Alhambra

( アルハンブラ宮殿 )

アルハンブラ宮殿(アルハンブラきゅうでん、スペイン語: la Alhambra ラランブラ)は、スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘(サビーカの丘)の上に位置する城塞・宮殿である。

アルハンブラは構造的には一つの城塞都市であるが、当初から全体の形が計画されていたのではない。異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体であり、時代により、建築様式や形状などが異なっている[1]。その前半はムーア人王朝の栄枯盛衰と共にあり、9世紀末イベリア半島南部を版図としていた後ウマイヤ朝末期の、アルカサーバと呼ばれる砦が原形であるといわれている[2]。これは、アラブ人が農民の反乱軍からの防御壁として築いたものである。

イスラム教徒がイベリア半島に進出する前、8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。711年、ウマイヤ朝の北アフリカ総督であるムーサー・イブン・ヌサイルが武将ターリクに命じ、トレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝であるが、このときの都はまだコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。

11世紀前半、1031年の後ウマイヤ朝滅亡後にキリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタが本格化し、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世が1085年にトレドを降伏させ、後にフェルナンド3世が1236年にコルドバ、1246年にセビリアを陥れた。このレコンキスタは、イスラム圏にとってはキリスト教徒による再征服活動であり、イスラム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア南部地方のみとなった。

アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、このレコンキスタが進展した時期であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 - 1492年)の時代に入ってからである。メディナ出身のデアル・アフマド家の血を引くムハンマド1世、およびその息子のムハンマド2世が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない)を造った。

その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代である。

ユースフ1世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。14世紀の学者イブン・ファドルッラー・(アル=)ウマリー(ابن فضل الله العمري, Ibn Faḍl Allāh al-ʿUmarī、(シハーブッディーン・(アル=)ウマリー, شهاب الدين العمري, Shihāb al-Dīn al-ʿUmarī)とも)の歴史書によると、スルタンは月曜と木曜の朝にサビーカの丘にある法廷で人々と共に座し、コーランのうちの10章や預言者ムハンマドの言行録(ハディース)の一部を朗読。宰相(ワズィール)が人民から話の聞き取りなどを行ったと伝えている。この集まりにはスルタンの親族らも参加していたという[3]。

ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の大理石円柱が立ち並んでいる。中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。これは、初代のムハンマド1世から十代のアブー・サイードまでのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。

ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。

1492年1月2日、カトリックのレコンキスタによってグラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わった。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、カルロス5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。当時イタリア留学であったペドロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。

スペインは、この地を1718年まで城代に管理を任せていたが、カルロス1世(カール5世)の時代に入ると、この宮殿を自らの帝国の支配の中心地にする考えを持っていたと言われており、いくつかの改築が行われている。カルロス5世の噴水や、カルロス5世の宮殿の建設が始まり(宮殿は完成することはなかった)、モスクは教会へ変えられ、礼拝堂や修道院が建築されている。

現在のスペイン国家は、公式にはレコンキスタの過程でイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国であるが、現代にアルハンブラ宮殿が残されていることからも、民衆がこの宮殿の文化的価値を肯定したとも推察され、この要塞の様式がパティオなどの建築文化に与えた影響も窺える。

また、スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るという。彼等にとってアルハンブラはイスラム=スペイン(アル=アンダルス)の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのである。

アルハンブラ宮殿は、栄枯盛衰を経てもなお破壊されることなく残され、現在スペイン屈指の世界遺産となり世界中からの観光客が訪れる名所となっている。

^ 『建築という対話』 2017, p. 203. ^ 『ヨーロッパの「古城・宮殿」がよくわかる本』 2010, p. 176. ^ “ص230 - كتاب مسالك الأبصار في ممالك الأمصار - الباب الرابع عشر في مملكة الأندلس - المكتبة الشاملة”. shamela.ws. 2024年1月6日閲覧。
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