Σαμοθράκη

( サモトラキ島 )

サモトラキ島(サモトラキとう、ギリシア語: Σαμοθράκη / Samothráki)は、エーゲ海北東部に位置するギリシャ領の島。行政上は東マケドニア=トラキア地方エヴロス県に含まれ、ギリシャ領トラキアの南端にあたる。サモトラケ島とも呼ばれ、「サモトラケのニケ」像の発掘地として知られる。

サモトラキ島に人類が居住し始めたのは紀元前11世紀に遡る。島の名である「サモトラキ」とは「トラキア地方のサモス」という意味で、古典期の史料では最初に入植したのはイオニア地方のサモス人とされていた。しかし、発掘調査によって発見された文字史料から、最初に入植したのはアイオリス地方の人々だったと推測されている[1]。紀元前8世紀にはギリシャ人が入植しはじめる。紀元前5世紀頃から、古の神カベイロスを祀る秘儀信仰が有名となり、現在サモトラキ神殿群と呼ばれている場所を聖地として多くの入信者が集まるようになる[1]。 紀元前508年に島はアケメネス朝ペルシアに奪われ、のち紀元前5世紀のデロス同盟、紀元前377年の第二次海上同盟ではアテナイ側に加盟した[1]。

ピリッポス2世に服従してから紀元前168年までマケドニア王国が宗主権を握った。伝説では、ピリッポス2世と夫人となるオリュンピアスは、カベイロスの秘儀を受けるためにサモトラキ島を訪れていた時に出会ったといわれ、以後王家縁の地としてアンティゴノス朝のみならず、プトレマイオス朝からも庇護された[1]。紀元前168年のピュドナの戦いでアンティゴノス朝はローマ帝国に敗れ滅亡したが、その最後の王ペルセウスは逃避行の末にサモトラキ島で捕らえられた[1]。 サモトラキは独立し、この状態は紀元70年にウェスパシアヌスのローマ帝国に支配されるまで続いた。 トロイア王家の始祖であり、ローマ建国の英雄アエネアスの祖であるダルダノスはサモトラキ出身であるという伝説があり[1]、サモトラキ島はローマ人の関心を集めた。カベイロスの秘儀に興味を持ち、多くの有力者が入信したと伝えられる[1]。ローマの庇護の下でサモトラケ島は繁栄したが、2世紀末に大地震が起き、神域も含め甚大な被害を受けたサモトラケ島は被害から立ち直ること無く衰退していった。4世紀にテオドシウス1世が異教を全面的に禁止したことから、カベイロスの秘儀も消滅してしまう。

東ローマ帝国は1204年まで島を支配し、その後ヴェネツィア共和国がサモトラキを獲得。1355年に一時ジェノヴァのガッティルージ家にヴェネツィアが追い出されたことがある。 15世紀前半にはフィレンツェの旅行家クリストフォロ・ブオンデルモンティや、アンコーナのキリアコスがこの地を踏査し、歴史地図や古代遺跡の記録を残している[1]。 1457年、オスマン帝国が島を征服。1821年からのギリシャ独立戦争で住民の多くが対トルコ反乱に加わり、多くの人々が虐殺され人口を減らした。1913年、バルカン戦争の結果サモトラキはギリシャへ復帰した。第二次世界大戦中、短期間ブルガリアに占領された。

^ a b c d e f g h 周藤&澤田 2004, pp. 191–203.
写真提供者:
Ivan Koev - CC BY-SA 4.0
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