Saaremaa

( サーレマー島 )

サーレマー島(サーレマーとう、エストニア語: Saaremaa)は、エストニアが領有するバルト海の島、西エストニア諸島の1つ。ドイツ語の呼称はオーゼル島(Ösel)、ロシア語の呼称はエーゼリ島Э́зель)。面積は2,673km2でエストニアの島の中で最も大きく、2016年当時の人口は約31,000人。地名の「サーレ」は島を意味する「サール(saar)」の属格形である。

島全体がサーレ県を構成し、クレサーレが県都に制定されている。サーレマー島では伝統的な文化が維持されており、独自の合唱、舞踏、民族衣装で知られている。

12世紀後半のサーレマー島の住民は海賊行為に従事しており、デンマークやスウェーデンの沿岸部に遠征し、略奪を行っていた[1]。

1227年に北方十字軍によってサーレマー島は征服される。十字軍に征服された後もサーレマー島では数十年にわたって島民の反乱が続いた[2]。14世紀後半にハープサルを本拠とするエゼル=ヴィーク司教がサーレマー島にクレサーレ城を建設し、城に居住するようになった。1343年にエストニア本土で起きた聖ゲオルギの夜の反乱はサーレマー島にも波及し、島民は島を支配するリヴォニア騎士団の城砦を攻撃した。反乱が鎮圧された後、クレサーレ城の防備は強化され、教会と防御施設を兼ねた聖マリア教会、マアシリン城が建設された[3]。

ドイツ人の支配は1557年まで続き、その後デンマークに売却された。1645年から1710年までの間スウェーデンの支配下に置かれ、大北方戦争の後にロシア帝国に編入される[4]。1840年代にクレサーレ郊外の湖の泥に医療的な効用があると喧伝され、20世紀初頭まで島はリゾート地として繁栄した[5]。

サーレマー島は戦略的に重要な拠点であり、第一次世界大戦、第二次世界大戦では戦場となった[4]。

第一次世界大戦中にドイツ軍がアルビオン作戦を展開した際、北岸に上陸して島を占領した。第一次世界大戦後は、エストニア領として帰属した。

1939年9月28日、ポーランド侵攻が行われている最中、エストニアはソ連との間で相互援助条約を締結。この条約は相互に軍事的援助を行うことを目的としており、ソ連はサーレマー島および隣のヒーウマー島を租借して海軍基地、航空基地を建設する権利を得た[6]。この結果、サーレマー島の飛行場はソ連の軍事飛行場となった[7]。1940年にエストニアはソ連に併合され、翌1941年にサーレマー島で赤色テロが起きた。1941年10月にサーレマー島はドイツ軍によって占領され、島民はソ連を支持する人間とドイツを支持する人間に分かれる[8]。1944年にサーレマー島南部のスルヴェ半島のテフマルディで起きたソ連軍とドイツ軍の夜戦は島で行われた戦闘の中で最も凄惨なものだといわれ、両軍の兵士の中にはエストニア出身者が含まれていた[9]。

ソ連時代のサーレマー島は「国境の島」として国境地帯に指定された沿岸部の住民は追放、あるいは監視され、島を訪れるにはエストニア人であっても警察、警備員の許可を受けなければならなかった[10]。エストニアがソビエト連邦から独立した後にサーレマー島は著しく発展し、クレサーレ城を中心とする町並みと自然で知られる観光地となっている[4]。

^ 小柏『バルト海を旅する40章』、48頁 ^ カセカンプ『バルト三国の歴史』、36頁 ^ 小柏『バルト海を旅する40章』、50-52頁 ^ a b c 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「c-jiten」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 小柏『バルト海を旅する40章』、68頁 ^ エストニアと相互援助条約を締結(『東京朝日新聞』昭和14年9月30日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 小柏『バルト海を旅する40章』、60頁 ^ 小柏『バルト海を旅する40章』、62頁 ^ 小柏『バルト海を旅する40章』、63-64頁 ^ 小柏『バルト海を旅する40章』、66-68頁
写真提供者:
Abrget47j - CC BY-SA 3.0 ee
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