コンウィ城

コンウィ城(コンウィじょう、英語: Conwy Castle、ウェールズ語: Castell Conwy; ウェールズ語発音: [kastɛɬ 'kɔnwɨ̞]〈カステス・コヌゥイ〉)は、イギリス、ウェールズ北部の都市コンウィ(Conwy〈コンウェイ、Conway〉)にある城であり、コンウェイ城(英: Conway Castle)とも表記される。13世紀、イングランド王エドワード1世がウェールズ統治の拠点として築いた城は、8基の円塔や城壁が残り、1986年、カーナーヴォン城、ビューマリス城、ハーレフ城とともに「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」として世界遺産に登録された。

13世紀

イングランド人がアベルコンウィ修道院(英語版)を設立する以前、もともとコンウィは、ウェールズ(グウィネズ王国(英語版))公の大サウェリン(英語版)(大ルウェリン[1][2]〈サウェリン・アプ・イオルウェルス[3]、ルウェリン・アプ・ヨーワース[4][5])らの庇護を受けたシトー会修道院が治めていた[6]。そこには llys(シス)と称されたウェールズ大公の宮廷があり、そのかつての建造物は市壁 (Town Wall) の東側の南端部にあった。大サウェリンとその孫サウェリン・アプ・グリフィズ(ルウェリン・アプ・グリフィズ[7][8])[5]所有の13世紀前半にさかのぼる llys(宮廷・コートハウス〈court house〉)の壁や塔はその壁内に組み込まれている。

この地はまた、デガヌイ城が長年防備してきた[9]北ウェールズの沿岸と内陸の地方より流れるコンウィ川(英語版)の重要な横断地点を占めていた[6]。イングランド王とウェールズ公は1070年代以来その一帯の支配権を争い[10]、13世紀に紛争が再発すると、1276年以後、イングランド王エドワード1世はウェールズに侵攻し[11]、治世のうち1277年に続いて[12][13]、1282年に2度目のウェールズへの進入を惹起した[14][15][16]。イングランド軍は1282年の最後の攻撃でカーマーゼンから北進し、モンゴメリー(英語版)およびチェスターから西に軍を進めた[17]。

エドワード1世は、翌1283年3月にコンウィを占領し、その場所を新たなカウンティの中心とするよう決定した。エドワードは修道院をコンウィ川の渓谷およそ 12.8キロメートル (8.0 mi) 上流のマイナンの新たな用地に移して、マイナン修道院(英語版)を定めると、もと修道院があった場所に新しいイングランドの城と防壁を巡らせた町を建設した[17]。デガヌイの荒城は放棄され再建されることはなかった[18]。エドワードの企ては植民地事業であり、新しい町や市壁をそういった現地ウェールズの一等地に配置することは、一つにイングランドの権力を誇示する象徴的な所業であった[19]。

 1300年代前半の市壁と城塞の立体模型図 コンウィの市壁と城塞の平面図

イングランド王はウェールズ遠征の中心拠点となる城を建てるよう命じ、数日のうちにコンウィ城を巡る溝(溝渠〈こうきょ〉、Ditch)を掘削する作業が開始された[20]。作業はジョン・ド・ボンヴィラール(英語版)による管理のもと、熟練石工のマスター・ジェイムズが監督して築城を主導した。1283年から1284年にわたる作業の第一段階は、城郭のうち外幕壁と塔の構築にあてられた[21]。第2段階の1284年から1286年に、城内の建物が構築される間に[21]隣接する町の市壁の作業が開始された[22]。建造者はその任務のためイングランド全土から膨大な数の労働者を募った。夏季の建築のたびに、労働者はチェスターに集まった後ウェールズへと入った[23][24]。1287年には城は一通り完成した[25][26][22]。エドワードの会計官は市壁の経費を築城の費用と分けておらず、それらの事業の総費用はおよそ1万5000ポンドとなり、その時代に莫大な金額であった[22][注 1]。

コンウィ城の城代(コンスタブル、constable)は、1284年の勅許状 (royal charter) により、コンウィの新しい町の市長が兼任して、チャプレン(聖職者)、大工、石工、鍛冶屋、哨兵が各1人、門衛、料理人や台所の下働き、馬丁が各数人、それに弩兵(クロスボウ射手)15人を含む平時約30人からなる城の守備隊を監督した[28][29]。城の最初の城代は、以前リズラン城(英語版)の最初の城守となった William de Cicon であった。

1294年にオワイン・グウィネズの嗣孫(しそん)マドッグ・アプ・サウェリン(英語版)(マドッグ・アプ・ルウェリン)が、イングランドの支配に対して蜂起し[30][注 2]、1294年12月から翌1295年1月にかけてコンウィ城が包囲されると、エドワード1世は2月に海軍の応援が到着するまで籠城している[31][32][33]。年代記編者ウォルター・オブ・ギーズバラ(英語版)は、厳しい状況にエドワードは自身の私用貯蔵ワインを口にするのを拒み、代わりに守備隊の間でそれを分配させたと唱えている[33]。その後の数年間に、城は高位者が訪れるための中心的居住地となり、1301年にエドワードの子、後のエドワード2世が招かれ、ウェールズ首長の臣従の誓い(オマージュ)のためにこの地に滞在した[34]。

14-15世紀

コンウィ城は、14世紀初頭にはあまり保守されておらず、1321年の視察により、設備は貧弱で、蓄えは乏しく、屋根の雨漏りや腐った木材に悩まされていると報告された[35]。コンウィは活気を失い、エドワード黒太子が1343年に城の支配権を引き継ぐまで低迷が続いた[35]。その後1346-1347年に[26]、城はエドワードの侍従(城代)ジョン・ウェストンにより大規模な修理を施され、城の大広間の新たな石材支持アーチならびにその他の部分が構築されたが、黒太子が没すると城は再び荒れるに任された[35]。

14世紀末には、城はリチャード2世により、対抗するヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)の部隊からの退避所に使われた[25][36]。1399年8月12日、アイルランドから戻った後、リチャードは城に向かい、そこでヘンリー・ボリングブルックの特使ヘンリー・パーシーとの交渉に会した[37]。パーシーは礼拝堂において王に危害を加えないことを誓った。8月19日、リチャードはフリント城(英語版)でヘンリーに降伏し、自身の命が救われるなら退位するとした[38]。王は間もなくロンドンに連れられ、その後ポンテフラクト城(英語版)に幽閉されて死去した[37]。

ヘンリー・ボリングブルックは、1399年9月末にヘンリー4世としてイングランドの王位に就いたが[39][40]、その翌1400年[41]、オワイン・グリンドゥール(オウェン・グリンドゥル)の指導のもと、北ウェールズで反乱が発生した[37]。1401年3月には、オワイン・グリンドゥールのいとこリス・アプ・テューダー(英語版)とその兄弟グウィリム(英語版)がコンウィ城に不意打ちを企てた[37]。城を修繕する大工のふりをして、2人は入り込むと、当番の哨兵2人を殺して要塞を掌握した[37]。ウェールズの蜂起勢が次いで襲撃し、防壁に囲まれた町の残りの部分を占領した[42]。兄弟らは投降の条件がまとまる前およそ3か月間寄せ付けず、この協約の一端として2人はヘンリーより恩赦が与えられた[37]。

1455年から1485年にかけての薔薇戦争の際には、ランカスター家とヨーク家の対立を背景に補強されながらも、実戦には使われていない[43]。16世紀初頭の1520年代と1530年代にヘンリー8世が手を加えて以降、軍事拠点としては形骸化し、もっぱら賓客を迎える施設または倉庫、監獄として使われるようになった[43]。

17-21世紀

コンウィ城は、17世紀初頭(1609年[44])には再び荒れ果てていた[45]。1627年にチャールズ1世はエドワード・コンウェイ(英語版)に100ポンドで売り払い[注 3]、またエドワード(英語版)と称されたエドワードの長子が、1631年に廃址を相続した[45]。1642年にイングランド内戦がチャールズの国王派と議会派の間で勃発した[45][47][48]。ヨーク大司教(英語版)ジョン・ウィリアムズ(英語版)が[44]国王派として城を掌握すると[25]、自己資金でその修復および駐屯に取り掛かった[45]。1645年、ジョン・オーウェン(英語版)が代わりに城の総督に任命されたことで、2人の間に激しい論争に至った[49]。大司教は議会に寝返り、コンウィの町が1646年8月に落ちると、11月にトマス・マイトン(英語版)少将[44]が大包囲戦の後にようやく本城を取った[50]。その後トレヴァー家(英語版)はマイトンに、彼らが大司教に貸与した城にある所有物の返還を請願している[51]。

 内郭を防御し北ウェールズ海岸線を見張る「パン焼の塔」と監視塔

包囲戦の後にジョン・カーター (John Carter) 大佐が城の総督に任命されると新たな修復がなされた[50]。1655年に議会より任じられた国務会議は、城を廃城 (slighting[52])、ないしこの先軍事的に使用させないよう命じた。「パン焼の塔[53]」(Bakehouse Tower) は同年、廃城の一環として故意に一部が破壊された[26][50]。1660年のチャールズ2世の王政復古とともに[54][55]、コンウィはコンウェイ伯(英語版)エドワード・コンウェイ(英語版)に返還されたが、5年後エドワードは残存する鉄や鉛を城から剥ぎ取ってそれを売り払うことに決めた[56]。その作業は、コンウィの主たる市民による反対にもかかわらず、エドワード・コンウェイの看守ウィリアム・ミルワード (William Milward) の監督のもとに完了し、城を完全な廃墟に変えた[57]。

18世紀末には、この城の遺構は美しく(ピクチャレスク)[25]崇高なものとして来訪者や芸術家を引き付け、J・M・W・ターナー[58]、トマス・ガーティン[59]、J・C・イベットソン(英語版)[60]、ポール・サンドビー、モーゼス・グリフィス(英語版)など多くの画家に描かれた[57]。

嵐の後の虹とコンウィ城 (ジョージ・バレット・シニア(英語版)、1778年頃) 
嵐の後の虹とコンウィ城
ジョージ・バレット・シニア(英語版)、1778年頃)
コンウィ城、ウェールズ (ウィリアム・ホッジス、1790年) 
コンウィ城、ウェールズ
(ウィリアム・ホッジス、1790年)
東からのコンウィ城 (ジョン・イングルビー(英語版)、1795年) 
東からのコンウィ城
ジョン・イングルビー(英語版)、1795年)

19世紀にはコンウィ川を渡って町とサンディドゥノ(英語版)[61](スランディドノウ[62])を結ぶ1826年の道路橋(コンウィ吊橋)や1848年完成の鉄道橋(英語版)がそれぞれ建設された[63]。こうした交通網の進歩で旅行者の数は一層増加した[25][64]。1865年にコンウィ城は[25]、コンウェイの嗣孫より引き継いでいたホランド家 (Holland family) からコンウィの町の市政幹部に渡された。その後、損傷した「パン焼の塔」の復元など[26]、廃址の修復作業が始まった[64]。1953年、城は建設省(英語版)に貸し出されると、アーノルド・テイラー(英語版)が広範囲にわたる修理と城の歴史調査を始めた[65]。1958年には城に向かう新たな道路橋が建設された[64][66]。先にイギリス指定建造物として保護されていた城は[26]、1986年には「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」として世界遺産の一部に登録された[67][68]。

21世紀、コンウィ城はカドゥ(英語版) (Cadw) により管理されている。城は継続的な保全および修繕が必要であり、2002年会計年度(2002-2003年)の費用に約3万ポンドを要している[69]。観光の名所として2010年には18万6897人が城を訪れ[70]、新しいビジターセンターが2012年に開設された[68][71]。2018年の来訪者は20万1961人であった[72]。

2019年10月29日に兵庫県姫路市において姫路城と姉妹城提携を結び、ウェールズとの文化、芸術、教育、観光の交流促進を趣旨とする活動が始まった[73][74]。

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