Heidelberger Schloss

( ハイデルベルク城 )

ハイデルベルク城(Heidelberger Schloss)は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイデルベルク市に遺る城趾である。ドイツで最も有名な城趾の一つであり、ハイデルベルクの象徴的建造物となっている。プファルツ継承戦争で破壊されるまで、この城はプファルツ選帝侯の居城であった。1689年にルイ14世の軍によって破壊され、1693年に一部だけが修復された。この城趾はアルプスの北側で最も重要なルネサンス建築の遺構を含んでいる。この城はケーニヒスシュトゥール(「王の椅子」)という山の北斜面、 ネッカー川の河原から約80mの高さに位置し、旧市街の風景を決定づけている。

破壊まで 最初の記録

ハイデルベルクは、ライン宮中伯コンラート・デア・シュタウファーの1147年の文書に初めて記録されている。すなわち、父のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の遺産を異母兄の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と分割し、ラインフランケン地方を得たというものである。コンラートの居館が現在の城山であるイェッテンビュール(山全体はケーニヒシュトゥールという名であるが、その麓部分を特にイェッテンビュールと呼ぶ)にあったとする説は、未だに証明されていない。

歴史家でフリードリヒ2世の秘書官であったフーベルトゥス・トマス・レオドシウスが伝える伝承によれば、イェッテンビュールの名前は占い師の老婆イェッタに由来するという。シュリーアバッハ上流域のヴォルフスブルンやネッカー川の対岸にある異教徒の洞穴がこの物語の源泉となったのであろう。しかし実際には、「イェッテンビュール」は「ユンクフィーヒューゲル」(Jungviehhügel = 若い家畜の丘)を意味する。

 オベーレ・ブルクが描かれた1527年の版画

ハイデルベルクの城は、1225年に初めて記録されている。ルートヴィヒ1世がヴォルムス司教ハインリヒから、この城をレーエンとして獲得したというものである。1214年にライン宮中伯に叙せられたバイエルン公がこの城の城主となったのである。1294年までハイデルベルクの城が複数あることを示す記述はないが、1303年にハイデルベルクに2つの城があることを示す記述が初めて現れる。現在のモルケンクア近くのクライン・ガイスベルクにあるオベーレ・ブルク(上の城)とイェッテンビュールにあるウンテーレ・ブルク(下の城)である。このため長い間、ウンテーレ・ブルクは1294年から1303年の間に建設されたと考えられていた。さらに19世紀後半に行われた精密な城の測量結果は、この城の成立年代不明の遺構が15世紀以前のものであることを示した。しかし出土した建築の遺構や建築史に基づくその後の研究成果は、ハイデルベルク城の成立を13世紀前半と推定している。1897年にはガラスの広間棟とフリードリヒ館の間の間仕切り壁にふさがれた窓があったことが示された。また、1976年のループレヒト館北東角の掘削研究では、1400年頃の地層に金属片やヴィルデンベルク城のアーチ窓に類似した形の窓の断片と思われるクローバー型の断片が発見された。さらに1999年にルートヴィヒ館付近で行われた考古学研究の結果は、この付近の建設が13世紀前半になされたという説を補強するものであった。ループレヒト1世の時代には名高い宮廷礼拝堂が建てられていたという説もある。

 Thesaurus Pictuarumに描かれたハイデルベルク城

ハイデルベルクを描いた最も古い作品は、

プファルツの教会参事会員マルクス・ツム・ラムの「Thesaurus Pictuarum」(1559年から1606年) ハイデルベルクの司書で教授のピトポエウスの「Annales Academici Heidelbergenses」(1587年以降) マルクァルト・フレーアーによる「Originum Palatinarum Commentarius」(1599年) マルティン・ツァイラーの「Teutsche Reyssebuch」(1632年、1674年に「Itinerarium Germaniae」として復刊) マテウス・メーリアンによって描かれたハイデルベルク城

だが、これらの作品はいずれも表層的なものであり、詳細な描写はなされていない。これに対して、マテウス・メーリアンの「Topographia Palatinatus Rheni」(1605年)には詳細な描写がなされている。メーリアンが描いた城の建物のほとんどは18世紀まで遺っていた。 このメーリアンの作品には「100年と少し前」、すなわち選帝侯ルートヴィヒ5世の時代に建設が始まったと記述されている。

王の城、教皇幽閉

1401年、プファルツ選帝侯ループレヒト3世はローマ王(ドイツ王)になった。城は王の宮廷としては大変に手狭であり、戴冠式の後、ループレヒトはアウグスティン修道院(現在の大学)にまで宮廷を拡張した。それは王の宮廷にふさわしく、多くの官吏が執務するスペースを有するものであり、同時に防衛施設としても機能すべきものであった。

1410年にループレヒトが亡くなった後、その支配地は4人の息子達の間で分割された。プファルツの本拠地は長男のルートヴィヒ3世のものとなった。コンスタンツ公会議後、1415年に皇帝ジギスムントの命令により、アイヒェルスハイム城(現在のマンハイム、リンデンホーフ区)にいた元対立教皇ヨハネス23世がこの城に拘禁された。

フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーは1838年にハイデルベルクを訪れ、城趾を特に好んで散策した。この取材に基づいて教皇幽閉の歴史を記述している。[1]

バーデン=プファルツ戦争

バーデン=プファルツ戦争時の1462年に、プファルツ選帝侯フリードリヒ1世はバーデン=バーデン辺境伯カール1世、メッツ司教ゲオルク、ヴュルテンベルク伯ウルリヒ5世を捕虜にし、貧しい食事しか与えずに拘束した。伝説によると、フリードリヒ1世はこの捕虜達に食糧不足を納得させるために、食事のたびに荒廃した国土を窓から見せつけたとされる。この様子はグスタフ・シュヴァープの詩『ハイデルベルクの食事』に詠われている、フリードリヒ1世はこれらの捕虜の身代金を要求した。辺境伯カール1世は25,000グルデンの金を払い、シュポンハイムを割譲し、プフォルツハイムをレーエン領とした。メッツ司教は45,000グルデンを支払った。しかしフリードリヒ1世にとって最も重要であったのは、選帝侯の地位を保障せよという要求であった。

宗教改革と三十年戦争

ルートヴィヒ5世の時代にマルティン・ルターが、自らの信仰を説明するためにハイデルベルク城を訪れた(ハイデルベルク信仰問答)。ルートヴィヒ5世の弟である宮中伯ヴォルフガングの案内を受けたルターは後に友人ゲオルク・シュパラティンへの手紙で、城の美しさと戦闘設備の充実を称賛している。

三十年戦争で初めて城に砲弾が飛んできた。これによって城建設の歴史は事実上終結した。これ以後、城は破壊と再建を繰り返すことになる。

 1622年の城の縄張り図

プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は、逡巡しながらもボヘミア王位を受諾し(ボヘミア王フリードリヒ1世)、これにより悲劇を巻き起こした。白山の戦いの後、彼は追放者として逃亡する途中で性急にも軍を解散してしまった。このためバイエルン公マクシミリアン1世(後にバイエルン選帝侯)を首魁とするカトリック連合軍の司令官ティリー伯ヨハン・セルクラエスは防禦の術を失ったプファルツに襲いかかった。1622年8月26日にハイデルベルクへの砲撃が開始され、9月16日に街が、その数日後には城も占領された。1633年5月5日にスウェーデン軍がハイデルベルク市を占領しケーニヒシュトゥールからハイデルベルク城に砲弾を浴びせた。カトリック側の司令官は5月26日に城を明け渡した。しかし翌年には皇帝軍が城を奪回するために再び来襲し、1635年7月に占領され終戦を迎えた。1649年10月7日になってやっと新しい統治者がその家族と共に、この破壊された主城に再び入城した。

プファルツ継承戦争

プファルツ=ジンメルン家の最後の当主、カール2世が1685年に子供のないまま亡くなると、フランス王ルイ14世は、弟であるオルレアン公フィリップ1世の名の下に(オルレアン公フィリップ1世の妃エリーザベト・シャルロッテはカール2世の妹であった)プファルツ領の相続を主張した(プファルツ継承戦争)。1688年9月29日、フランス軍がプファルツ領に進攻すると、新しく選帝侯位を継いだプファルツ=ノイブルク家出身のフィリップ・ヴィルヘルムは10月24日にハイデルベルクを放棄した。

 破壊されたハイデルベルク城を描いた1693年のビラ

フランス軍の軍事会議は、アウクスブルク同盟軍に対抗するために、すべての防衛施設を破壊し国土を荒廃させることで、この地域における反攻の機会を敵から奪うことを決議した。フランス軍は1689年3月2日の退却の際に、城だけでなく都市にも多発同時的に火をかけた。ヨハン・ヴィルヘルムは、破壊されたハイデルベルクに戻るとすぐに市壁と塔の再建を命じた。フランス軍は1691年と1692年に再びハイデルベルクの門前にまで迫ったが、防衛施設が再建され良好な状態にあることを目の当たりにして、攻撃を行わず退却した。しかし1693年5月18日に再び来襲し、5月22日に街を占領した。だが、彼らの作戦は城に拠点を構える事ではなく、町の破壊することで城にダメージを与える事であった。数日後に城の守備隊は降伏し、フランス軍は1689年の退却時の慌ただしさに不完全であった破壊を今度は完遂した。前回は破壊を免れた塔や壁が爆破されたのである。

マンハイムへの遷都

1697年、プファルツ継承戦争を終結させたレイスウェイク条約により、ようやくわずかな平安がもたらされた。城を破壊し、まだ使える部分は渓谷に造営する新しい宮殿に利用するという計画が立てられた。しかしこの計画の遂行は困難であるため、城は応急処置的に修復されることとなった。同時にカール3世フィリップは城を完全に立て替える計画も描いたが、資金難のためこの計画は先送りされた。また選帝侯は、聖霊教会をカトリックに転向させたために市のプロテスタント信者と争いになっていた。聖霊教会をカトリックの宮廷教会に変更しようとする彼の計画をプロテスタント教徒らは手を尽くして妨害しようとした。こうしたことから、宮廷をマンハイムに移転する計画が持ち上がり、選帝侯はハイデルベルクに対する興味を失った。1720年4月12日、彼は宮廷をすべての官庁と一緒にマンハイムに移転すると発表した。選帝侯はこの古来の首都を運命の手に委ねるが、「路傍の草に至るまで移転する」つもりだと発言した。

後継者のカール・テオドールは一時期、居館をハイデルベルク城に戻す計画を立てた。しかし1764年6月24日、立て続けに2発の稲妻がホールの建物に落ち、城はまたもや炎上した。選帝侯はこれを神の意志と見なし、計画は中止となった。

その後何十年もの間、必要な修復を立案する者もあったが、ハイデルベルク城はおおむね廃墟として過ごした。

破壊後 ゆっくりとした崩壊とロマン派の興奮

1777年、バイエルン選帝侯位も継いだカール・テオドールは宮廷をマンハイムからミュンヘンに移した。これによりハイデルベルク城はますます視界から遠ざかった。屋根に覆われた部分は手工業者らに利用されるようになっていた。1767年にはすでに、南防塁の角石がシュヴェツィンゲン城(ドイツ語版)の建築資材として運び出され始めた。1784年にはオットハインリヒ館1階のヴォールトが剥き出しとなり、城は石切場になり果てた。

1803年の帝国代表者会議主要決議によってハイデルベルクとマンハイムはバーデン領となった。カール・フリードリヒ大公は支配地域の大きな拡大を歓迎したが、ハイデルベルク城はありがたみのない添え物に過ぎなかった。建物は崩壊し、ハイデルベルク市民は自分の家のための石材、木材、鉄材を城に取りに行っており、彫刻や飾りもなくなっていた。アウグスト・フォン・コツェブーは1803年に、城趾を整地しようとするバーデン政府の計画に対し憤慨の意を述べている。この破壊された城は、19世紀の初めにはナポレオンの圧政に対する愛国心のシンボルとなっていった。

 ウィリアム・ターナーが描いたハイデルベルク城 1815年のC.P.フォールの作品

1800年以前に画家やデザイナーらはすでに、この街の城址と山あいの川が織りなすアンサンブルを知っていた。その頂点をなすのが、イギリスの画家ウィリアム・ターナーである。彼は1817年から1844年の間に何度もハイデルベルクに滞在し、ハイデルベルクとその城を描いた作品を何点か制作した。彼やその他のロマン派の画家達の作品は、細部に忠実な建築描写を行ったものではない。絵は城を幾重にも美化された建築として描き出したのである。

この城の救い主はフランス人のシャルル・ド・グライムベルクであった。彼は、ハイデルベルク城を「悪趣味な崩れ落ちそうな装飾が施された何重もの古くさい壁」と見なすバーデン政府に対して城趾の維持を主張して戦った。彼は1822年まで自主的に城の監視委員会を運営し、長らく城の中庭を望むことのできるガラス張りのホールのバルコニーで暮らした。ドイツで文化財保護が始まるずっと前に、城の保存と資料整備を彼が初めて訴え、誰も想像しなかったロマン主義の熱狂により崩壊を阻止したのであった。グライムベルクの依頼によりトーマスA.レーガーが初代城趾総裁となった。グライムベルクは城趾の図版を作成し、城趾の知名度を高めて観光客をハイデルベルクに導いた。

現状調査と修復  ユリウス・コッホとフリッツ・ザイツによって1891年に作成された現状報告測量図

城を復元するかどうかという問題は長らく議論の対象であった。詩人のヴォルフガング・ミュラー・フォン・ケーニヒスヴィンターは1868年に完全な建て直しを強く主張して激しい反応を巻き起こし、新聞・雑誌や集会で議論がなされた。

バーデン大公国政府は1883年にカールスルーエの建築監督ヨーゼフ・ドゥルムをリーダーとし、地方建築監査官ユリウス・コッホと建築家フリッツ・ザイツを顧問とする「シュロスバウビューロ」(城館建築作業局)を設置した。この作業局の使命は可能な限り最新の現状調査を行い、現状維持か復元か主要建築物の処置について提言することであった。作業局の業務は1890年に完了し、ドイツ全土から集められた専門家委員会の検討基盤を作り上げた。専門家委員会は全会一致で、完全であれ部分的であれ復元するという案は考慮に値せず、現在の状態を維持保存することに全努力を傾注するべきであるとの結論を採択した。ただし、火災で内部が破壊されたフリードリヒ館だけは廃墟にはあたらず、復元作業を行うべきであるとした。この復元作業は1897年から1900年にかけて、52万マルクという巨費を投じてカール・シェーファーによって行われた。

城趾とツーリズム

1465年のハイデルベルクに関する最も古い記述にはすでに、この街は「外国からの訪問者が多い」と記載されている。とはいえ、本来の意味でのこの都市の観光は19世紀初頭に始まった。グライムベルク伯は、この城を描いたスケッチを広く流布させた。これは事実上、絵はがきの先駆けとなった。同じ頃、城ではすでにお土産用のカップも販売された。さらに観光業にとって決定的な一押しとなったのが1840年にハイデルベルクが鉄道網に結ばれたことである。

マーク・トウェインは1878年に著書『ヨーロッパ放浪記』でハイデルベルク城について記述している。[2]

20世紀にアメリカ人はハイデルベルク伝説を創作して世界中に広めた。その結果、日本人もヨーロッパ旅行の際にハイデルベルク城に立ち寄るようになった。

21世紀の初め、ハイデルベルクには年間100万人を超える訪問客があり、約90万人が宿泊する。外国からの観光客の多くはアメリカ人か日本人である。ハイデルベルク大学地理研究所のアンケート調査によれば最も評判が良いのは城の展望テラスである。

来訪者センターの新築のために300万ユーロが zweiten Konjunkturpaket des Bundes から提供された[3]。

年表 1225年: "Castrum" に関する最初の記録 1303年: 2つの城についての記録 1537年: 「オーベレン・ブルク」が落雷により破壊 1610年: 城館庭園の造営 (Hortus Palatinus) 1622年: 三十年戦争でティリー伯が都市と城を占領 1649年: 城の再建 1688年/89年: フランス軍による破壊 1693年: プファルツ継承戦争によるさらなる破壊 1697年から: 再建 1720年: 宮廷がマンハイムに移転 1742年: 再建 1764年: 落雷による破壊、その後放置 1810年: シャルル・ド・グライムベルクが城趾保存活動を開始 1883年: バーデン「シュロスバウビューロ」の設立 1890年: ユリウス・コッホとフリッツ・ザイツによる現状調査 1900年頃: 修復工事^ ヴィクトル・ユーゴー 『ハイデルベルク』 ^ マーク・トウェイン『ハイデルベルク』 ^ ライン=ネッカー・ツァイトゥンク 2009年3月6日付け
写真提供者:
ryan harvey from Portland, OR - CC BY-SA 2.0
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