ប្រាសាទ អង្គរវត្ត

( アンコール・ワット )

アンコール・ワット(クメール語: អង្គរវត្ត Ângkôr Vôtt [ʔɑŋkɔː ʋɔət])は、カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表する巨大な寺院である。建設時はヒンドゥー教寺院として作られたが16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在も上座部仏教寺院となっている。

クメール語でアンコールは王都、ワットは寺院を意味するため、アンコール・ワットは「国都寺院」という意味となる。大伽藍と美しい彫刻を特徴としクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。

建造から18世紀まで  アンコールワット 上空から

9世紀初頭に成立したクメール帝国(アンコール朝)はアンコール周辺に都城を建設して王都としていた。しかし、12世紀前半に即位したスーリヤヴァルマン2世はそれまでの都城に代わり、隣接地に新王宮を建設し、その南隣に国家鎮護のための新しいヒンドゥー教寺院を建設した。これがアンコール・ワットである。これまでアンコール朝で主流だったシヴァ派に代わり、この寺院はスーリヤヴァルマン2世の篤く信仰するヴィシュヌ派の寺院として創設された[1]。アンコール・ワットはスーリヤヴァルマン2世の在位中、30年を超える歳月を費やし建設されたものの、一部は未完成のままとなった[2]。13世紀後半のジャヤーヴァルマン8世の時代には改修が行われ、西からの参道が建設された[3]。1296年から1297年にかけてアンコールを訪れた元の周達観は、真臘風土記の中で「魯般の墓」としてアンコールワットのことを書き記している[4]。

1431年頃にアンコールが放棄されスレイ・サントー(英語版)に王都が遷ると、一時は忘れ去られるが16世紀半ばに再発見され[5]、アンチェン1世(フランス語版)は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した[6]。孫のソター王(フランス語版)は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという(再発見と言う意味でフランス語でもう一度という意味のencore(アンコール)と由来を説明されることもあるが、誤りであり言語的な関連もまったくない。)。

 『祇園精舎図』。日本人巡礼客の島野兼了、あるいは森本一房によって17世紀前半に作られたアンコールワットの実測図

1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マダレーナ(英語版)が西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。17世紀前半には朱印船貿易を通じて日本人にアンコール・ワットの存在が知られるようになったが、当時の日本人はこの寺院を祇園精舎と誤って認識していた[7]。しかし、通航の増大により、日本から巡礼客が訪れるようになり、これは1635年の海外渡航禁止まで続いた。当時の日本人参拝客の墨書はアンコール・ワットの各所に残されているが、なかでも1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」という墨書は広く知られている[8]。また、この時日本人巡礼客によってアンコールワットの実測図が作成されており、『祇園精舎図』として水戸徳川家に所蔵され、現在でも水戸市の徳川ミュージアムに所蔵されている。この図の作成者は長崎の通詞・島野兼了とされてきたが、彼は実在しない人物であり[9]、近年の調査で上記の森本一房によって作成されたとの説が有力となっている[10]。

その後、18世紀末にはアンコール・ワットを含むシェムリアップ州はシャムに割譲された[11]。しかし、カンボジアにおいてアンコール・ワットは聖性を保ち続けており、口承や年代記でも語り継がれるなど、存在が忘れられていたわけでは全くなかった[12]。

19世紀以降  中央祠堂(1866年撮影)

1850年、フランス人のシャルル・ブイユヴォー(Charles-Émile Bouillevaux)神父がアンコールワットを訪れており、これがポルトガル人以外の西欧人で初のアンコールワット訪問となった[13][14]。

しかし、本格的に西欧にアンコールワットが知られるようになったのは、1860年にフランス人のアンリ・ムーオが地元民の案内により寺院を訪れてからである。ムーオは翌年に死去するが、彼の紀行文が1863年に雑誌に掲載され、これによって西欧と世界に広くこの寺院のことが知られることとなった[13]。ムーオがこの遺跡の発見者、または再発見者として紹介される[15] ことは多く、また実際に彼の紹介によって諸世界に知られるようになったものの、上記のようにカンボジアでは全く忘れられておらず、また西欧人ですら彼より10年も早くブイユヴォー神父が訪れているため、これは誤りである。また、アンコール・ワットそのものは寺院として地元の信仰を未だ集め続けていたため、建物の損傷はアンコールの他の遺跡と比べるとわずかなものとなっていた[16]。

1863年にカンボジアがフランスに保護国化されると、アンコールワットに対するフランスの調査が散発的に行われるようになった。ルイ・ドラポルト(Louis Delaporte)などがこの時期に調査を行い[17]、また1878年にはパリ万国博覧会でアンコール・ワットをかたどったインドシナ館が建てられる[18] などしたものの、この時期はカンボジア理解の一環としての研究にとどまっていた[19]。

アンコール・ワット研究が本格化するのは、1907年にシャムからアンコールを含むシェムリアップ州の割譲を受け、アンコールがフランス領となってからである。同年にはサイゴンにあったフランス極東学院がアンコール遺跡保存事務所を設置し[20]、以後1970年代にいたるまで寺院の保存修復を行った[21]。1908年には初代アンコール遺跡保存官としてジャン・コマイユ(Jean Commaille)が赴任し、遺跡内の寺院を移転させ、土砂や樹木の除去を行い、また観光用に遺跡までの道路を建設した[22]。1909年には当時のシソワット1世王がアンコール・ワットに巡幸を行い、以後カンボジア王家とアンコール遺跡との関係はより強まった[23]。また翌年、寺院内に居住していた仏教の僧侶たちを退去させ、生きた寺院としての役割は弱まり、遺跡としての保護が前面に押し出されるようになった[24]。1913年には建築学者の伊東忠太が水戸徳川家所蔵の『祇園精舎図』を調査し、これがアンコール・ワットの実測図であることを明らかにしている[7]。

太平洋戦争下の1942年から1943年にかけて、日本の真宗大谷派が派遣した東本願寺南方美術調査隊が現地を訪れ、写真などを残している[25]。

1953年にカンボジアが独立したのち、アンコール・ワットはノロドム・シハヌーク政権によってナショナリズムと強く結びつくようになった[26]。1959年にはベルナール・フィリップ・グロリエ(Bernard-Philippe Groslier)がアンコール遺跡保存官に就任し、西参道の修復などを行った[27]。1972年、カンボジア内戦によってグロリエと極東学院はカンボジアを離れ[28]、1975年には民主カンプチア(ポル・ポト政権)の支配下に入った。この時に多くの奉納仏はクメール・ルージュによってイコノクラスムの対象となり、敷石にされたという[29]。

1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、アンコールワットをシンボルにもしている彼らはこの地に落ち延びて本拠地にした[30]。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた(現在は修復されている)。だがこれが、遺跡自身には災いして祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。

 カンボジア国旗

内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録されたが、この時遺跡の保護機関の設立が条件とされ、1995年にはアプサラ機構(英語版)(アンコール地域遺跡保護管理機構)が設立されてアンコールワットを含む遺跡全体の保護を行うこととなった[31]。また他国からの修復チームも活動を行えるようになり、日本のJSA(Japanese Government Team for Safeguarding Angkor、日本国政府アンコール遺跡救済チーム)や、インド、ドイツ、イタリアから派遣されたチームがアンコールワットの修復を行っている[16]。

今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。参道の石組みの修復は日本人の石工が指導しており、その様子はNHK『プロジェクトX』で取り上げられた。

^ 『アンコール・王たちの物語』p133 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ 『アンコール・王たちの物語』p138 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ 『アンコール・王たちの物語』p202 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ 「新版 現代カンボジア風土記」p34-35 今川幸雄 連合出版 2006年10月1日初版第1刷 ^ 『アンコール・王たちの物語』p215 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ 「祇園精舎への巡礼」p157-158 丸井雅子(「カンボジアを知るための62章 第2版」所収)上田広美・岡田知子編著 明石書店 2012年5月10日第2版第1刷 ^ a b http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/35nakao.pdf 「アンコールワットに墨書を残した森本右近太夫一房の父・森本儀太夫の墓をめぐって」p400 中尾芳治(『京都府埋蔵文化財論集 第6集 -創立三十周年記念誌-』所収)2010年 2019年7月12日閲覧 ^ http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/35nakao.pdf 「アンコールワットに墨書を残した森本右近太夫一房の父・森本儀太夫の墓をめぐって」p398-400 中尾芳治(『京都府埋蔵文化財論集 第6集 -創立三十周年記念誌-』所収)2010年 2019年7月12日閲覧 ^ 『アンコール・王たちの物語』p299 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/35nakao.pdf 「アンコールワットに墨書を残した森本右近太夫一房の父・森本儀太夫の墓をめぐって」p406 中尾芳治(『京都府埋蔵文化財論集 第6集 -創立三十周年記念誌-』所収)2010年 2019年7月12日閲覧 ^ 「新版 現代カンボジア風土記」p188 今川幸雄 連合出版 2006年10月1日初版第1刷 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p54 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ a b 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p53 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 『アンコール・王たちの物語』p218 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ 「新版 現代カンボジア風土記」p191 今川幸雄 連合出版 2006年10月1日初版第1刷 ^ a b http://angkor-jsa.org/ 「アンコール遺跡 修復の歴史-アンコール・ワット」JSA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)2019年7月19日閲覧 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p30 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p159 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p32 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p33-34 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 『アンコール・王たちの物語』p226 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ 『アンコール・王たちの物語』p219-220 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p63-64 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p64-65 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 「アンコール遺跡 幻の戦時中写真/真宗大谷派の調査隊撮影分 発見」『朝日新聞』夕刊2018年8月25日(1面)2018年10月2日閲覧。 ^ 「アンコールの近代 植民地カンボジアにおける文化と政治」p232 笹川秀夫 中央公論新社 2006年11月10日初版発行 ^ 『アンコール・王たちの物語』p225 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ http://angkor-jsa.org/ 「アンコール遺跡 修復の歴史-フランス極東学院による活動」JSA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)2019年7月19日閲覧 ^ 『アンコール・王たちの物語』p139 石澤良昭 日本放送出版協会 2005年7月30日第1刷 ^ Russell Ciochon; Jamie James (14 October 1989). “The Battle of Angkor Wat”. New Scientist: 52–57. https://books.google.dk/books?id=9hAteN7ddW0C&pg=PA52&lpg=PA52&dq=Angkor+Wat+Khmer+Rouge+war#v=onepage&q=Angkor%20Wat%20Khmer%20Rouge%20war 2015年11月22日閲覧。.  ^ 「世界遺産と共存する重荷」p278-279 丸井雅子(「カンボジアを知るための62章 第2版」所収)上田広美・岡田知子編著 明石書店 2012年5月10日第2版第1刷
写真提供者:
Manfred Werner (talk · contribs) - CC BY-SA 3.0
Statistics: Position
1764
Statistics: Rank
71470

コメントを追加

CAPTCHA
セキュリティー
235974186このシーケンスをクリックまたはタップします: 2232
この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

Google street view

どこの近くで寝れますか アンコール・ワット ?

Booking.com
491.468 総訪問数, 9.211 興味がある点, 405 保存先, 94 今日の訪問.