الكرنك

( カルナック神殿 )

カルナック神殿(カルナックしんでん、アラビア語: معبد الكرنك‎ 、英語: Karnak Temple、Temple of Karnak 、またはカルナック神殿複合体、英語: Karnak Temple Complex)は、古代エジプトの神殿複合体であり、カルナク (Karnak 〈〉) とも記される。エジプトの首都カイロからナイル川を南におよそ670キロメートルさかのぼった東岸に位置し、新王国時代(紀元前1550-1069年頃)に繁栄した古代の首都テーベ(古名ワセト、Waset、現在のルクソールとその近辺)に建てられた。その巨大都市テーベの一部であるカルナック複合体の名は、近隣にあって一部を取り囲む、ルクソールの北およそ3キロメートルにある現代の村、エル=カルナックより名付けられている。西岸には歴代の王が眠る王家の谷や貴族の墓、ハトシェプスト女王葬祭殿などがあり、1979年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録された「古代都市テーベとその墓地遺跡」の一部である。歴代の王が寄進して増改築を重ね拡張された巨大な複合体であり、中心はアメン神(アモン、アムン、アメン=ラー、アムン=ラー)に捧げられたアメン大神殿複合体(アメン=ラーの神域)となっている。

 アメン大神殿複合体(1914年)

カルナック複合体の歴史は、大部分がテーベ[1]および文化における役割の歴史である。宗教的な中心地は、地域とさまざまな時代に変わった首都の設立により変化した[2][要出典]。都市テーベは、中王国時代となる第11王朝(紀元前2055-1985年頃[3])より首都になる以前には[4]、特に重要性があったようには見えず、また、当地のそれ以前の神殿建築は比較的小さく[1]、祠堂はテーベの初期の神々である地母神ムトや軍神モンチュに捧げられていた。それらの初期の建造物は侵略者により破壊された。第11王朝において国家神はモンチュとされたが[5]、神殿域で発見された最古の遺物に、第11王朝による小さな八柱神のものがあり、アメンについて記されている[6]。第1中間期(紀元前2181-2055年頃[3])よりテーベで認められるようになったアメンは長くテーベの地方神であったが、第12王朝(紀元前1985-1795年頃[3])の時代に王朝の守護神としてモンチュに代わり国家神となった[7]。アメンは雄羊や鵞鳥(がちょう)と同一視された[8]。アメンの名は隠すという動詞の imen に由来し[9]、エジプト語の意味は、「隠された者」[10]あるいは「隠された神」であり[11][12]、アメンの称号に「その姿、神秘なる者」ともある[13]。地方神アメンはやがて国家神として、豊饒神ミンや太陽神ラーなど、他の有力な神と習合していった[14]。

アメン大神殿における主な建設工事は、テーベが統一された古代エジプトの首都になった第18王朝(紀元前1550-1295年頃[3])のうちに行われた。新たな建設は第19王朝(紀元前1295-1186年頃[3])のセティ1世(紀元前1294-1279年頃[3])やラムセス2世(紀元前1279-1213年頃[3])のもとで着工されたが、列柱室の建設もまた第18王朝の間に始まったと考えられる[15]。

その王朝のほぼすべての王(ファラオ)が神殿域に何かを追加した。女王ハトシェプスト(紀元前1473-1458年頃[3])は記念物を建造し、また、ヒクソスの占領中に国外の支配者により破壊されていた[16]古代エジプトの偉大な女神ムトのかつての神域を再構築した。ハトシェプストはその時代、神殿入口に立つ世界で最大級の1対のオベリスクを持っていた。その1基は依然としてその場に立つ世界で最も高い、残存する古代のオベリスクである[17]。もう1基は2つに折れて倒壊した。その敷地における女王のもう1つの事業としてのカルナックの「赤い祠堂(英語版)」は、聖舟祠堂として意図され[18]、当初はハトシェプストの2基のオベリスクの間に建っていたとも考えられる。女王はその後、王位16年目を祝して、さらに2基のオベリスクの建設を命じた。そのオベリスクの1基は建造中に壊れ、その結果、第3のものがそれに置き換えるために構築された。アスワンにある採石現場には放置されたオベリスクが今も残っている。未完のオベリスクとして知られ、おそらく新王国時代[19]、トトメス3世 (紀元前1479-1425年頃[3])の頃のものといわれる[20]それは、オベリスクがどのように切り出されたのかをはっきりと示している[21]。

アメン大神殿の構成において最後の大きな変化は、第1塔門および神域全体を取り囲む大規模な周壁の追加であり、ともに末期王朝(紀元前747-332年[3])の時代、第30王朝(紀元前380-343年[3])のネクタネボ1世(紀元前380-362年[3])によって構築された。

西暦323年、コンスタンティヌス1世(306-337年[3])はキリスト教徒の信仰を認め、また、356年にはコンスタンティウス2世(337-361年[3])が帝国全体にわたって異教の神殿の閉鎖を命じた。カルナック神殿はこの時代に大部分が放棄され、キリスト教会が廃墟のなかに設けられた。このうち最も有名な例は、トトメス3世祝祭殿の中央の間の再利用であり、そこには聖人が描かれた装飾やコプト語の碑文が今もなお見られる[22]。

^ a b Weigall, 1996, p. 84 ^ 小谷野 (1998)、 29-32頁 ^ a b c d e f g h i j k l m n 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Shaw_&_Nicholson_599-607」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 小谷野 (1998)、 37頁 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「David_119」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Blyth, (1996), p. 7 ^ デイヴィッド 『古代エジプト人』 (1986)、119・151頁 ^ ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)、83頁 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Schumann-Antelme_24-27」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ スティーヴン・ビースティ、スチュワート・ロス 著、松原國師監訳、倉嶋雅人 訳『図解 古代エジプト』東京書籍、2005年、14-15頁。ISBN 4-487-80039-0。  ^ ウィルキンソン 『古代エジプト神々大百科』 (2004)、92頁 ^ Stewert, Desmond (1971). The Pyramids and Sphinx. Newsweek. pp. 60-62  ^ ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)、43頁 ^ 磯崎 (1980)、14・27頁 ^ ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)、158頁 ^ クレイトン 『ファラオ歴代誌』(1999)、136頁 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Wilkinson2002_59」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 吉村 『古代エジプトを知る事典』 (2005)、304頁 ^ ショー、ニコルソン 『古代エジプト百科事典』 (1997)、102頁 ^ 仁田 (1998)、114頁 ^ Tyson, Peter (1999年3月16日). “The Unfinished Obelisk”. NOVA Online Adventure. Nova. PBS. 2013年6月2日閲覧。 ^ Blyth (2006), p. 234
写真提供者:
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