オクトーバーフェスト(独:Oktoberfest)は、ドイツ、バイエルン州の州都ミュンヘンで開催される世界最大規模の祭りである。1810年以来ミュンヘン市内中心部のテレージエンヴィーゼ(Theresienwiese テレーゼの緑地という意)と呼ばれる広大な場所で9月半ばから10月上旬に開催され、毎年約600万人が訪れている。ヴィーゼ(緑地)のバイエルン語、ヴィーズン(Wiesn)という別称も頻繁に使われる。オクトーバーフェストに提供される特別のビールはフェストビアやヴィーゼンビア(Wiesnbier、緑地ビールの意)とも呼ばれている。5.8〜6.4%のアルコール度で醸造されている。

 2006年の開会式の際のテレージエン緑地第1回のオクトーバーフェスト

オクトーバーフェストは、以前はバイエルン州では、決して珍しいものではなかった。これは新しいビールの醸造シーズンの幕開けを祝う祭りで、どこでも開かれているようなものだったためである。現在でもエアランゲンなどには、ミュンヘンのオクトーバーフェストよりも歴史の古いビール祭りが例年6月頃に開かれている。

今日有名になった「ミュンヘンのオクトーバーフェスト」は、ドイツの他の各地の民族的な祭りや射撃大会を兼ねた祭りに比べると比較的新しい祭りといえる。バイエルン王国の王太子ルートヴィヒとテレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼンの結婚式が、1810年10月に都市の城壁の前の緑地で行われた際に、大規模な競馬が催された。以来この緑地は、テレーゼ緑地と呼ばれるようになり、そこから口語では「緑地」(ヴィーゼ Wiese。ミュンヘン訛りではヴィーズン Wiesn)は、ほとんどオクトーバーフェストと同義に取られるようになった。第1回オクトーバーフェストとされる日が複数あるのは、結婚式が10月12日で、競馬が17日であったためである。

王太子ルートヴィヒは古代ギリシアに関心が深く、臣下に古代オリンピックの競技会のような祭りを開きたいと提案した。この提案が熱狂的な歓迎を受け、まず主としてスポーツ大会のような形でこの祭りが挙行された。これが今日、近代オリンピックの原型といわれるものである。バイエルンの王宮は市民を喜ばせるために、翌年も同じ時期に競馬を繰り返し開催すると発表、これによってオクトーバーフェストの伝統が始まったのである。

国民的祝祭への発展 19世紀

1813年には、バイエルン王国がナポレオン戦争に巻き込まれたため中止の憂き目にあっている。その後、緑地は年々拡大していった。競馬場に、木登り場所、九柱戯場、ブランコが増え、陶器、銀器、そして1816年に装飾品などがもらえる福引場がオープンして、特に都市の貧困層を惹きつけた。1819年にはミュンヘンの町の市当局が祭りの開催を引き受けた。以来、オクトーバーフェストは毎年開催されるようになった。

 1835年のパレード

1835年にはバイエルン王となったルートヴィヒ1世とテレーゼの結婚25年を記念して、初めてパレードが行われた。1850年以降はパレードは毎年恒例のイベントとなり、オクトーバーフェストのメイン行事の一つとなっている。

 バヴァリア像―バイエルン王太子の婚礼を祝う記念碑

1850年に祭りの開催される緑地の端に、20メートルほどの高さの女性像バヴァリアが建てられ、祭りを見守るようになった。バイエルンの地の守護者とされるバヴァリアの銅像である。まず建築家レオ・フォン・クレンツェが古典的画風にスケッチしたものを、彫刻家ルートヴィヒ・ミヒャエル・シュヴァンターラー(Ludwig Michael Schwanthaler)がロマン主義風にドイツ化し、ヨハン・バプティスト・スティグルマイエル(Johann Baptist Stiglmaier)と甥のフェルディナント・フォン・ミラー (Ferdinand von Miller)が彫像した。1853年にはバヴァリア像の後ろにルーメスハレ(Ruhmeshalle 栄誉の殿堂)が完成した。

その後の何度か祭りの開催が流れている。その理由は2つあり、1854年と1873年はコレラの流行で、他は、1866年のプロイセン・オーストリア戦争、1870年の独仏戦争である。

19世紀末までに祭りは発展し、次第に国民的祝祭のレベルまで達した。それが今日では世界的に知られる祭りにまで発展した。開催期間は延び、また比較的温暖な9月に開催されるようになり、祭りの最後の週末のみが10月にかかるようになった。1880年には、市当局がビールの販売を許可し、400以上のブースやテントが電気の明かりで飾られた。1881年にはブラートヴルストと呼ばれる焼きソーセージその他を販売する移動店舗(Hendlbraterei)が初めて登場した。1887年に初めてオクトーバーフェストの運営スタッフとブルワリー関係者の入場が行われた。この催しでは見事に装飾された馬に乗ったブルワリーの一団とテント内で演奏するバンドが披露された。現在も毎年オクトーバーフェストの最初の日曜に行われ、祭りの正式な始まりを象徴するものである。

19世紀終わりまでビール・ブースと呼ばれる仮小屋の中にはスキトルズ(ボウリングの前身となったゲーム)のレーン、大きなダンスフロア、登って遊ぶための木などがあったが、音楽演奏会場に観客席を増やすために、醸造組合が醸造工場のあった跡に巨大なビアホールを建設した。同時期に、祭りはますます芸人や移動遊園地業者(回転木馬など)を引き寄せるようになり、これらがまた関心を集めるようになった。

20世紀  夜のオクトーバーフェスト(2003年) 1980年の爆弾事件の記念碑 警備スタッフの介抱を受けるビアライヒェン 祭り会場の空撮

1910年、オクトーバーフェストは100回目を迎えた。この年は1,200キロリットルのビールが消費された。当時、最大のビアホール・テントであったブロイローズル(Bräurosl)には1万2000席の客席が用意された。2007年現在最大テントは1万人収容のホフブロイ=フェストハレ(Hofbräu-Festhalle)である。

1914年から1918年までは第一次世界大戦のため祭りは開催されていない。1919年・1920年にはささやかな秋の収穫祭として開かれただけで、1923年・1924年も世界的なインフレーションで中止された。1939年から1945年までの第二次世界大戦の間も、祭りは一度も開催されていない。

戦後の1946年から1948年までの3年間は小規模の収穫祭として最低限のレベルで行われたため、オクトーバーフェスト用のビール販売は禁止され、アルコール分2%以下のビールで済ませなければならなかった。オクトーバーフェストは初回から2007年現在までの197年の間に通算24回中止されていることになる。

1950年オクトーバーフェストは、初めてミュンヘン市長トーマス・ヴィムマー(Thomas Wimmer)によるビールの樽の口開けによって祭りを開幕した。以降、正午の12の礼砲、現役ミュンヘン市長がオクトーバーフェスト用ビール樽を開栓し、"O'zapft is!"(バイエルン方言で「酒が開いたよ!」の意)と叫ぶ、というオープニング儀式は毎年恒例となっている。一方、競馬は1960年の150回目の記念式典を例外にもはや開催されなくなった。

1960年頃までには、オクトーバーフェストは世界的に広く知られた祭りとなった。まず近隣諸国や、日本、アメリカ、ニュージーランドの観光客がこの祭りに目をつけ、バイエルンの人びとと並んでビールに酔った。そして世界中にこのミュンヘの祭りを広めた。外国人観光客が作り上げたイメージが定着し、ドイツ人男性はゼナーハット(帽子)やレーダーホーゼンを、女性はディアンドル(エプロンドレス)を着るというスタイルができあがった。

オクトーバーフェストの歴史の中でも悲劇的な記念日となったのが、1980年9月26日である。午後10時19分、会場正面入り口にあるゴミ箱の中でパイプ爆弾が爆発した。13人が死亡、200人が負傷し、そのうち68人が重傷を負った。オクトーバーフェスト・テロ事件はドイツの歴史の中でも非常に被害の大きかった事件のひとつである。爆弾は消火器を空にしてモルタルの薬莢とTNT1.39キログラムが詰められたものだったとみられている。公的調査によると、バイエルンに隣接するバーデン=ヴュルテンベルク州 ドナウエッシンゲン市出身の極右主義者で社会的に見捨てられていた、グンドルフ・ケーラー(Gundolf Köhler)という当時21歳の男性1人による単独犯行で、仕掛けから離れるのに間に合わず爆発に巻き込まれて死亡したとされる。しかし、この見解は様々なグループから反論されている[1]。

毎年自分のアルコール許容量を超えるほど飲んで気絶してしまう若者が多く出る。これらの酔っ払いはビアライヒェン(Bierleichen ドイツ語でビール死体の意味)と呼ばれる。彼らはスタッフによって急性アルコール中毒や他の病気を治療する医療テントまで連れて行かれる。2005年、高齢者や家族連れも楽しめるよう「静かなオクトーバーフェスト」という概念が生まれた。ビール・テントは午後6時までは伝統的な管楽器などの静かな音楽しか流さず、85デシベル以下に抑えることになっている。午後6時以降はシュラーガー(Schlager)と言われるヨーロッパ・ポップ音楽や、ドイツのヒット曲、懐メロなどが大音響で流れ、酔った人々は歌い踊る。オクトーバーフェスト運営団体は、こうした制限を設けることで、派手な酔っ払いパーティーというイメージを払拭して伝統的なビールテントの雰囲気を保つよう務めている。ドイツ国内で唯一残っているハス社(HUSS)製造の移動式アトラクション、エンタープライズ『モンドリフト』(Enterprise“Mondlift”)も2005年に復活し、毎年設置されるようになった。

21世紀

2020年はコロナウイルス感染症による影響により中止となった[2]。その後も世界的な状況は改善せず、続く2021年の開催も中止された。 2022年は、3年ぶりに開催された。

^ “Nato-Geheimarmeen und ihr Terror”(ドイツ語) ^ 野島淳. “ドイツのオクトーバーフェストも中止「リスク高すぎ」”. 朝日新聞. 2023年3月12日閲覧。
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Heribert Pohl --- Thanks for half a million clicks! from Germering bei München, Bayern - CC BY-SA 2.0
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