ビューマリス城(ビューマリスじょう、英語: Beaumaris Castle 、ウェールズ語: Castell Biwmares ウェールズ語発音: [kastɛɬ bɪuˈmɑːrɛs]〈カステス・ビウマレス〉)は、ウェールズ北西部のアングルシー島に位置する港湾都市ビューマリスにある中世の城である。ボーマリス城とも表記される。1986年、カーナーヴォン城、コンウィ城、ハーレフ城とともにグウィネズのエドワード1世の城郭と市壁として世界遺産に登録された。

13–14世紀

イングランド王とウェールズ(グウィネズ王国(英語版))の首長は、1070年代より北ウェールズの覇権を争っていたが[1][2]、13世紀に紛争が再発するようなると、エドワード1世の治世のうちに、1277年に続き[3][4]、1282年に2度目のウェールズへの侵入を引き起こした[5][6][7]。エドワードは大軍とともに侵攻し、カーマーゼンから北方に、またモンゴメリー(英語版)やチェスターから西に向けて攻略した[8]。エドワードは北ウェールズの恒久的な直轄領化を決定し、その統治の条項が1284年3月19日に公布されたリズラン法令(英語版)に定められた[9]。ウェールズはカウンティとシャイア (counties and shires) に分割され、イングランドの統治に倣って、北西ウェールズに3つの新しいシャイアとして、カーナーヴォン(英語版)メリオネス(英語版)、アングルシーが創設された[10][11]。防御の城を持つ新しい町が、始めに2つのシャイアの行政的中心地としてカーナーヴォンとハーレフに置かれ、また別の城と防壁の町が近隣のコンウィに建造され、おそらくアングルシーのスランフェス(英語版)の町の付近にも同様の城と居住地を置く計画が立てられていた[10]。スランフェスはウェールズで最も豊かな自治市とされ、人口においても最大で、重要な貿易港として北ウェールズからアイルランドに向かう要路上にあった[10]。しかし、ほかの城を築くための莫大な出費により、スランフェスの事業は延期されていた[10]。

 水堀を巡らした外郭の北西壁

1294年、マドッグ・アプ・サウェリン(英語版)(マドッグ・アプ・ルウェリン)がイングランド支配への反抗を起こした[12][13]。反乱は血にまみれ、犠牲者のなかには国王の側近である[14]アングルシーの保安官ロジャー・ド・プレスドン(英語版)もいた[12]。エドワードは冬以降、1295年3月に反乱を鎮圧したが[13]、4月に一時アングルシーが再占領されると、直ちにその地域を固めるために、遅延した計画に着手し始めた[12]。選定された場所はビューマリス (Beaumaris) と呼ばれ、その名前はノルマンフランス語の Beau Mareys に由来し、「美しい湿地[15][16]」(英: ‘fair marsh’)の意であり、ラテン語で de Bello Marisco と称されていた[17]。ここはスランフェスから約 1マイル (1.6 km) であったため、スランフェスのウェールズ住民を南西約 12マイル (19 km) 移動させる決定がなされたことから、そこにニューボロウ(英語版)という名前の入植地が創設された[12]。地元ウェールズ人の強制移動は、強固な城により防御され、繁栄するイングランドの町の構築に向けての道を開いた[18][19]。

城は町の一角に配置され、コンウィの町と同様の市街計画によるが、ビューマリスにおいてはいくつかの基礎が置かれたにもかかわらず、当初、町の防壁は建設されなかった[20][21]。1295年の夏、ビューマリス城はマスター・ジェイムズの監督のもと着工された[12]。ジェイムズは「ウェールズにおける王の仕業のマスター(親方[22])」に任命され、ジェイムズは責任を担ってエドワードの城の建造と設計に携わった。1295年には、ビューマリスがジェイムズの一義的責務となると、重ねて ‘magister operacionum de Bello Marisco’ (ビューマリスの造営長官)の称号が与えられた[23]。その仕事は、中世の王室経費の継続的記録であるパイプ・ロールにかなり詳細に記録されており、そのため、ビューマリスの造営の初期段階は、その時代において比較的よく分かっている[24][25]。

 南側のゲートハウス(門塔)に通じる入口

最初の夏に大規模な作業がなされ、平均1800人の人夫、450人の石工、375人の石切りが現場にいた[26]。これには週に約270ポンドが費やされ、事業は急速に滞り、担当官は労働者に通常の貨幣で支払う代わりに革の代用貨幣の発行を余儀なくされた[27][28][注 1]。秋までには6000ポンドが消費されていた[30]。城の中心部は冬にかけて労働者を収容する仮設の小屋で溢れていた[31]。次の春、ジェイムズは雇い主にいくつかの問題およびそれに伴う多額の費用について説明した。

1週間でこれほど多額の資金がどこに行くのか不思議に思われるといけないので、貴殿に知ってもらいたい我われが必要なもの - それは切断と積重の両方で石工400人、加えて非熟練(一般)作業者2000人[30]、荷車100台[32]、ワゴン60台、それに石材や石炭紛 (sea coal) を運ぶボート30隻。採石夫200人[30]。鍛冶屋30人[32][30]。また根太(英語版)(ねだ)や床板を施すほか必須の仕事をする大工が引き続き必要です[注 2]。すべてこれには駐屯の……物資の調達はなにも計上していません。その中でかなりの割合が必要となるでしょう……男らの賃金は今もなお非常に延滞しており、彼らには生きる糧が何もないことから、我われは彼らを維持するのに最大の困難を抱えています[34]。

建設は1296年のうちに遅延したが、債務は増え続け、そして次の年にはさらに作業が減り、1300年には完全に中断し、その時までに約1万1000ポンドが費やされていた[35]。中断は主にスコットランドにおけるエドワードの新しい戦争によるものであり、それへの注力および財源が消費され始めたことで、城は部分的にしか完成しないまま放置された。その内壁や塔においては、あるべき高さのものはほんのわずかであり、北ならびに北西側は完全に外防備を欠いていた[27][36]。

1306年、エドワードは北ウェールズへのスコットランドの侵攻が起こり得ることを危惧したが、未完の城はすでに修繕できないぐらいの状態に陥っていた[37]。外側の防備を完成させる作業が再開され、初めにジェイムズの指揮のもと、その後、ジェイムズが1309年に亡くなると[38] Master Nicolas de Derneford が引き継いだ[39]。一方、エドワード1世は1307年7月にスコットランドへの進軍中に亡くなり[40]、子のエドワード2世に引き継がれ[41]、その後1327年1月に廃位すると、エドワード3世が14歳で即位したが、それを期にスコットランドが北イングランドに侵攻し、1328年にはエディンバラ=ノーサンプトン条約(英語版)が締結された[42]。ビューマリス城の作業は、1330年を最後に中止され、城はまだ計画の高さには構築されないまま[19]、事業の終了までに1万5000ポンドという莫大な額がその期間に費やされていた[39]。1343年の王室調査では、城の完成には少なくともさらに684ポンド必要であろうとされたが、これが出資されることはなかった[43]。

15-21世紀  城と隣接する防壁の町を描いた1610年のジョン・スピード(英語版)の地図

1400年、北ウェールズにおいてオワイン・グリンドゥールが率いるイングランド支配への反乱が勃発した[44]。ビューマリス城は包囲され、1403年に反乱軍に攻略されるも、1405年には国王軍が奪還している[43]。城は補修されずに荒廃するままとなり、1534年にローランド・ド・ベルヴィル(英語版)がビューマリス城の城代 (constable[45][46]) になった時には、ほとんどの部屋は水濡れしていた[47][48]。1539年の報告によれば、そこはわずか8ないし10挺の小銃と40挺の弓 (bows) だけの備蓄により防御されていたと訴えており、城の新しい城代のリチャード・バークリー (Richard Bulkeley) は、予想されるスコットランドの攻撃に対する要塞の防御としては全く不十分であると結論づけている[43]。状態は悪化し、1609年には、城は「完全崩壊」に分類された[49]。

イングランド内戦は、1642年にチャールズ1世の王党派(騎士党)支持者と議会(円頂党)の支持者の間で勃発した[50]。ビューマリス城は、アイルランドにある国王の拠点とイングランドの作戦本部間の経路の一部を支配し、戦いにおいて戦略的な位置にあった[49]。数世紀にわたりその一家が城の管理に関わっているトマス・バークリー(英語版)は、国王のためにビューマリスを支え、その防御の強化におよそ3000ポンドを費やしたともいわれる[51][注 3]。しかし、1646年には議会派が国王軍を破り、6月14日に議会軍のマイトン少将に対して降伏し[53]、城は王党派リチャード・バークリー大佐により明け渡された[49]。アングルシーは、1648年に再び議会に対して反乱を起こし、一時ビューマリスは王党派勢力が再び占拠したが、その年の10月には2度目の降伏に至ることとなった[49]。

戦いの後、多くの城が廃城 (Slighting[46]) され、軍事的使用を経て放置されるままに損傷したが、議会はスコットランドからの王党派の侵入の脅威などを懸念し、ビューマリス城は容赦された[54]。ジョン・ジョーンズ (John Jones) 大佐が城の総督となり、駐屯地が城内に年間費1703ポンドで設定された[49]。その後チャールズ2世が1660年に王位に返り咲き[55]、バークリー家を城の城代に復帰させた際、ビューマリスはその高価な鉛や残った資材を屋根などから剥ぎ取られたものと見られる[56]。

第7代バークリー子爵トマス・バークリーは、1807年に王家から城を735ポンドで買い取り、地元の邸宅であるバロン・ヒル(英語版)を囲む公園に組み入れた[57][19]。それまでに北ウェールズの城は、ツタの絡まる遺構をロマンティックに捉えた画家や旅行者が訪れる興味深い場所となった。その近辺にあるほかの城跡ほど有名ではないが、この一連の城の1つとして構築されたビューマリスには[4]、1832年に将来の女王ヴィクトリアが13歳の時にアイステズヴォッド(英語版)祭に訪れており[58]、1835年にはJ・M・W・ターナーにより描かれた[56]。この城の石材のいくらかは、1829年に近くのビューマリス刑務所(英語版)の建設のために再利用されたと考えられる[49]。

1925年、リチャード・ウィリアムズ=バークリー (Richard Williams-Bulkeley) は自由保有権(英語版)を保持し、城を作業委員会 (Commissioners of Works) の管理のもとに置き、その後、大規模な修復計画を実施して、草木を取り除き、堀を掘り起こし、石造物を修理した[57]。1950年に、城は当局により「ウェールズの優れたエドワード時代の中世の城の1つ」として、指定建造物1級 (Grade I) に指定された[59]。最上等級の1級は「特に優れた、通常国家的に、重要な」建物として保護されている[60]。

ビューマリスは1986年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録された「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」の一部に認定され、「ヨーロッパにおける13世紀後半から14世紀初頭の軍事建築の最高の例」の1つとされている[61]。21世紀現在、ビューマリス城は、ウェールズ議会政府(英語版)の歴史的環境事業の機関であるカドゥ(英語版) (Cadw) により観光名所のモニュメントとして管理されており、2007年会計年度(2007-2008年)にはビューマリスに7万5000人が訪れた[62]。城は継続的な保全・修理が必要であり、その2002年会計年度(2002-2003年)の費用として、5万8000ポンド余りを要している[63]。

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