モーリシャス

モーリシャス共和国
Republic of Mauritius(英語)
République de Maurice(フランス語)
Repiblik Moris (モーリシャス・クレオール語)
国の標語:Stella Clavisque Maris Indici
(ラテン語: インド洋の星と鍵であれ)
国歌:Motherland
母国
a 公的には英語とフランス語が用いられ、モーリシャス・クレオール語が通常話される。

モーリシャス共和国(モーリシャスきょうわこく)、通称モーリシャスは、イギリス連邦加盟国の1つで、首都はポートルイスと定められている。インド洋のマスカレン諸島に位置する共和国ながら、アフリカの国家の1つに数えられている...続きを読む

モーリシャス共和国
Republic of Mauritius(英語)
République de Maurice(フランス語)
Repiblik Moris (モーリシャス・クレオール語)
国の標語:Stella Clavisque Maris Indici
(ラテン語: インド洋の星と鍵であれ)
国歌:Motherland
母国
a 公的には英語とフランス語が用いられ、モーリシャス・クレオール語が通常話される。

モーリシャス共和国(モーリシャスきょうわこく)、通称モーリシャスは、イギリス連邦加盟国の1つで、首都はポートルイスと定められている。インド洋のマスカレン諸島に位置する共和国ながら、アフリカの国家の1つに数えられている。民族構成は多様だが、19世紀にサトウキビ農園の労働力として移入されたインド系住民が過半数を占める。

この付近に島々が点在していることは、10世紀以前からアラブ人航海者達に知られていた。15世紀にはインド系とインドネシア・マレー系がやって来た。1505年にヨーロッパ系としてはポルトガル人が初めて到達した。

オランダ領モーリシャス

1638年にオランダがインド航路の補給地として植民を開始した。オラニエ公マウリッツ(マウリティウスを英語読みでモーリシャス)の名にちなんでこの島を命名した。この植民地統治によって、後々主力産品となってゆくサトウキビの移入や、農園の労働力としての奴隷移入などが行われた。また開発によって、固有種であったドードーが絶滅したのもこの時代である[1]。しかし植民地経営は上手くゆかず、1710年にオランダはモーリシャスから完全に撤退した[2]。

フランス領フランス島

オランダがモーリシャスから撤退すると、近隣のレユニオン島を植民地化していたフランスがさっそく再植民を計画し、1715年にモーリシャスを占領して、フランス島と名付けた。1735年にはベルトラン=フランソワ・マエ・ド・ラ・ブルドネ総督が就任し、ポートルイス市の建設や各種開発を行ってモーリシャスの基盤を作った。この時期のモーリシャスの経済の基盤はサトウキビのプランテーションであり、その労働力のために主にアフリカから多くの奴隷が移入された[3]。

イギリス領モーリシャス  グランド・ポートの戦い(英語版)(1810年) 現在使われていない歴史的な旗 ?イギリス領モーリシャスの旗(1906年–1923年) 現在使われていない歴史的な旗 ?イギリス領モーリシャスの旗(1923年–1968年)

1810年にイギリスに占領され、1814年には正式にイギリス領となり、島名は旧名のモーリシャスに戻された。しかしイギリスはモーリシャスの統治体制に手をつけず、本国からの移住も行われなかったので、島の支配階級であったフランス人大農園主はそのまま島に残り、言語的にも英語よりフランス語が主に話される状況は続いた。1835年にはイギリス議会によって可決された奴隷解放が実行に移され、それまで農園などで働いていた奴隷たちは自由を得た。この奴隷解放によって不足した労働力を補充するために、同年にはインドからの移民の導入が開始され、1861年にはインド人はモーリシャスで最も多い民族となっていた。またこの時期にはモーリシャスのサトウキビプランテーションおよび製糖業が大いに発展した[3]。

1831年には統治評議会が設けられ、評議員の半分は政府の行政官、半分は総督が有力民間人を指名した。1886年には財産による制限選挙制が導入され、27人の議員のうち10人が選挙により選出されるようになったが、これらの議員は主にフランス系が占め、クレオールは少数にとどまっていた。インド人系が議員に選出されるのは1926年になってからのことだった。選挙制は徐々に条件が緩和されていき、1948年には財産制限の撤廃と婦人参政権の導入によって大幅に選挙権が拡大され、1958年には完全普通選挙と「最良の敗者」制度が導入された。

イギリスの植民地時代は、モーリシャス島から北東へ約2,000 km先にあるチャゴス諸島と併せて統治されていたが、独立直前の1965年11月に分離され、チャゴス諸島の住人約1800人はモーリシャス島へ強制移住させられた。

独立

1968年に英連邦王国として独立を達成し、首相にシウサガル・ラングーラムが就任した。独立時には高失業率に悩み民族対立も起こっていたものの、ラングーラム政権は1971年の輸出加工区の設置を皮切りに積極的な産業振興政策を進め、繊維産業や観光業の発展で経済成長を実現した。政治面では1969年にはポール・ベランジェが中心となってモーリシャス闘争運動(MMM)が結成され、ラングーラムの与党モーリシャス労働党との2大政党ブロック体制となった。政情不安により1972年の選挙は延期されたものの、1976年に選挙が行われて以降は自由選挙に基づく民主的な政治が継続されている[4]。1982年の選挙ではモーリシャス闘争運動とモーリシャス社会党の連合が大勝利を収めて政権交代が起こり、アヌルード・ジュグノートが首相に就任したものの、党内の内紛によって1983年にはジュグノートがモーリシャス社会主義運動を結成し、労働党と連立を組んで政権を維持した[5]。

1992年には立憲君主制から共和制に移行し、モーリシャス共和国となった。ジュグノートは1995年まで政権を維持したが、同年労働党が選挙に勝利し、同党党首のナヴィン・ラングーラムが首相に就任した。2000年には社会主義運動が勝利してジュグノートが再び首相に就任し、2003年には連立相手の闘争運動・ベランジェ党首に首相の座を譲った。2005年には労働党が勝利してラングーラムが首相となり、2010年の選挙でもその座を維持したが、2014年の選挙では社会主義運動が勝利してジュグノートがみたび首相に就任した。2017年にジュグノートは政界を引退し、息子である社会主義運動党首のプラビンド・ジュグノートが首相の座に就いた。

2020年、わかしお座礁石油流出事故に見舞われた[6]。8月6日、モーリシャス政府は環境緊急事態宣言を発表。周辺国(地域)や日本政府に対して全面支援を要請した[7]。

^ 『秘境国 まだ見たことのない絶景』パイインターナショナル、2011年、19頁。ISBN 978-4-7562-4124-5。  ^ 「モーリシャス」p.824、p.825 寺谷亮司(『朝倉世界地理講座 アフリカII』」所収) 池谷和信、佐藤廉也、武内進一編、朝倉書店、2008年4月 ^ a b 「モーリシャス」p.825 寺谷亮司(『朝倉世界地理講座 アフリカII』所収) 池谷和信、佐藤廉也、武内進一編、朝倉書店、2008年4月 ^ 「民主主義対民主主義 多数決型とコンセンサス型の36カ国比較研究(原著第2版)」p45 アレンド・レイプハルト著 粕谷祐子・菊池啓一訳 勁草書房 2014年6月20日原著第2版第1刷発行 ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.580、朝倉書店 ISBN 4254166621 ^ “日本の貨物船から燃料流出 モーリシャスが「環境非常事態」を宣言”. BBC. 2020年8月20日閲覧。 ^ “モーリシャスが環境緊急事態宣言 日本船の燃料流出で生態系に懸念|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト”. www.newsweekjapan.jp (2020年8月10日). 2020年8月20日閲覧。
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