الأقصر

( ルクソール )

ルクソール(アラビア語: الأقصرl-aqṣur、Luxor)は、エジプトの都市で、ルクソール県の県都。古代エジプトの都テーベがあった場所で、現在も数多くの遺跡が残っている。市域はナイル川によって分断されている。

日が昇る方角であるナイル川の東岸には、カルナック神殿やルクソール神殿など生を象徴する建物が、日が沈む方向のナイル川西岸には死を象徴する、王家の谷や王妃の谷などがある。王家の谷にはツタンカーメン王の墓がある。

市内にある遺跡の多くが、古代都市テーベとその墓地遺跡 として世界遺産に登録されている。

ルクソールは、エジプト新王国の時代、太陽神アメン=ラー(Amon-Ra)の都市テーベだった。

第11王朝時代に重要な都市となり、華麗さだけでなく、知、芸術、宗教、政治の中心地として繁栄した。第1中間期の混乱の後、エジプトを統一したメントゥホテプ2世(英語版)が、周辺地域に安定をもたらし、その結果都市が発展した。新王国のファラオが、クシュ(現在のスーダン北部)やカナン、フェニキア、シリアに遠征し、テーベが世界規模でも有数の富を有し、知名度も高いことが分かる。テーベは上エジプトからのヒクソス軍の侵略を退ける役割を果たし、第18王朝の時代から第20王朝の時代まで、テーベは古代エジプトで政治的、宗教的、軍事的に主要な都となった。

街にはバビロニア人、ミタンニ人、ヒッタイト人(現在のトルコ)、ウガリットのカナン人、ビブロスのフェニキア人、ティルス人、クレタ島のミノア人なども流入し、アナトリアのヒッタイトの王子が、ツタンカーメン王の未亡人アンケセナーメンと結婚するまでに至った。しかし、政治的中心が北部エジプトの、ブバスティスやサイス、そして最終的にアレキサンドリアに移ると、街の政治的、軍事的な重要性は、次第に薄れていった。しかし、アメン神の都市としてテーベは、古代ギリシア時代に至るまで、宗教的な中心地であり続けた。

その後、街はアッシリアのアッシュールバニパル王の攻撃を受けた。テーベの街は廃墟となり、その重要性も失われた。しかし、アレクサンドロス大王がカルナックのアメン神殿に到着し、宗教的な祭りであるオペトの祝祭(英語版)の間に、王の像を移設した。テーベの偉大さは、今日でも、崇高な場所であり続けており、ローマ帝国の時代には、多くのキリスト教の修道僧がやって来て、多くの古代のモニュメントの場所に修道院を設立させた。その中にはハトシェプスト女王葬祭殿にあり「北の修道院」の意味を持つデル・エル・バハリ(英語版)も含まれている。

ルクソール特有の遺物として葬送用コーンがある。

1997年に外国人観光客を狙ったテロ事件が発生し、日本人観光客10名を含む63名が犠牲となった。

2013年に観光用の熱気球が飛行中に火災になり、日本人観光客4名を含む19名が犠牲となった[1]。

2018年にはルクソールで観光用の気球が墜落し、1人が死亡、12人が負傷した[2]。

^ エジプトで気球墜落、日本人4人含む19人死亡-ルクソール近く afpbbnews ^ “エジプト・ルクソールで気球墜落 1人死亡12人負傷”. 朝日新聞社. (2018年1月5日). https://www.asahi.com/articles/ASL155R28L15UHBI01N.html 2020年10月20日閲覧。 
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