Brooklyn Bridge

( ブルックリン橋 )

ブルックリン橋(Brooklyn Bridge)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市のイースト川をまたぎ、マンハッタンとブルックリンを結ぶ橋である。

 ジョン・オーグスタス・ローブリング 橋上の風景案内板 建設中の「自由の女神」

ブルックリン橋はベルリン王立高等理工科学校(現・ベルリン大学理工学部土木工学科)の橋梁工学を卒業したテューリンゲン州ミュルハウゼン出身のドイツ系移民のジョン・オーグスタス・ローブリング(John Augustus Roebling、1806〜1869年、ドイツ語発音ではヨーハン・アウグスト・レーブリング(Johann August Rӧbling))によって最初に設計されたが、彼は橋の建設開始をまたず、衝突事故による破傷風で死亡した。その後、南北戦争に従軍した息子のワシントン・ローブリング(1837〜1926年)が建設を引き継いだが、彼もまたケーソン病で下半身麻痺となり現場に立てなくなったため、同じドイツ系の妻のエミリー・ワーレン・ローブリング(1843〜1903年)が工学を勉強し、現場の監督者と彼との意思疎通をはかった。ワシントンは1903年に妻に先立たれてからも、自宅から望遠鏡で橋の建設を見守り、1926年に89歳で亡くなっている。

ローブリングは橋を設計する際に、当時必要と考えられていた強度よりも 6倍も頑丈に設計した。橋が建設された当時はまだ風洞実験が行われておらず、同時期に建てられた橋のほとんどが廃棄されたのに対して、この橋が今日まで生きながらえたのはこのようないくつかの幸運があったためだと指摘されている(多くの橋が廃棄されたのは、タコマナローズ橋が風で崩壊したことも理由となる)。

建設当時、ケーソン病はまだよく理解されておらず、建設に際しては多数のケーソン病による死者を出した。

なお、信濃上田藩第6代藩主・松平忠固の二男、松平忠厚が、マンハッタン高架鉄道会社に勤務していて、ブルックリン橋の一部の設計を担当した。

2017年から2年間、メキシコの麻薬王ホアキン・グスマンが留置所から裁判所まで往復する際にブルックリン橋が利用された。グスマンはメキシコ国内で2度、大掛かりな脱獄をした経緯があったことから護送車が通過する際には、身柄の奪取などが起きないように一般車両を通行止めにする措置が採られた[1]。

^ “麻薬王「エル・チャポ」の公判がNYで開始。最も費用がかかる裁判に”. ハーバービジネスオンライン. ハーバービジネスオンライン (2018年11月10日). 2021年2月25日閲覧。
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