Σαντορίνη

( サントリーニ島 )

サントリーニ島Σαντορίνη / Santoriniもしくは ティーラ島Θήρα / Thira)は、エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領の島。かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形(サントリーニ・カルデラ)の一部で、その外輪山にあたる。「サントリーニ島」の名はカルデラ全体、すなわち本島を含めた5つの島々(サントリーニ諸島)の総称としても用いられる。

カルデラ湾を望む断崖の上に白壁の家々が密集する景観でも知られており、エーゲ海の著名な観光地の1つである。一方で、サントリーニ・カルデラ内では現在も活発な火山活動がある。

地質学、歴史学の分野において、これらの群島が、かつては一つの大きな島であったと証明されている。紀元前1628年頃、海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)により、地中のマグマが噴き出してできた空洞状の陸地が陥没してカルデラを形成し[1]、現在のような形状になった。 この爆発的噴火は、エーゲ海一帯に惨禍をもたらし[2]、プラトンの著作『ティマイオス』に端を発する、大西洋、すくなくとも「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡)の向こうにあるとし[3]、洋上の理想郷・アトランティス伝説に大きな影響を与えたといわれている。ちなみに、この幻の大陸アトランティス伝説のもうひとつの有力なモデルが110キロメートルほど南にあるクレタ島で、ここではサントリーニ島とともに、かつてヨーロッパ最古の文明といわれるミノア文明が栄えていた[4]。サントリーニ島内の南部に、ミノア文明下の大規模な港湾都市遺跡・アクロティリ遺跡がある。 1956年、ギリシャの地震学者アンデロス・ガラノパウロスが、サントリーニ島こそアトランティスだとの新説をたてた[5]。

中世のヨーロッパでは、サントリーニ島は噴火と不死者の伝説によって恐怖の島として怖れられた[6]。第4回十字軍の後にヴェネツィア人が入植し、丘の上にカストロと呼ばれる城塞集落を築いた。17世紀の地図には5つのカストロが描かれているが、現存するカストロはピルゴスだけである。18世紀には農産物とワインの輸出に乗り出したギリシアの貿易商人達によって、係留した船が見下ろせるカルデラの絶壁に商館と集落が築かれるようになった。この時期に最も栄えたのがイアの街である[6]。

20世紀に海運の主力が帆船から蒸気船に移行するとともに、サントリーニ島の重要性も薄れてしまい、海運業者達はサントリーニ島から、ピレウスなどの近代的な港へと移っていった。急速に衰退しつつあった絶壁街区は1956年の震災によって壊滅状態に陥った。政府は背後の緩斜面に被災住宅を建築し、絶壁街区への居住が禁止された。その後の20年間街区は放置されたが、乗組員居住区が復元されてペンションに改装されるなど、観光業に利用されるようになった[6]。

^ ヨーロッパでは最大の噴火で、30立方キロメートルにも及ぶ噴出物で、紀元前79年に噴火したベスビオ火山の噴火物の15倍にも当たる(リチャード・フォーティ著、渡辺政隆・野中香方子訳『地球46億年全史』草思社 2009年 183ページ) ^ クラカタウ火山の100倍の規模で、高さ30メートルを超える大津波が発生して、周辺の島々を水没させた。(石弘之著『歴史を変えた火山噴火ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 58ページ) ^ リチャード・フォーティ著、渡辺政隆・野中香方子訳『地球46億年全史』草思社 2009年 183ページ ISBN 978-4-7942-1690-8 ^ 噴火があったと見られる時期に、大規模な気候変動があった形跡が確認されている。「夏のない年」を参照のこと。 ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 68ページ ISBN 978-4-88708-511-4 ^ a b c 畑聰一 布野修司(編)「サントリーニ島の洞窟住宅」『世界住居誌』昭和堂 2005 ISBN 4812204437 pp.218-219.
写真提供者:
Cha già José from Vienna, Austria - CC BY-SA 2.0
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