Schloss Schönbrunn
( シェーンブルン宮殿 )
シェーンブルン宮殿(シェーンブルンきゅうでん、ドイツ語: Schloss Schönbrunn)は、オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が、主に夏の離宮として使用した。
現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている(ID786)。
14世紀初頭、現在のこの地には「Khattermühle」と呼ばれる水車小屋が建っており、周辺の農地とともにクロスターノイブルク修道院の荘園とされていた[1]。修道院の良い財源であったが、1529年の第一次ウィーン包囲によって荒廃した[1]。その後、ヘルマン・バイアー(Hermann Bayr)が借り受け、「カッターブルク(Katterburg、のちにGatterburg)」という小さな城を築いた[1]。
1569年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世によって購入された[1]。マクシミリアン2世は一帯を狩猟地として利用した[2]。カッターブルクを改築し、広大なブドウ畑や動物の飼育園などを設け、しばしばこの地に逗留した[1]。
マクシミリアン2世の子・ルドルフ2世の治世下である1605年に、ハンガリーのボチカイ・イシュトヴァーンに襲撃されて破壊された[1]。1608年、ルドルフ2世の弟・マティアス大公の手に渡り、狩猟館が設けられた[1]。1619年、狩猟に興じていた皇帝マティアスによって「美しい(Schöner(シェーナー))泉(Brunnen(ブルンネン))」が発見され、これが「シェーンブルン」の由来となった[2]。マティアスの跡を襲ったフェルディナント2世は、この地を皇后エレオノーラ・ゴンザーガに贈った[1]。
1683年、第二次ウィーン包囲によって再び荒廃した[1]。
宮殿建設オスマン帝国の脅威が去った後、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、息子・ローマ王ヨーゼフの夏の離宮として、この地に新しい宮殿を建設することを決意した[1]。
第1計画案神聖ローマ帝国の往時の勢威を回復させたいという願望ゆえに、新しい宮殿には、神話や歴史からの陰喩を駆使する英雄的表現が期待された[4]。設計を嘱託されたヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハは、パリのヴェルサイユ宮殿に対抗して、それを模しつつも凌駕する、壮大な宮殿を計画した[2]。それは、神聖ローマ皇帝という存在はフランス王権を凌駕するものでなければならないと考える宮廷、領邦君主、貴族たちの願望の現れであった[4]。
この計画によれば、現在グロリエッテのある丘陵を宮殿の建設場所とし、斜面北側をテラスにして、それをグロットをもつ擁壁で支えることになっていた。そして主庭園は斜面南側に展開されることになっていた[1]。
第2計画案 「シェーンブルン宮殿」第2案(1696年)しかし、当時のハプスブルク宮廷の苦しい財政事情では第1案のように壮大な宮殿を建設することは現実的に困難だったため、計画は大幅に縮小されて、遥かに簡素な第2案が設計し直された[1]。
第2案は、宮殿を丘陵に建設するのは諦めてその下に建設し、主建築に両翼をつけるというものだったが、それも直ちには実現されなかった[1]。マリア・テレジア治世下の1750年頃、エルラッハの第2案を骨子として、ニコラウス・フォン・パカッシーによって完成された。
外壁は金を塗る計画であったが、マリア・テレジアが財政状況を考慮し、黄金に近い黄色にした[要出典]。これを「テレジア・イエロー」という[要出典]。
夏の離宮 1765年、兄・ヨーゼフ2世の婚礼を祝賀して踊る、当時10歳のマリー・アントワネット[5][6]マリア・テレジア以降のハプスブルク家(=ハプスブルク=ロートリンゲン家)は、シェーンブルンを夏の離宮として、好んで逗留した[5]。特によく利用したのは、マリア・テレジアとフランツ2世であった[5]。1762年10月13日、鏡の間において、マリア・テレジアの前で御前演奏を行ったモーツァルトは、退出するとき、すべって転んだ。これをマリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)が助け起こしたところ、モーツァルトが「あなたをお嫁さんにしてあげる」というような趣旨の発言をしたと伝えられる。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、毎年春秋をここで過ごし、晩年には王宮ではなくこちらに常住するようになった[5]。1916年11月21日、フランツ・ヨーゼフ1世はこの宮殿のベッドの上で崩御した。
1918年11月11日、「青磁の間」において最後のオーストリア皇帝カール1世が「国事行為の断念」を宣言した。カール1世の退去に伴い、オーストリア共和国政府の所有となった。
共和制移行後1961年、アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相との会談の場所となった。
1996年、ユネスコの世界遺産に登録された。
^ a b c d e f g h i j k l m 岡崎(1970), p. 10. ^ a b c 河野(2009), p. 40. ^ 岡崎(1970), p. 12. ^ a b 中村(1985), p. 99. ^ a b c d 岡崎(1970), p. 11. ^ 岡崎(1970), p. 13.
コメントを追加