sandhurst. p. 4. 2010年12月20日閲覧。 ^ Pentzopoulos, Dimitri (2002). The Balkan Exchange of Minorities and Its Impact on Greece. London: C. Hurst & Co. p. 28. ISBN 1-85065-674-6  ^ Heuberger, Valeria; Suppan, Arnold; Vyslonzil, Elisabeth (1996) (German). Brennpunkt Osteuropa: Minderheiten im Kreuzfeuer des Nationalismus. Vienna: Oldenbourg Wissenschaftsverlag. p. 68. ISBN 978-3-486-56182-1. https://books.google.co.jp/books?id=edAu3dxEwwgC&q=nordepirus&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=panepirotische%20versammlung&f=false  ^ Ference, Gregory Curtis (1994). Chronology of 20th-Century Eastern European History. Gale Research. p. 9. 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