New York City

( ニューヨーク )

ニューヨーク市(ニューヨークし、英: New York City)は、アメリカ合衆国のニューヨーク州にある都市。1790年以来、同国最大の都市である。市域人口は800万人を超え、都市圏人口では定義にもよるが2,000万人以上である。2015年の市内総生産は6,625億ドルであり、全米最大である。ロンドンと共に最高水準の世界都市・金融センターである。国際連合の本部所在地でもあり、世界の政治・経済・文化・ファッション・エンターテインメントなどに多大な影響を及ぼすことから、複数分野における世界の中心としても知られる。漢字の当て字は紐育市紐約市などがある。

 1660年のロウアー・マンハッタン(右が北)。当時、ニュー・アムステルダムの一部であった。

1524年、フランス国王の命を受けたイタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノがこの地域に到達し、ヌーヴェル・アングレーム(Nouvelle Angoulême)と呼んだ[1]。その当時、ここには約5,000人のレナペ族インディアンが住んでいた[2]。

ヨーロッパ人の入植は、オランダ人が1614年にマンハッタンの南端に毛皮貿易のために建てた植民地が始まりであり、これが後に「ニューアムステルダム」と呼ばれるようになった。オランダ植民地の総裁ピーター・ミヌイットが、1626年、レナペ族(デラウェア族)からマンハッタン島を60ギルダー(2006年現在の換算で1,000ドル程度)分の物品と交換した[3]。現在では否定されているが、マンハッタンの代価は24ドル相当のガラスのビーズであったという伝説もある[4]。インディアンには「土地を売る」という文化がそもそもなかったため、この取引を彼らが理解していたかどうかは疑わしい。以後、ボタンをかけ違えたまま、レナペ族や周辺部族と入植者は何度も領土をめぐって戦いが繰り返されているのである。

1664年、イギリス人が町を征服し、イングランド王ジェームズ2世(ヨーク・アルバニー公)の名を取って「ニューヨーク」と名付けた[5]。第二次英蘭戦争の末、オランダは、北アメリカでイギリスによるニューアムステルダム(ニューヨーク)の支配を認める代わりに、南米のスリナムとインドネシア・バンダ諸島のラン島(当時は香辛料貿易の中心地で、毛皮貿易のニューヨークより価値のある土地であった)の支配を得た。1700年までに、レナペ族の人口は200人まで減少していた[6]。

ニューヨークはイギリス帝国の支配の下で貿易港としての重要性を増していった。1735年にはジョン・ピーター・ゼンガー事件の裁判が行われ、北アメリカにおける報道の自由の確立へとつながっていった。1754年の国王ジョージ2世の勅許によって、ロウアー・マンハッタンに王立大学としてコロンビア大学が設立された[7]。1765年10月には印紙法会議がニューヨークで開かれた。

ニューヨークでは独立戦争の間、大きな戦闘が繰り返し行われた。1776年にアッパー・マンハッタンで行われたワシントン砦の戦いでアメリカ軍が大敗したあと、街はイギリス軍の北アメリカにおける軍事的・政治的拠点となり、戦争が終わる1783年までイギリス軍の占領は続いた。終戦後まもなく連合会議の会期がここで行われ、ニューヨーク市はアメリカ合衆国の首都となった。ここで憲法が批准され、初代大統領ジョージ・ワシントンが1789年に就任式を迎えた。第1回連邦議会の初めての会期が開かれ、権利章典が起草された。これらの舞台となったのは、ウォール街のフェデラル・ホールであった[8]。1790年には、ニューヨークはフィラデルフィアを抜いてアメリカ合衆国最大の都市へと成長していた。

19世紀、ニューヨークは移民と開発によって大きく変貌した。1811年委員会計画によって、マンハッタン全域が格子状の通りで覆われた。1819年にエリー運河が開通し、大西洋の港と北アメリカ内陸部の広大な農業市場とを結んだ[9]。この地域の政治を牛耳ったのは、アイルランド系移民に支えられた政治的マシーンであるタマニー・ホールであった[10]。公共精神あふれる商人階級の陳情によって、セントラル・パークの建設が始まり、1857年にアメリカの都市の中で最初の景観設計された公園となった。マンハッタンやブルックリンには、大勢の自由黒人もいた。ニューヨークでは1827年まで奴隷制が維持されていたが、1830年代、ニューヨークは北部における奴隷制廃止運動の中心地となった。1840年の時点で、ニューヨークの黒人人口は1万6,000人を超えていた[11]。1860年までにアイルランド系の人口は20万人を超え、市の人口の4分の1を占めていた[12]。

 マンハッタンのロウアー・イースト・サイド、マルベリー・ストリート(1900年ごろ)

南北戦争(1861年 - 1865年)の時の徴兵制に対する不満から、1863年にニューヨーク徴兵暴動が発生した。これはアメリカ史の中で最悪の暴動のひとつとなった[13]。1898年、ブルックリン(当時独立市であった)と、ニューヨーク郡(ブロンクスの一部を含んでいた)、リッチモンド郡、そしてクイーンズ郡西部が合併して、現在のニューヨーク市が形成された[14]。1904年にはニューヨーク市地下鉄が開通し、新しい市の統合に役立った。20世紀後半、ニューヨーク市は世界の産業、商業、情報の中心地となった。しかし、その陰では犠牲もあった。1904年、蒸気船ジェネラル・スローカム号がイースト・リバーで火災に遭い、乗っていた1,031人が死亡した。1911年に起きたトライアングル・シャツウェイスト工場の火事は、ニューヨーク市で最悪の産業災害で、146人の衣類製造工場労働者が死亡し、国際女性衣類労働組合の成長を促すと共に工場の安全基準の大幅な改善につながった[15]。

 ロックフェラー・センターから見たミッドタウン(1932年)

1920年代、ニューヨーク市はアフリカ系アメリカ人の大移動で南部から来たアフリカ系アメリカ人にとっての主要な行き先となった。1916年までに、ニューヨーク市に住むアフリカ系都市移住者は北アメリカで最多となった。禁酒法時代にはハーレム・ルネサンスが栄え、それと同じころ急激な経済成長にともない超高層ビルが競うように建てられ、街の風景は大きく変わった。1920年代初頭にニューヨーク市はロンドンを抜いて、世界で最大の人口を擁する都市となった。またニューヨーク都市圏の人口は、1930年初頭に1,000万人を超え、人類史上最初のメガシティとなった[16]。世界恐慌の時代には、改革派のフィオレロ・ラガーディア(Fiorello LaGuardia)が市長に選出され、市政を牛耳ってきた利権団体タマニー・ホールは80年に及ぶ政治的支配を失った[17]。

第二次世界大戦からの兵士の復員によって戦後経済の勃興が始まり、クイーンズ東部で広大な住宅地域の開発が進んだ。ニューヨークは戦争の傷跡を見せずに、世界の一流都市へと成長した。ウォール街はアメリカを世界経済の覇者へと押し上げ、国際連合本部ビル(1950年完成)の設置はニューヨークの政治的影響力を知らしめた。ニューヨークで生まれた抽象表現主義は、この街をパリに代わる世界の芸術の中心地へと変えた[18]。

 9.11テロの前のロウアー・マンハッタン(2001年8月)

1960年代のニューヨークは経済的停滞・犯罪率の上昇・人種間対立の高まりに苦しみ、1970年代にピークを迎えた。1980年代は、金融業の盛り返しによって市の財政は改善を見せた。1990年代までに人種間対立も緩和し、犯罪率は劇的に下落した。そしてアジアとラテンアメリカからの新しい移民の波が訪れた。シリコンバレーのような新しい産業部門も興り、ニューヨークの人口は2000年の国勢調査で史上最高に達した。

ニューヨークは2001年9月11日の同時多発テロの現場のひとつとなり、ワールド・トレード・センターの崩壊で、3,000人近くの人が命を落とした[19]。跡地には2014年に開業した1 ワールドトレードセンター(旧称フリーダム・タワー)を含む新たな高層ビルが慰霊の広場やテロに関する記念館を囲む形で建設されている。現在も工事は続いており、再開発の完了は2028年頃を予定している。

^ Rankin, Rebecca B., Cleveland Rodgers (1948). New York: the World's Capital City, Its Development and Contributions to Progress. Harper  ^ "Gotham Center for New York City History" Timeline 1500 - 1700 ^ “Value of the Guilder / Euro”. International Institute of Social History. 2008年8月19日閲覧。 ^ Miller, Christopher L., George R. Hamell (September 1986). “A New Perspective on Indian-White Contact: Cultural Symbols and Colonial Trade”. The Journal of American History 73 (2): 311. doi:10.2307/1908224. http://links.jstor.org/sici?sici=0021-8723%28198609%2973%3A2%3C311%3AANPOIC%3E2.0.CO%3B2-A 2007年3月21日閲覧。.  ^ Homberger, Eric (2005). The Historical Atlas of New York City: A Visual Celebration of 400 Years of New York City's History. Owl Books. pp. 34. ISBN 0805078428  ^ "Gotham Center for New York City History" Timeline 1700-1800 ^ Moore, Nathaniel Fish (1876). An Historical Sketch of Columbia College, in the City of New York, 1754-1876. Columbia College. pp. 8  ^ “The People's Vote: President George Washington's First Inaugural Speech (1789)”. U.S. News and World Report. 2008年9月1日閲覧。 ^ Bridges, William (1811). Map Of The City Of New York And Island Of Manhattan With Explanatory Remarks And References ; Lankevich (1998), pp. 67–68. ^ Mushkat, Jerome Mushkat (1990). Fernando Wood: A Political Biography. Kent State University Press. pp. 36. ISBN 087338413X  ^ “African-Americans in New York City, 1626-1863 by Leslie M. Harris”. Department of History at Emory University (2001年). 2009年6月26日閲覧。 ^ “Cholera in Nineteenth Century New York”. VNY, City University of New York. 2009年6月26日閲覧。 ^ Cook, Adrian (1974). The Armies of the Streets: The New York City Draft Riots of 1863. pp. 193–195  ^ “The 100 Year Anniversary of the Consolidation of the 5 Boroughs into New York City”. New York City. 2007年6月29日閲覧。 ^ “Cornell University Library: Triangle Factory Fire”. Cornell University. 2008年9月1日閲覧。 ^ “New York Urbanized Area: Population & Density from 1800 (Provisional)”. www.demographia.com. 2009年6月26日閲覧。 ^ Allen, Oliver E. (1993). “Chapter 9: The Decline”. The Tiger – The Rise and Fall of Tammany Hall. Addison-Wesley Publishing Company  ^ Burns, Ric (2003年8月22日). “The Center of the World - New York: A Documentary Film (Transcript)”. PBS. 2008年9月1日閲覧。 ^ “2008 9/11 Death Toll”. Associated Press. (2008年7月). http://www.nysun.com/new-york/missing-doctor-added-to-list-of-9-11-victims/81626/ 2006年9月11日閲覧。 
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