のコンテキスト ナミビア

ナミビア共和国
Republic of Namibia(英語)
国の標語:Unity, Liberty, Justice
(英語: 統一、自由、正義)
国歌:Namibia, Land of the Brave(英語)
ナミビア、勇者の地

ナミビア共和国(ナミビアきょうわこく、英語: Republic of Namibia)、通称ナミビアは、アフリカ南西部に位置する共和制国家である。北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。なお、地図を一見すると接しているように見えるジンバブエとはザンビア、ボツワナを挟んで150メートルほど離れている。首都はウィントフック。イギリス連邦加盟国のひとつである。

当初ドイツ(一部イギリス)が植民地とし、植民地時代の名称は南西アフリカ。第一次世界大戦以後は南アフリカ連邦の委任統治下に置かれていたが、第二次世界大戦後の国際連盟解散を機に南アフリカが国際法上違法な併合を行った。南アフリカの統治時代には同様の人種隔離政策(アパルトヘイト)が行われ、バントゥースタン(ホームランド)が置かれた。その後、1966年にナ...続きを読む

ナミビア共和国
Republic of Namibia(英語)
国の標語:Unity, Liberty, Justice
(英語: 統一、自由、正義)
国歌:Namibia, Land of the Brave(英語)
ナミビア、勇者の地

ナミビア共和国(ナミビアきょうわこく、英語: Republic of Namibia)、通称ナミビアは、アフリカ南西部に位置する共和制国家である。北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。なお、地図を一見すると接しているように見えるジンバブエとはザンビア、ボツワナを挟んで150メートルほど離れている。首都はウィントフック。イギリス連邦加盟国のひとつである。

当初ドイツ(一部イギリス)が植民地とし、植民地時代の名称は南西アフリカ。第一次世界大戦以後は南アフリカ連邦の委任統治下に置かれていたが、第二次世界大戦後の国際連盟解散を機に南アフリカが国際法上違法な併合を行った。南アフリカの統治時代には同様の人種隔離政策(アパルトヘイト)が行われ、バントゥースタン(ホームランド)が置かれた。その後、1966年にナミビア独立戦争が始まり、1990年に独立を達成した。

詳細について ナミビア

基本情報
  • 通貨 ナミビア・ドル
  • 呼び出しコード +264
  • インターネットドメイン .na
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 6.52
Population, Area & Driving side
  • 人口 2533794
  • 領域 825615
  • 駆動側 left
履歴
  • 古代

    現在のナミビアの領域には、もともとはコイサン人(コイコイ人 - ナマ人、サン人など)が居住していたようである。

    バントゥー民族の拡大

    14世紀にはバントゥー系民族の拡大にともない、バントゥー系諸民族が支配するようになっていた。16世紀から17世紀にかけて、ヘレロ人、ダマラ人、オカヴァンゴ人などが定着した。

    植民地時代

    1840年にイギリスがケープ植民地との往来のためにウォルビスベイ一帯の領有を開始したが、その他の地域には支配は及ばなかった。ケープ植民地からの圧力を受けて、それまで相互に対立していた現在のナミビアに相当する地域に住む諸民族は、ヨンケル・アフリカネルの指導の下で1858年にワハナス平和条約を結び、共同で外国からの植民地化に立ち向かうことを宣言した。この平和条約の効力は弱かったものの、現在のナミビア民族(nation)形成の端緒として評価されている[1]。

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    古代

    現在のナミビアの領域には、もともとはコイサン人(コイコイ人 - ナマ人、サン人など)が居住していたようである。

    バントゥー民族の拡大

    14世紀にはバントゥー系民族の拡大にともない、バントゥー系諸民族が支配するようになっていた。16世紀から17世紀にかけて、ヘレロ人、ダマラ人、オカヴァンゴ人などが定着した。

    植民地時代

    1840年にイギリスがケープ植民地との往来のためにウォルビスベイ一帯の領有を開始したが、その他の地域には支配は及ばなかった。ケープ植民地からの圧力を受けて、それまで相互に対立していた現在のナミビアに相当する地域に住む諸民族は、ヨンケル・アフリカネルの指導の下で1858年にワハナス平和条約を結び、共同で外国からの植民地化に立ち向かうことを宣言した。この平和条約の効力は弱かったものの、現在のナミビア民族(nation)形成の端緒として評価されている[1]。

     
    ヘレロ戦争(ロシア語版、英語版)中、ドイツ軍によって鎖に繋がれたヘレロ人(1904年)。1907年の戦争終了時、ヘレロ人の80%以上が殺害されていた。

    1883年4月にドイツ帝国の商人アドルフ・リューデリッツは部下のハインリヒ・フォーゲルザングをこの地に派遣し、同年5月1日にフォーゲルザングは在地のベタニア人の首長ヨーゼフ・フレデリックスからアングラ・ペクエナの地を購入した。翌1884年にドイツ帝国はウォルビスベイ以外の地域について、このドイツの商人フォーゲルザングがベタニア人の首長フレデリックスから購入した土地を足がかりにドイツ領南西アフリカとして保護領化を宣言した(ドイツ植民地帝国)。ドイツからは弁務官パウル・ロールバッハや、総督テオドール・ロイトヴァン(任:1894年 - 1904年)が南西アフリカに派遣され、以後ドイツによる南西アフリカ人の「文明化の使命」や、商業上の利害に基づいて植民地化を進めた。他方、ナミビアの人々はこのドイツによる植民地化の動きを黙認したわけではなく、1902年には北部のオヴァンボ人の土地のカンボンデ首長はイギリスに手紙を書き、ドイツの植民地化に抵抗することを宣言している。また、白人入植者から土地を奪われたヘレロ人やナマ人も他の諸民族の反植民地運動に同調し、1904年1月にヘレロ人のサミュエル・マハレロ首長に率いられて蜂起した(ヘレロ戦争(ロシア語版、英語版))。この戦争に際してドイツ軍を指揮したフォン・トロッタ司令官は1904年10月2日にヘレロ人を抹殺する旨の宣言を発令し、ナマ人のヘンドリック・ヴィットボーイ率いる反乱に苦戦したあとの1905年4月21日にはナマ人の抹殺も命じている[2]。この戦争は1907年9月にドイツと結んだイギリス軍の兵士によって、反乱の有力指導者であったヤコブ・マレンゴが射殺されたことをもって終結し、戦争によってヘレロ人の80%以上、ナマ人の50%以上が殺害された(ヘレロ人とナマ人のジェノサイド)[3]。

    戦後、ドイツ当局は「部族別居留地」制度を敷いて分割統治策を打ち出し、のちの南アフリカ支配下でのアパルトヘイト政策の先鞭をつけた[4]。1910年には、イギリスがウォルビスベイ一帯をドイツに奪われることを防ぐため成立した南アフリカ連邦(1961年から南アフリカ共和国)の一部とした。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスと交戦状態に入ったドイツはイギリス領ウォルビスベイ一帯を占領した。

    南アフリカ委任統治領

    第一次世界大戦は継続し、ドイツによるウォルビスベイ占領の翌1915年には、南アフリカ連邦が南西アフリカ全体を再占領した。戦後、1921年に国際連盟によって南西アフリカは南アフリカ連邦の委任統治領とされ、このときウォルビスベイも南西アフリカの一部とされた。その後、第二次世界大戦までは南アの委任統治が行われ、1922年にはコイ人によるボンデルスワルトの反乱が、1924年にはカラードによる反乱が発生したがともに敗れ、1928年の時点で2万8,000人に達した白人入植者によって、黒人先住民が支配される体制が敷かれ続けた[5]。第二次世界大戦後の1946年に南アは国際連盟が解散したのに乗じ、委任統治をさせていた国際連盟がなくなったことから、委任統治の終了と併合を宣言した。しかし、国際的には認められず、国際法上不法占領にあたるとみなされた。

    1959年12月10日にウィントフックで発生した強制立ち退き反対を訴える黒人のデモに対し、警官隊が発砲し、11人が殺害された事件(ウィントフックの虐殺)以後、民族解放運動が高揚した。1960年の国連総会で、南アの委任統治終了と信託統治領に移行させるとした決議が可決されるが、南アは決議を拒否し実効支配が継続された。1962年にナミビアの民族解放組織として南西アフリカ人民機構(SWAPO)が形成され、南アフリカへの圧力となった。

    ナミビア独立戦争
     
    ナミビア独立戦争。赤がSWAPO支持国、緑が南ア支持国(1978年時点)。

    1966年に南アフリカ共和国は本国と同様にナミビアにもバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を行った。脱植民地化時代におけるこの露骨に人種主義的な政策は、国際的な非難とそれにともなう南アフリカへの経済制裁やナミビア国内での独立運動の高揚を招いた。同年7月には南西アフリカ人民機構(SWAPO)の武装蜂起によってナミビア独立戦争(1966年 - 1990年)が始まった。1968年には国連総会が、南西アフリカからナミビアと改称したうえで、国連ナミビア委員会の統治下に置く旨を決議した。1971年に鉱山労働者がストライキを行ったが、翌1972年に南アフリカ国防軍の出動によって鎮圧された。1973年には国連がSWAPOを承認した。1975年に前年のカーネーション革命によってポルトガル領だったアンゴラが独立し、アンゴラ内戦が勃発すると、ナミビアはアンゴラに直接介入する南アフリカ防衛軍の拠点となり、ナミビアとアンゴラの国境付近では南アフリカ軍とアンゴラ軍やキューバ軍との対峙が続いた。

    1982年にアメリカ合衆国のロナルド・レーガン大統領と南アフリカ政府は、キューバ軍のアンゴラからの撤退とナミビアの独立を交換条件とするリンケージ政策(英語版)を打ち出していた[6]。

    1988年2月のクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)でアンゴラ=キューバ=SWAPO連合軍に南アフリカ軍の攻勢が阻止されると、南アフリカはアンゴラからの撤退を表明した。南アフリカの撤退とキューバの疲弊は全紛争当事者へのこのリンケージ政策の履行を可能にした。1988年12月22日のニューヨーク協定(英語版)でリンケージ政策は関係各国に承認された。

    独立

    1989年、国連監視下でナミビアでは選挙が行われSWAPOが過半数を制した。1990年3月に制憲議会で憲法を制定したあと、独立を達成した。初代大統領にはSWAPO議長のサム・ヌジョマが就任した。独立以後もナミビアは複数政党制民主主義を堅持し、経済も成長している。

    1994年には、南アが1977年に併合し南ア領として支配していた港町ウォルビスベイ一帯も返還された。

    ^ ヘニング・メルバー編 『わたしたちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会化テキスト』 ナミビア独立支援キャンペーン・京都訳、現代企画室〈PQブックス〉、東京、1990年3月21日、初版第一刷、79-84頁。 ^ ヘニング・メルバー編 『わたしたちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会化テキスト』 ナミビア独立支援キャンペーン・京都訳、現代企画室〈PQブックス〉、東京、1990年3月21日、初版第一刷、117-131頁。 ^ ヘニング・メルバー編 『わたしたちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会化テキスト』 ナミビア独立支援キャンペーン・京都訳、現代企画室〈PQブックス〉、東京、1990年3月21日、初版第一刷、131-138頁。 ^ ヘニング・メルバー編 『わたしたちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会化テキスト』 ナミビア独立支援キャンペーン・京都訳、現代企画室〈PQブックス〉、東京、1990年3月21日、初版第一刷、149-152頁。 ^ 星昭、林晃史 『アフリカ現代史I──総説・南部アフリカ』 山川出版社〈世界現代史13〉、東京、1988年8月20日、初版第三刷、267頁。 ^ 青木一能「アンゴラとキューバ」『アフリカラテンアメリカ関係の史的展開』矢内原勝、小田英郎:編、平凡社 1989/06
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