长江

( 長江 )

長江(ちょうこう、拼音:  Cháng Jiāng)は、中華人民共和国青海省のチベット高原を水源地域とし、中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でもナイル川、アマゾン川に次ぐ第3位の大河である。

中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、ヤンツィー・リバー、英語: Yangtze River)の名で良く知られる。古語では(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。

青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。

その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省(市、自治区)があり、全流域の人口は約4億5000万にも達している。古くから水上交易の盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。

紀元前14000年頃から長江文明と呼ばれる文明が流域に成立し、北の黄河文明と密接に関係しながら成長していったが、やがて黄河文明と融合するようになり、春秋時代には上流域に巴・蜀、中流域に楚、下流域に呉・越などの国家が成立して黄河流域の諸国家と争った。戦国時代に入ると上流域は秦、中下流域は楚が制したが、やがて秦が強大化し、紀元前223年には秦が楚を滅ぼして長江流域は全て秦の統治下に入った。以後、幾度も王朝の交代はあったものの、基本的には黄河流域と長江流域は統一王朝の下に置かれることとなった。

後漢王朝が滅亡し、222年に建業に都した呉が成立すると、280年に呉が晋に滅ぼされて一度は統一されるものの、晋王朝が八王の乱によって混乱したのち滅亡する。独自の文化が花開いた。華北が五胡十六国および北朝時代を通じて北方遊牧民族系の王朝が交代したのに対し、南朝は一貫して漢人王朝であった。

南北朝を統一した隋は黄河流域と長江流域を結合させるため、610年に大運河を完成させた。この運河によって長江と黄河は結ばれ、特に長江下流域は経済的に大発展して中国の経済的な中心地となった。唐代には既に経済の中心は長江下流域に移っており、ここを握っていたことで安史の乱によって衰退した唐王朝は乱後もなお1世紀以上存続することができた。唐が黄巣の乱によって衰退して滅亡すると、長江上流域には前蜀および後蜀、中流域には荊南および楚、下流域には呉、南唐および呉越といった国々が割拠して、黄河流域を押さえた各王朝と対立した。なかでも南唐は楚や閩を滅ぼし中原王朝と十分に対抗できる力を有していたが、後周の世宗によって958年に敗北させられ衰退した。これをきっかけに後周は強大化し、最終的に後周を継いだ宋王朝(北宋)によって長江流域の諸王朝は次々と滅ぼされ、978年には長江流域最後の独立王朝だった呉越が降伏して南北は再び統一された。1126年に北宋が金によって滅ぼされると宋は南遷し、1127年に南宋王朝が成立して再び長江流域と黄河流域は分裂した。南宋時代には長江流域の開発がさらに進められ経済的には絶頂を迎えた。長江下流域の穀物生産が伸び、「江浙熟すれば天下足る」と称されたのもこの頃のことである。やがて金を滅ぼした元が侵攻し、1279年に南宋は滅亡した。元が衰亡すると、長江流域には湖北の陳友諒、集慶(後の南京)の太祖洪武帝、蘇州の張士誠の3人の群雄が並び立ったが、太祖洪武帝が両勢力を滅ぼして長江中下流域を統一。この地方の経済力を背景に北伐を行って元を北へ追いやり、1368年に中国を統一すると集慶を応天府と改めて首都に定めた。長江流域から興った王朝が中国を統一したのはこれが唯一のことである。この明は太祖洪武帝・建文帝の2代にわたって応天府に首都を置いたが、靖難の変によって帝位を奪った永楽帝は1421年に首都を再び北京に移し、長江下流域は再び経済のみの中心地となった。明朝期には長江下流では商品作物の栽培などに重点が移って穀物生産が低下し、かわって長江中流域に穀物生産地が移動して「湖広熟せば天下足る」と呼ばれるようになった。

清の時代も19世紀半ばを過ぎると統治が緩み始め、長江流域も混乱に巻き込まれることとなった。1851年には洪秀全によって太平天国の乱が起き、1864年に滅ぼされるまで長江中下流域の広い範囲を支配下に置いた。19世紀末になると列強諸国が中国を各国の勢力範囲に分割する中、長江流域はイギリスの勢力範囲となった。1911年に武昌で武昌起義が起きたのをきっかけとして辛亥革命が起き、清朝が倒れ中華民国が成立すると首都は当初南京に置かれたが、袁世凱によってすぐに北京へと遷都された。後に蔣介石政権は南京を首都とし、日中戦争時は重慶へ疎開。第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は北京を首都としている。

写真提供者:
Andrew Hitchcock - CC BY 2.0
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