のコンテキスト ジョージア (国)

ジョージア
საქართველო
国の標語:ძალა ერთობაშია
(ジョージア語: 力は団結にあり)
国歌:თავისუფლება(グルジア語)
タヴィスプレバ(自由)
アブハジアと南オセチアを抜いた人口(2012年)は4,054,382人、面積57,200km2、人口密度70人/km2となる。

ジョージア(グルジア語: საქართველო, ラテン文字転写: sakartveloサカルトヴェロIPA: [sɑkʰɑrtʰvɛlɔ] ( 音声ファイル) 英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家。首都はトビリシである。東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分される。北はロシア連邦、南東はアゼルバイジャン、南はアルメニ...続きを読む

ジョージア
საქართველო
国の標語:ძალა ერთობაშია
(ジョージア語: 力は団結にあり)
国歌:თავისუფლება(グルジア語)
タヴィスプレバ(自由)
アブハジアと南オセチアを抜いた人口(2012年)は4,054,382人、面積57,200km2、人口密度70人/km2となる。

ジョージア(グルジア語: საქართველო, ラテン文字転写: sakartveloサカルトヴェロIPA: [sɑkʰɑrtʰvɛlɔ] ( 音声ファイル) 英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家。首都はトビリシである。東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分される。北はロシア連邦、南東はアゼルバイジャン、南はアルメニアとトルコと接し、西は黒海に面する。

サカルトヴェロ民主共和国が1921年にソビエト連邦に占領され、ソビエト連邦構成共和国のグルジア社会主義共和国(正称:サカルトベロ・ソビエト社会主義共和国)とされたが、ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年4月に共和国として独立を回復した。

2008年、ロシア連邦が軍事侵攻し、ジョージア北部の南オセチアとアブハジアの「独立」を一方的に承認。日本は、侵攻を受けてロシアと国交断絶したジョージアの要請を受け、2015年4月までの国名呼称グルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)からジョージアへ変更した。

詳細について ジョージア (国)

基本情報
  • 通貨 ラリ
  • 母国語表記 საქართველო
  • 呼び出しコード +995
  • インターネットドメイン .ge
  • Speed limit 110
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 5.31
Population, Area & Driving side
  • 人口 4573192
  • 領域 69700
  • 駆動側 right
履歴
  • この節の加筆が望まれています。
    原始・古代

    近年、ジョージア国内では南東部のドマニシの洞窟から180万〜160万年前頃の原人タイプの化石人骨が発見されている[1]。出土人骨のデータから、従来東アジアで発見されていた原人よりも原始的な特徴を持ち、ユーラシア大陸で最古の年代が想定される[1]。この原人は「ホモ・ゲオルギクス」と命名され、遺跡からはいわゆる「礫器」に属するオルドヴァイ型石器群や動物化石なども多量に発見された[1]。ほかに、前期旧石器時代に属し、対称形の礫器が特徴的なアシュール文化や、中期旧石器時代に属し、剥片石器を多数ともなうムスティエ文化期の遺構・遺物がジョージア各地の洞窟や遺跡から発見されている。

    コルキス盆地やフラミ渓谷、南オセチアなどでは新石器時代の遺跡が発見されており、紀元前6000年から紀元前5000年にかけて以降、刃先に磨製石器を利用した鍬やつるはし、石製の鎌、製粉用の摩臼、貯蔵用の土器などが伴う本格的な定住生活と穀物栽培が始まったと考えられる[2]。コムギやライムギについては、当地方は最も重要な種の発祥地と考えられている[3]。石器の石材には主として地元産のフリントや黒曜石が用いられ、牛や豚などの牧畜を行い、ブドウを含む果樹の栽培も行われた[2]。

    グルジア(ジョージア)を含むカフカス地域は、先史時代にあっては金属精錬の発祥地の一つとされる[2]。紀元前3700年頃から紀元前2500年頃にかけてのマイコープ文化や、紀元前3400年頃から紀元前2000年頃にかけてのクラ=アラクセス文化(英語版)の青銅器時代の遺跡からは、おびただしい数の金属器が発見されている[4]。B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリ州)で調査した遺跡によれば、内陸部では紀元前2000年紀には遊牧を生業とする諸部族が生活し、部族の指導者とみられる人物の墳墓からは美麗に彫琢された金銀製の容器が副葬されるなど、当時の社会が首長に富と権力を集中させていた様相が確認されている[2]。

    グルジア人(ジョージア人)の祖先となる民族は、黒海の東岸に広範囲に分布してのちにコルキス王国をつくるコルキス人の源流をなすクルハ族と、のちに南西グルジアのタオ地方に定住するタオホイ族の源流をなすディアウヒ(英語版)族であり、両民族を母体として形成されたと考えられる[2]。なお、コルキス人の富裕さについては、早くからギリシャ人たちの知るところであり、ギリシア神話におけるコルキス王女メーデイアと金羊毛(翼を持つ金色の羊の毛皮)の物語に端的に示されている[2]。

     
    西のコルキス王国と東のイベリア王国

    紀元前6世紀以降、黒海に面する西グルジアの地にコルキス王国(コルヒダ王国)が成立し、黒海東岸のギリシャ植民市の影響のもとで発展を遂げた[5][6][7]。黒海とカスピ海をつなぐ地峡地帯には交易路が通り、地中海とペルシア地域を結ぶ貿易が盛んに行われていた。

    コルキス王国東側の内陸部は、紀元前6世紀にオリエントを統一したアケメネス朝ペルシア、続いてセレウコス朝の一部となり、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはイベリア王国(カルトリ王国)が成立した[6][7]。その領域は今日の中部グルジアのカルトリ、東部グルジアのカヘティ、西南グルジアのサムツヘとその周辺であり、ここにはギリシャ文明の影響が直接及ばなかった[2]。住民は西方のアナトリア・コルキス方面から流入してきた人々と土着民との融合によって形成されたと考えられる[2]。首都のムツヘタはクラ川とアラグヴィ川(英語版)の合流点近くに立地している。

    紀元前2世紀、コルキス王国は黒海東南海岸にあったポントス王国のミトリダテスによって制圧され、紀元前65年にはそのポントスが共和政ローマのポンペイウス軍に敗れたことでコルキス(西グルジア)はローマの属領となった[2]。同じ頃、東グルジアのイベリア王国もローマの保護下に置かれた[2]。

    1世紀に入り、キリスト教が創始されると、グルジアでは十二使徒による福音伝道が行われたと伝えられている。特にローマ帝国の支配が揺らいだ3世紀から4世紀にかけては大幅に信者が増加した[8]。これは、カッパドキア出身の聖ニノ(グルジアのニノ)の布教によって東グルジアの多くの人が入信したことによるといわれている[2]。

    ローマ帝国が衰退に転じた4世紀、西グルジアの旧コルキス王国の一部(現在のアブハジア地域)にはラジカ王国(英語版)が成立し、古代コルキスを併合した[6][7]。ラジカ王国は首都をアルケオポリス(現、ナカラケヴィ(英語版))に置き、東ローマ帝国との結びつきを強めた[2][9]。この王国は523年にキリスト教を受容し、562年には東ローマに併合された[9]。

    イベリア王国では、330年代にキリスト教に深く帰依したミリアン3世(英語版)によってキリスト教が国教として採用された[6][7]。世界でも301年のアルメニア王国に続いて2番目に古いキリスト教国教化の例であり、キリスト教がこの地域の公式宗教となったことは、その後の文化の形成に大きな影響を及ぼした[5][8]。グルジアの教会は当初、シリアのアンティオキア総主教の管轄下に置かれたが466年には独立教会となり、カトリコス(総主教)の座はムツヘタに置かれた[10]。グルジア文字(カルトリ文字)は4世紀から5世紀ごろにかけての時期に考案された、グルジア語を表記するために考案された独自の文字で、字形は異なるもののギリシア文字と同じ原理の文字体系をなしている[11][12]。

    イベリアは、一時ペルシア人の支配を受けたが、5世紀末には剛勇で知られるヴァフタング1世(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権が回復され、トビリシの都市的発展が始まった[13]。6世紀初頭、ヴァフタング1世の子のダチ(英語版)王が父の遺言に基づきムツヘタからトビリシへ遷都した[13]。

    カフカス地域のアルメニア、グルジア(ジョージア)、アルバニア(バルカン半島のアルバニアとは無関係)の3教会は、431年のエフェソス公会議(第3回全地公会)での、イエス・キリストは神そのものだとしてその神性のみを認める「単性論」の採用に賛成した[8]。ところが、451年のカルケドン公会議(第4回全地公会)では単性論が否定され、「まことの神であり、同時にまことの人でもある」として、キリストの神性と人性との両性共立とともに位格的一致を説く、いわゆる「両性論」が正統とされた[8]。506年、3教会の代表者はアルメニアのドヴィン(英語版)に集まってカルケドン派に反対する旨の決議を行ったが、以前から両性説に傾いていたグルジア正教会は7世紀初頭には明瞭にカルケドン信条を告白する立場に立った[8]。「合性論」(両性論派からは単性論の一種と見なされた)を採るアルメニア使徒教会は、これに対し「非カルケドン派正教会」にとどまった[8]。

    中世・近世

    ペルシアを支配したサーサーン朝はゾロアスター教を国教としており、その勢力がカフカスに及ぶとキリスト教・ゾロアスター教の両勢力は互いに抗争を繰り返した[14]。ラジカ王国がキリスト教を国教化すると、サーサーン朝は軍を派遣して527年から533年まで続くラジカ戦争(英語版)となった[14]。ラジカ王国は最終的に東ローマ帝国、東のイベリア王国はサーサーン朝にそれぞれ併合され、ホスロー1世はイベリアの王政を廃止した[6]。7世紀初頭、自立の動きを見せたイベリアに対し、東ローマ皇帝ヘラクレイオスは北方のハザールと同盟して遠征を行った[14]。627年から629年にかけてはサーサーン朝・イベリア王国連合軍と西突厥・東ローマ帝国・ラジカ連合軍との間でトビリシ包囲戦が起こり、トビリシは一時占領された[15]。

    ニハーヴァンドの戦い以降はサーサーン朝の影響力が後退し、7世紀後半からは新興のイスラームを奉ずるアラブ人の影響が拡大した[6]。トビリシは736年から738年にかけて「ムスリムの征服(英語版)」を受け、これによってトビリシ首長国(英語版)が成立した。カフカス地方にもイスラムの教義がもたらされたが、広い山岳地帯を抱えるグルジアへの流入は限定的なものにとどまり、キリスト教信仰が守られた。750年、グルジア正教会は自治教会となり、9世紀から10世紀にかけてはカフカス地域の布教の中心を担った[8]。

    かつてラジカ王国があったグルジア西部では東ローマ皇帝の直臣となったアブハズ人(アブハジア人)が次第に強勢となり、8世紀末にはアンチャバヅェ家のアブハジア公レオン1世(英語版)が皇帝から王号を許可された[15]。レオン1世は母がハザール王女、妻がカルトリ大公の娘であったことから両者とも友好関係を築きつつ勢威を振るった[15]。グルジア東部では、イベリア公国のバグラティオニ家(英語版)が台頭し、9世紀初頭には、この家からイベリア大公アショト1世(英語版)が現れた[2]。アルメニアでは、バグラトゥニ家(英語版)のアルメニア大公アショト1世(英語版)(イベリア大公アショト1世とは別人)が、イスラム帝国であるアッバース朝によって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公」の位を許され、885年にはアルメニアの諸侯によってアルメニア王に推戴された[15]。こうして、イスラム帝国カリフと東ローマ皇帝の双方の承認のもと、アッバース朝版図のアルメニア王国が再興された[15]。

    東ローマとイスラムの抗争は拡大されたアルメニア王国の中でも繰り広げられ、最終的には小国分立状態がもたらされた[15]。こうしたなか、アルメニア王アショト1世は、西南グルジアのタオ(英語版)に本拠を遷して、東ローマ皇帝からクロバラテス、すなわち「宮殿の守護者」の称号を獲得するのに成功した[2]。10世紀後半、アッバース朝の繁栄にも陰りが見えるようになり、グルジアではイベリア大公グルゲン(英語版)が現れ、アブハジア王女のグランドゥフトと結婚。イベリアとアブハジアの領域は2人の息子バグラト3世(英語版)に継承された[15]。バグラド3世は、アルメニア王アショトの養子となって将来の地位を自ら保障し、975年にはカルトリ地方の宗主権をも獲得、976年にバグラト朝(英語版)のグルジア王国(グルジア連合王国)を建てた[7]。1001年には義父アショトからアルメニアと南西グルジア、1008年には実父グルゲンから南西グルジア残部を継承してカヘティ地方を除く全グルジアの諸公国を統一して、クタイシを首都とする中世グルジア王国の隆盛が始まった[2][6]。

    バグラト3世はクタイシに大聖堂(バグラティ大聖堂)を創建し、1010年にはカヘティ地方をも支配下に収めた。王国成立期にはグルジア正教会がバグラティオニ家の王朝を支えた。聖人として知られるイベリアのヨアネが活躍し、レオンティ・ムロヴェリ(英語版)によって『グルジア年代記(英語版)』が書かれたのもこの頃のことである。10世紀から13世紀にかけてのグルジア王家は東ローマ帝国、キエフ大公国、アラニア(北オセチア)などの王侯貴族との間で盛んに婚姻関係を結び、東ヨーロッパ各地域との精神的結びつきを強めた[8]。

    バグラト3世の子ギオルギ1世(英語版)はムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂の修復を行い、ギオルギ1世の子のバグラト4世(英語版)は1045年、アルメニアの首都アニ(現トルコ共和国)を制圧した。1057年にシリアのアンティオキアで開かれた地方教会会議では、グルジア正教会が自治教会資格を有することが公認されている[8]。11世紀後半にはトルコ人勢力が中央アジアやペルシアの大部分を含む地域に広大な遊牧帝国セルジューク朝を建設した。グルジアもその侵略を受けるようになり、バグラト4世治下の1063年には南西グルジアが、1068年には東グルジアがセルジューク朝によって制圧された。

    「建設王」と呼ばれたダヴィド4世が即位したのは1089年のことであった。ダヴィド4世は、北カフカスのキプチャク人を移住させて親衛隊を組織し、軍制改革を行ってグルジアを強固な国家に改造し、セルジューク朝に勝利。1096年にはセルジューク朝に対する貢納の支払いを停止し、12世紀に入ってからはクタイシ郊外のイメレティア丘陵にゲラティ修道院と付属の王立学校(アカデミー)を創立した[16]。この王立学校はグルジアを代表する科学者、神学者、哲学者を擁し、トビリシ遷都後も17世紀に至るまでグルジアの文教の中心として栄えた[16]。1122年、ダヴィドはムスリム勢力に支配されていた要衝トビリシを奪還して、ここに都を遷した[2]。

     
    グルジアの黄金時代を築いたタマル(左)と父王ギオルギ3世(右)

    12世紀後半のギオルギ3世(英語版)も1156年にセルジューク朝を攻撃してこれに勝利し、1161年から1162年にはアルメニアにも侵攻してアニとドヴィンを占領するなど強勢を誇った。ギオルギ3世の王女で1184年に正式に王として即位したタマル女王の時代、バグラト朝グルジア王国はザカフカス全域を支配する強国に発展し、黄金時代を迎えた[2][6]。1194年から1204年にかけてはセルジューク朝に勝利してアルメニア南部を保護領としたほか、1195年には現アゼルバイジャンのシャムコルの戦いに勝利して同地を支配した。1201年から1203年にかけてはアルメニアのアニとドヴィンを再併合し、さらに現在のトルコ北部を占領した[2]。1204年、イタリアのヴェネツィア商人の策謀によって第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が没落した際には、その亡命政権トレビゾンド帝国の建国を援助している[2]。タマルの時代は、文化・学術の面でもグルジア王国の最盛期であり、多くの修道院が寄進され、特に文学分野の充実と教会建築の発展が顕著であった[6]。『グルジア年代記』が編まれ、また、特にタマル女王に仕えた官吏で詩人のショタ・ルスタヴェリの活動がよく知られている[17]。

    タマル女王死後のグルジアはホラズム・シャー朝の軍による侵入を受け、さらにモンゴルのグルジア侵攻に晒された。1220年にはチンギス・カンの命を受けたスブタイとジェベはホラズムのムハンマド2世(アラーウッディーン・ムハンマド)を追撃している途上でカフカス地方を通過し、遭遇したグルジア軍はモンゴル軍に打ち負かされた[18]。翌1221年、スベタイ・ジェベ軍2万がグルジア王国を再び攻撃。タマルの子ギオルギ4世(英語版)は第5回十字軍への支援を取りやめ、国を挙げて抵抗したものの敗北した[15][18]。1222年の戦いでも敗北し、これらは、キリスト教文明に属する地域がモンゴル軍からの猛攻を受けた最初であった[15]。ギオルギ4世は対モンゴル戦の負傷がもとで1222年に死去し、妹のルスダンが王位を継承した。

    ルスダン治下の1225年、ホラズムの支配者ジャラールッディーン・メングベルディーがグルジアに侵入し、1226年、首都トビリシが占領されて略奪を受けた[15]。さらに、1236年にはチョルマグン率いるモンゴル軍が再びグルジアに侵攻し、ルスダン女王はクタイシへの避難を余儀なくされた。女王はローマ教皇グレゴリウス9世に支援を求めたが失敗し、1243年、モンゴル軍3万人が常駐するなか、グルジアはモンゴル帝国に併合され、その属領となった[15]。モンゴルは「グルジスタン州」を置き、そこにグルジアと南カフカス全域を管掌させ、グルジアの領主たちを通じて間接統治を行った。

    モンゴル帝国のグユク・カンは1247年、グルジア王国を東半部と西半部に分け、ギオルギ4世の子のダヴィド7世(英語版)には東部のカルトリを、ルスダンの子のダヴィド6世(英語版)には西部のイメレティをそれぞれ与え、2人を共同王として公認した[19]。1259年から1260年にかけて、ダヴィド6世に率いられたグルジア貴族たちがモンゴル勢力に叛旗を翻し、西部グルジアにイメレティ王国(英語版)の独立を勝ち取った。しかし、東部グルジアは引き続きモンゴル支配を余儀なくされた[2][6]。

    遊牧国家であるイルハン朝では税務行政上の首都と重要地点とを結ぶ駅逓制度が整備され、東部グルジアの中心トビリシも「シャーフ・ラーフ(王の道)」と称する交通網のひとつの終点として重要な役割を担った[20]。モンゴル支配下では貢納は厳しかったものの一定の自治は与えられた。またモンゴル人たちは概して宗教に寛容で、イスラムやキリスト教ネストリウス派、ルーシとグルジアの東方正教会はむしろ民衆統治に役立てられた。交通上の変革としては、1260年以降、ジェノヴァ共和国と東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスとの条約によって黒海にジェノヴァ商船隊が乗り入れが実現した[20]。クリミア半島のフェオドシヤやアブハジアのスフィミは港湾として発展し、黒海沿岸には40ものジェノヴァ商館が設けられたという[20]。

    モンゴルの支配は長く続いたが、「光輝王」と呼ばれたギオルギ5世(英語版)が現れて東西に分裂していたグルジアを再統一し、ようやく1335年にモンゴル勢力を放逐して、事実上の独立を果たした[2][6][7]。ただし、その翌年の1336年にはトビリシでペスト(黒死病)が大流行し、大きな痛手を受けている。再統一後もグルジアはジャライル朝とチョバン朝の影響下にあった[21]

    1380年、西チャガタイハン国から自立したティムールが侵入、トビリシを占領して王と王妃は捕虜となった[15]。以後、グルジアはティムール朝の侵入に苦しめられることになり。特に1386年から1403年にかけて計8度におよぶ猛襲は、経済的にも文化・生活の面でも回復困難な打撃をグルジア社会に与えた[2][6][7]。グルジアはこののち一時黒羊朝の支配にも服した。1444年にはトビリシがペルシア軍によって侵略を受け、1460年代にはカヘティ王国(英語版)が独立、分権化が進行して1466年、グルジア王国はついに崩壊、一種の無政府状態に陥った。

     
    1490年におけるグルジアの3王国5公国

    グルジア王国は東部のカルトリ王国とカヘティ王国、西部のイメレティ王国というバグラティオニ家の王統を戴く3つの王国に分裂した。1490年、この3王国が相互に承認しあうことでようやく無政府状態を脱することができた。3王国のほかには、13世紀以来の西南グルジアの有力豪族ジャケリ家(英語版)が公式に支配したアタバク領サムツヘ国(英語版)があり、さらに黒海沿岸にグリア公国(英語版)、サメグレロ公国、アブハジア公国(英語版)、内陸部にスヴァネティ公国(英語版)が独立した君公国としてふるまい、事実上5つの公国が分立した[17]。

    16世紀初頭から18世紀前半にかけてのグルジアは、イラン高原に建国された東のサファヴィー朝、新首都イスタンブールを本拠として周囲に勢力を拡大する西のオスマン帝国の圧力を受け、しばしば両者の係争の地となった[6]。カルトリ王国とカヘティ王国はサファヴィー朝、イメレティ王国はオスマン帝国の支配をそれぞれ受け、両者の抗争はイスラームにおけるスンナ派とシーア派の宗教戦争の性格も内包していた[6]。この時代、特にグルジア東部にあっては度重なる戦乱と住民の強制移住によって人口が減り、経済活動も停滞を余儀なくされた[9]。

    イメレティ王国は頻繁に王位が交替し、混乱が続いた[20]。サメグレロ公国のダディアニ家(英語版)は17世紀のレヴァン2世(英語版)の時に最盛期を迎えたが、17世紀後半には衰え、公国支配者の血統が交替した[20]。サムツヘのジャケリ家はグルジア王家との婚姻によって独自の立場を築いたが、のちにオスマン帝国の直接支配下に入り、パシャの称号を獲得し、その領域(現在のアジャリア自治共和国など)ではイスラーム化が進行した[20]。

    カヘティ王国では、16世紀前半に英明な君主レヴァン(英語版)が現れ、国王の権力を強化して絹の交易などで王国を繁栄に導いた[22]。一方のカルトリ王国では16世紀中葉にシモン1世らがペルシアに対して抵抗して以降は、サファヴィー朝の宗主権を認めた[22]。

    1555年、トルコとペルシアは長年の抗争の結果アマスィヤの講和を結んで平和を実現する一方カフカスにおける相互の勢力範囲を定め、これはその後グルジア社会を大きく規定することとなった[17]。1578年、小康状態は破られ、オスマン帝国の勢力がカフカス全土を蹂躙してトビリシを制圧したのに対し、サファヴィー朝第5代シャーのアッバース1世はこれに反撃。トルコ人勢力を撤退させたが、アッバース1世はまたカヘティに対して略奪遠征を行ったため、その富は失われてしまった[2][22]。

    サファヴィー朝の政治的影響下にあったカルトリとカヘティでは、イスラーム改宗を条件にバグティオニの家系の王子から選ばれ、政治経済的ないし軍事的には衰退し、文化面でもペルシア文化の影響を強く受けた[17][22]。しかし、一方ではアルメニア人やチェルケス人などとともに「グラーム(王の奴隷)」と呼ばれる軍人・官吏としてサファヴィー朝を支え、イラン人やトルコ人と並んで枢要な国政ポストについてエリートの一画を占めるグルジア人も現れた[17][23]。サファヴィー朝の帝都エスファハーンの長官職は半ばグルジアの王子による世襲の職となっており、現在のイラク国境に近いシューシュタルの町は、グルジアの大貴族出身者の家系が約100年にわたって支配し続けた[23]。グルジア独自の伝統文化もペルシア支配下で復興を遂げ、12世紀初頭の「黄金時代」に対比し「銀の時代」と呼ばれるほどである[17]。その中で、カヘティ王のティムラズ1世(英語版)、カヘティとイメレティの両方の王位を経験したアルチル(英語版)の2人は詩人王として知られている[17]。また、サファヴィー朝の官吏であったパルサダン・ゴルギジャニゼ(英語版)は17世紀末に『グルジア年代記』を著している。

    18世紀に入ると、カルトリ王国にヴァフタング6世が現れた。彼は傑出した立法家であったが、一方では1709年にグルジアに印刷術を持ち込み、グルジア語印刷を始め、自国史の追究に関心の強い文化人でもあった[2][17]。ゴルギジャニゼの著した『グルジア年代記』の続編を編纂する目的で学者・有識者を集め、グルジア国内の写本・古文書の精査を命じ、その成果を14世紀から17世紀までの公的年代記として刊行した[17]。1722年、パシュトゥーン人がエスファハーンを陥落させサファヴィー朝が崩壊すると、グルジアはオスマン帝国の新たな侵入を招いた[2]。ペルシアでは征服者ナーディル・シャーが現れ、ロシア帝国との間に反オスマン同盟を結び、アフシャール朝を創始してオスマン帝国に奪われた失地を回復。カルトリ王位をカヘティ王だったティムラズ2世(英語版)に与えた[2][17]。

    ロシア帝国時代

    18世紀後半、東グルジアのカヘティ王国にエレクレ2世(英語版)が現れ、サファヴィー朝後に興起したアフシャール朝を撃退し、父のカルトリ王ティムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国を建てた[2][6]。エレクレはアルメニア商人たちと提携して王国の殖産興業に尽力したため、その経済は大いに発展した[5][22]。1768年に始まった露土戦争ではエレクレはロシア帝国側で戦った。クタイシを首都とする西部のイメレティ王国もこの戦争ではロシア側に立ち、ソロモン1世(英語版)治世下の1779年にはオスマン支配から脱却することに成功した[2]。

    エレクレ2世は、北カフカスからのレズギン人の襲来やペルシア・トルコの両勢力から自国を守るため、同じ正教を奉ずる北の大国であるロシア帝国との同盟を目指し、1783年には女帝エカチェリーナ2世との間にギオルギエフスク条約(英語版)を結んでロシアの保護国となることを認めた[2]。しかし、ロシアはこの条約を守らず、エレクレ2世は結局、新興のガージャール朝からの猛攻を単独で受けざるを得なくなった。1795年、グルジアは大敗北を喫してトビリシは略奪を受け、経済成長の成果は無に帰した[2][22]。エレクレの病弱な後継者ギオルギ12世(英語版)は無条件で自国をロシアの保護に委ねることを決し、1800年12月に死去した[2]。

    1801年1月、ロシア皇帝パーヴェル1世はカルトリ・カヘティ王国を廃して東グルジアの併合を宣言し、同年9月、新帝アレクサンドル1世によって併合が実行に移された[2]。カフカス総督府(英語版)をトビリシに設け、グルジアはロシアの軍政長官の支配下に置かれた[13][24]。このとき、カルトリ・カヘティ各地では人民の叛乱が起こった[2][13]。カフカス総督は、帝政ロシアの他の植民地総督以上の権限を有し、グルジアには内地同様、県(グベールニヤ)を置いて県知事などには現地の有力者を充てた[24]。ロシア帝国は19世紀初頭、ザカフカス(南カフカス)の強固な支配とペルシアの背後にあるイギリスへの対抗のため、グルジア軍道を建設した[25](英露の抗争は「グレート・ゲーム」を参照)。

    ロシアは1810年には西グルジアのイメレティをも併合し、グルジア主要部は総じて簡単にロシアの一部になってしまった[26]。ロシアはまた、1828年にはアルメニアを併合、さらに同年、ペルシアとの戦争の結果、アゼルバイジャン北部を支配下に置き、1829年にはグルジアのグリアを併合した[2][26]。グリアではロシア政府によるジャガイモの強制栽培に端を発した1841年グリア反乱(英語版)が起こっている。さらに、ミングレア(旧サメネグロ)、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857年、1858年、1867年に完全にロシアの版図となった[2]。

    ロシア側からみれば、南カフカスよりも北カフカスのチェチェン人、レズギン人などのイスラーム系山岳民族の方が強敵であった[26][27]。結局ロシアは、北カフカスを戦場とするコーカサス戦争(カフカス戦争)に1816年から1861年まで、45年の歳月を費やしている[26]。この戦争に対し、グルジアの軍隊と人々はロシア側で参加した[28]。これについては、当時のグルジア人たちがロシア人たちと共通の信仰(キリスト教)を持っていたばかりでなく、彼らがロシア統治に積極面を感じていたという指摘がある[28]。すなわち、ロシアへの併合はムスリムの諸勢力の攻勢から自身を守り、自らロシア政府の主導するカフカスの再キリスト教化に参与できたのである[8]。

    一方、グルジア正教会は1811年、ロシア正教会に吸収され、その組織的独立を失った[8][10]。グルジア教会のカトリコス(総主教)は廃され、代わりにロシアの宗務院に属する大主教が置かれた[10]。これは、ロシア教会とグルジア教会の間には教義上の差異がないとみなされたためであったが、後者には長い歴史を持つグルジア語の文語と独特の典礼があり、その聖職者・信者にとってグルジア語の禁止とロシア語の強制は大きな苦痛であった[8]。

     
    1856年のコーカサス

    グルジア貴族の中にはロシアの帝都サンクトペテルブルクに留学する者が増え、ロシア経由でロマン主義文学の影響を強く受ける者も現れた[29]。また、開明的なミハイル・セミョノヴィチ・ヴォロンツォフ総督時代の1845年から1854年にかけては、グルジアの商業と貿易が急速に発展し、トビリシには劇場なども整備され、都市文化が開花した[2][29]。1861年にロシア皇帝アレクサンドル2世の発した農奴解放令はグルジアにも及び、1864年以降、農奴制の下にいた農民たちは自由の身となり、従来の家父長制的な慣行は近代教育の普及とヨーロッパからもたらされた諸思想によって急速に消え去っていった[2]。19世紀後半には、国民的作家として知られるイリア・チャヴチャヴァゼ、アカキ・ツェレテリ、ヴァジャ・プシャヴェラという、現代でも親しまれる三大文豪が活躍した[29]。

    1860年代、トビリシには織物工場が設けられ、1872年、トビリシとポティの間の鉄道が開通した[2][25]。さらに、バトゥミ、トビリシとアゼルバイジャンのバクーを結ぶ鉄道も敷設された[13]。「ジョージアの鉄道」「グルジア鉄道」も参照。黒海とカスピ海の沿岸が結ばれたことなどにより、鉱山や工場、農場などの諸産業が発展した。しかし、資本の多くはロシア人、アルメニア人、西欧諸国の人々の掌握するところとなり、グルジア人には恩恵が少なく、多数の農民と都市化・工業化によって新たに形成された労働者階級の多くはこれに不満を抱いた[2]。1883年、トビリシにザカフカス鉄道本部が置かれ、グルジアはザカフカス地方全体の鉄道輸送の要地となった[25]。19世紀末葉にはアゼルバイジャンでバクー油田の開発が進み、黒海に面したグルジアにはパイプラインが造られた[25]。

    農奴は解放されたものの私有地の約3分の2が地主の所有であり、教会領も多かったため、農民の多くは貧窮していた[25]。また、皇帝アレクサンドル2世の暗殺後は反ツァーリ運動に対する締めつけが強くなり、1881年に即位したアレクサンドル3世は計画的なロシア化政策を打ち出して少数民族の同化政策を強制的に推し進めた[2][24]。これに抗して、様々な農民運動や民族主義運動が興起した[2][24]。

    民族再興運動は、当初は文学と社会運動を基本とするグループが力を持っていたが、やがて社会民主主義を奉ずるグループが優勢となり、ノエ・ジョルダニアやニコライ・チヘイゼらのメンシェヴィキがその受け皿になっていった[2][6]。彼らの活動は、やがて1902年春のグリアでの農民運動「種まきストライキ」へとつながった[30]。また、1902年のバトゥミでのストライキは社会民主党の指導によるものであった[31]。1903年、トビリシでロシア社会民主労働党カフカス連盟が組織され、カフカス諸都市の労働運動は組織化を一層強めた[30]。1903年7月にバクーとオデッサで始まったゼネラル・ストライキはトビリシやバトゥミにも波及した[30]。

    1904年8月から9月にかけての日露戦争の遼陽会戦でロシア陸軍が日本陸軍に敗北したことは、ロシア帝国内の労働運動・農民運動にも大きな影響を与えた。1904年末、グルジアではバクーやバトゥミの労働運動と結びついて農民委員会が結成され、広範な騒擾事件とゲリラ戦が展開された[2]。特にグリア地方の農民蜂起は、ツァーリ政府から地域権力を奪い、地主の所有する農地を占拠し、さらに武装集団を組織するに至ったというもので、その様態は「グリア共和国」と呼ばれるほどであった[2][30]。「マルクス主義者が指導した世界初の農民反乱」と評されるこの動きは全グルジアに広がり、これにはかつてのグルジア貴族も参加した[30]。この年の一連の反政府行動はロシア第一革命(1905年革命)と呼ばれており、1905年前半期を通じて暴動や反乱が帝国全土に広がった[32]。トビリシやポティ、クタイシではストライキが起こり、トビリシとカルスでは軍部の反乱さえ起こっている[32]。1905年はまた「自由主義者の春」という状況が生まれ、9月にはロシア帝国内の革命派によってフランスのパリで反政府党・革命党会議をひらかれた[33]。そこにはグルジア革命的社会主義者連邦派党も参加している[33]。1906年以降、革命運動は退潮していくが、グルジアにあってはメンシェヴィキが一層広範な支持を獲得していった[30]。

    ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代
     
    首都トビリシでパレードする赤軍(1921年)

    ロシア革命後の1918年5月26日にグルジア民主共和国はロシアからの独立を宣言するが、1921年に赤軍のグルジア侵攻(英語版)によって首都を制圧され、崩壊した。1922年、グルジア問題では、フィリップ・マハラゼとブドゥ・ムディヴァニらグルジアの穏健派共産主義政権が失脚し、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の構成国となり、ソビエト連邦に加盟した。1936年には直接のソ連邦構成共和国(グルジア・ソビエト社会主義共和国)に昇格した。

    第二次世界大戦に一環である独ソ戦では、ナチス・ドイツ軍がグルジアに近い黒海北岸や北コーカサスまで一時侵攻した。

    戦後、ソ連はアメリカ合衆国など西側諸国との冷戦に入り、ソビエト連邦の崩壊直前まで民族問題が取り上げられることはなかった。またヨシフ・スターリンの故郷という側面もあり、かつては共産党員の割合が最も高かった。

    ソ連崩壊後

    1989年、東西冷戦が緩和する一方でソ連のペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、ソ連地上軍が反ソ運動を弾圧したトビリシ事件を大きな転機として、ソ連後期からは抑えられていた民族的な問題が表面化した。1990年11月、グルジア・ソビエト社会主義共和国はグルジア共和国に改名され、1991年4月9日に独立宣言を行い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディアが大統領に選出。これは同年12月25日付でのソ連邦解体により実効性を持ったものの、独立後も多くの閣僚はソ連旧共産党員であったことや強権的な統治が行われたために、政局不安は改善されず治安も悪化し内戦状態に至った。その後、アブハジア(アブハジア紛争、アブハジア戦争(英語版))や南オセチア(南オセチア紛争 (2008年))やアジャリア自治共和国 (en:2004 Adjara crisis) で分離独立運動が起き、現在は南オセチアとアブハジアが事実上の独立状態となっている(アジャリア自治共和国は2004年にジョージア中央政府の支配下に置かれて自治権剥奪)。

    シェワルナゼ政権

    1991年11月22日、グルジア国家警備隊がクーデターを起こし、政府軍と交戦[34]。1992年1月6日、ズヴィアド・ガムサフルディア大統領は首都トビリシを脱出し[34]、代わって軍事評議会がグルジアを統治した。その後、軍事評議会の招きによりエドゥアルド・シェワルナゼ元ソ連外相が帰国し、同年3月10日に国家評議会が創設されると、シェワルナゼが議長に選出された[34]。同年10月11日、最高会議議長の直接選挙が実施され、シェワルナゼが96%の得票により当選[35]。10月17日、国家評議会は自主解散し、統治機能は最高会議に引き継がれることとなった[36]。1992年7月31日、国際連合に加盟した。その後は2003年まで、シェワルナゼが最高権力者であった。

    バラ革命

    2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカ合衆国が非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には2万5,000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。代わって、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。

    サアカシュヴィリ政権

    旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党国民運動のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。しかし、労働党のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、伝統主義者連盟が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシア連邦を後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はサアカシュヴィリの圧勝に終わった。これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受け入れ、アバシゼ議長は反対し続けたが、5月には最終的にロシアへ亡命して一連の混乱も収拾した。

    3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派と産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアで最も自由な選挙のうちの一つだったと考えられる。

    2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策はグルジアにおける民主主義の後退を位置づけるものとなった。

    ロシア-グルジア戦争
     
    南オセチア紛争 (2008年)

    2008年8月、南オセチア州を巡りグルジアとロシアの間において紛争が勃発した。

    この紛争によってサアカシュヴィリの権力は強まると思われたが、逆に多くの戦死者を出して批判され、のちに紛争を「グルジアから仕掛けた」と発言するに及び、彼の求心力は弱まっている。

    2009年4月9日、首都トビリシで、サアカシュヴィリ大統領に辞任を要求する大規模な反政府集会が議会前広場で主要野党(民主運動・統一グルジアなど)によって開かれた。その集会には、6万人に上る市民が集結した。要求の背景は、大統領の権力集中への批判とロシアとの軍事衝突を回避できなかった責任の追及などが挙げられている。なお、グルジアが求めていた北大西洋条約機構(NATO)加盟は現在棚上げされている。

    2009年5月5日に軍部によるクーデター未遂事件が発生し、グルジア軍の高級将校ら数人が拘束された。グルジアはクーデター勢力がロシアの支援を受けていたと非難している。

    サアカシュヴィリ政権の終焉とマルグヴェラシヴィリ政権

    2012年10月の選挙の結果、ロシアとの関係改善を目指す野党連合「グルジアの夢–民主主義グルジア」が勝利し、同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日に行われた大統領選挙で、「グルジアの夢」が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者のダヴィト・バクラゼ候補は惨敗した[37]。

    これにより、強固な反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えたが、欧州連合(EU)加盟を目指す方向性は変わっておらず、2014年6月27日、EUと連合協定を締結し[38][39][40]、2016年7月1日、正式に連合協定を発効した[41]。

    2022年ロシアのウクライナ侵攻が続いていた同年6月23日、EUがウクライナとモルドバを加盟候補国と認めたのに対してジョージアが政治改革や報道の自由などに課題があるとして落選したため、トビリシで政府を批判するデモが翌24日に発生した[42]。

    マルグヴェラシヴィリ大統領やミヘイル・ジャネリゼ外務大臣は、NATO加盟を引き続き模索していることを度々表明している[43][44]。

    年譜 4世紀 - キリスト教を国教化。 6世紀 - 10世紀 サーサーン朝ペルシア帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国(アラブ人)の支配下となる。 11世紀 - バグラト朝(英語版)成立。 13世紀 - 14世紀 タタール、ティムールによる侵攻。 16世紀 - 18世紀 西部がオスマン帝国、東部はサファヴィー朝ペルシアの支配下となる。 1783年 - ギオルギエフスク条約(英語版)によりグルジア東部はロシア帝国の保護領となる。 1801年 - ロシア帝国、グルジア東部を併合。ロシアはその後、併合を繰り返していく。 1878年 - 露土戦争の結果、アジャリアがロシア帝国に併合。現在のグルジアにあたる領域がすべてロシア帝国の版図に入る。 1918年5月 - 前年のロシア革命を受けグルジア独立宣言(グルジア民主共和国)。 1922年 - アルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を形成、ソビエト連邦に加盟。 1936年 - スターリン憲法により、独立した連邦構成共和国となる。 1989年8月 - 南オセチア紛争始まる。 1990年8月 - アブハジア紛争始まる。 1991年4月9日 - 独立宣言[45]。ソビエト連邦の崩壊により12月に独立。 1992年 1月 - ズヴィアド・ガムサフルディア大統領が失脚。 3月 - エドゥアルド・シェワルナゼが国家評議会議長に就任。 10月 - エドゥアルド・シェワルナゼが最高会議議長に就任。 1995年11月 - エドゥアルド・シェワルナゼが大統領に就任。 2000年4月 - エドゥアルド・シェワルナゼ大統領再選。 2002年8月 - チェチェン共和国武装勢力に加わっていた日本人義勇兵(元自衛隊員)がグルジア領内で拘束されたとの報道。 2003年11月23日 - バラ革命、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領が辞任、ニノ・ブルジャナゼ暫定政権発足。 2004年 1月4日 - 大統領選挙を実施、ミヘイル・サアカシュヴィリが圧勝。 1月25日 - ミヘイル・サアカシュヴィリが大統領に就任。 2006年 3月27日 - ロシア政府、グルジア産ワインの輸入禁止を表明、親欧米色を強めるグルジア政府に対する圧力ともいわれる。 5月23日 - ウクライナの首都キーウ(キエフ)においてGUAMの設立が宣言され、グルジアも加盟を表明。 7月13日 - ロシアを通過せずに旧ソ連圏産の石油を輸出することが可能で、グルジア領内も通過するBTCパイプライン開通。 7月25日 - グルジア軍が、独立を主張しているアブハジアに軍事攻撃を仕掛ける。アブハジア側とグルジア側にまたがるコドリ渓谷での26日までの戦闘で、現地を支配していたアブハジア系民兵を追い出した。グルジア側は、この戦闘で攻撃ヘリ数機、兵員輸送トラック34台、戦闘用車両18台を投入した。この戦闘で民間人1人が死亡、数人が負傷、民兵25人が捕虜となった。 9月27日 - グルジア治安当局が、スパイ行為を行ったとしてロシア軍将校ら十数人を拘束。ロシア外務省は28日、抗議のため駐グルジア大使を召還。 10月13日 - 国連安保理、アブハジアに対する「グルジア政府の挑発的行動」を非難する決議1716[1]を採択。 2007年 8月7日 - グルジア北部で国籍不明の軍用機がミサイルを投下。グルジア政府は「ロシアの恫喝」と非難するが、「自作自演」ともいわれる。以前にも「グルジア領内への空爆」を自作自演した疑惑[2]が存在する。 9月27日 - 以前からタカ派として国民からの人気が高かったイラクリ・オクルアシヴィリ元国防相が拘束される。大統領から反政府的とされるビジネスマンの殺害を命じられたと「告白」したことが原因とみられている。28日には元国防相の身柄拘束に反対するデモがトビリシで行われる。この件以降、グルジア各地での反政府デモが活発化。 11月1日 - サアカシュヴィリ大統領の辞任や議会選挙の前倒しなどを求めるデモがトビリシなどで行われる。7日に武力鎮圧されるまで、グルジア各地で断続的にデモが発生。 11月7日 - サアカシュヴィリ大統領、非常事態宣言発令。当初は2週間ほど継続される予定だったが、16日に解除。 11月14日 - グルジア政府が、反政府的報道を行ったとして野党系テレビ局「Imedi」の放送免許を停止。同局は11月7日、グルジア政府特殊部隊の強襲を受け、スタジオ・放送機材などを破壊されていた。免許停止自体は12月5日に解除されるが、放送再開には時間がかかるとの見方もある。 11月25日 - サアカシュヴィリ大統領が、野党側が求めていた議会選の前倒しを拒否。代わりに大統領選の前倒しを行うことを表明し、立候補のため大統領職を辞任。大統領選は1月5日と決まるも、同日国会前では数万人が参加するデモが発生。11月7日の衝突以降、初の大規模デモとなる。 11月27日 - 事実上の国外追放処分を受けドイツに滞在していたオクルアシヴィリ元国防相が、ドイツ検察当局に拘束される。 2008年 8月8日 - 事実上の独立状態にあった南オセチアに侵攻。平和維持軍として駐留していたロシア軍に攻撃を加え、ロシアと戦闘状態に入る(南オセチア紛争 (2008年)も参照)。 8月10日 - 南オセチアから軍が退却。 8月12日 - 独立国家共同体(CIS)より脱退を発表。 8月29日 - ロシアと断交。^ a b c 馬場(2007)「ドマニシ遺跡」 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar ラング(1973)pp.151-153 ^ 久保友彦「栽培植物起源地としてのコーカサス」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.23-26 ^ 前田弘毅「神話世界の中のコーカサス」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.62-66 ^ a b c 国際情報大事典「グルジア共和国」(1992)pp.851-pp.853 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 池田「グルジア」『世界各国便覧』(2009)p.26 ^ a b c d e f g 「ジョージア」『データブック2016』(2016)pp.194-195 ^ a b c d e f g h i j k l 北川(2006)p.22 ^ a b c 北川(1988)pp.276-277 ^ a b c 高橋清治「グルジア正教会」『中央ユーラシアを知る事典』(2005)p.180 ^ 前田弘毅「グルジア(人)」『中央ユーラシアを知る事典』(2005)pp.178-179 ^ 木下宗篤「言葉の万華鏡」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.46-50 ^ a b c d e 吉村・前田・廣瀬「温泉と風とバラ色の街」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.51-56 ^ a b c 前田弘毅「コーカサスという磁場」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.67-71 ^ a b c d e f g h i j k l 北川誠一「二つの太陽に灼かれて」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.72-77 ^ a b 「バグラチ大聖堂とゲラチ修道院」『世界遺産の旅』(1999)p.161 ^ a b c d e f g h i j 前田(2010)pp.25-32 ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史1』(1968)pp.281-289 ^ ドーソン『モンゴル帝国史2』(1968)pp.228-232 ^ a b c d e f 北川誠一「コーカサスのパックス・モンゴリカ」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.78-82 ^ THE CAMBRIDGE HISTORY OF IRAN, vol.6, p.97 ^ a b c d e f 前田弘毅「コーカサスという磁場」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.83-87 ^ a b 前田弘毅「マイノリティ・エリートの世紀」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.88-91 ^ a b c d 伊藤順二「アジアからヨーロッパへ?」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.97-100 ^ a b c d e 木村(1970)pp.113-132 ^ a b c d 和田 他(2002)pp.3-16 ^ 和田 他(2002)pp.215-219 ^ a b 山内(2006)pp.12-15 ^ a b c 前田弘毅・児島康宏「客人歓待のロマンティシズム」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.231-234 ^ a b c d e f 伊藤順二「コーカサスの1905年」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.110-114 ^ 高橋(1988)pp.276-277 ^ a b チャノン&ハドソン(1999)pp.84-85 ^ a b 和田 他(2002)pp.259-261 ^ a b c 「III年表 国際主要事項」外務省(編)『外交青書―転換期の世界と日本 平成4年版』第36号(大蔵省印刷局、1993年6月) ^ 「グルジア議長信任96%」『朝日新聞』夕刊1992年10月15日 ^ 「国家評議会が解散 議会が機能を継承 グルジア」『朝日新聞』夕刊1992年10月17日 ^ 「グルジア大統領にロシア融和派 現内閣の副首相」『朝日新聞』2013年10月28日 ^ “ウクライナ・グルジア・モルドバとEUのDCFTAを含む連合協定署名について(外務報道官談話)”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2020年5月16日閲覧。 ^ “EU、旧ソ連3カ国と「連合協定」 経済発展後押し”. 日本経済新聞 (2014年6月27日). 2020年5月16日閲覧。 ^ “EU、旧ソ連3ヵ国とFTAを含む連合協定に調印−欧州理事会でウクライナに関する総括も取りまとめ−(EU、ウクライナ、アルバニア、ジョージア、モルドバ) | ビジネス短信 - ジェトロ”. www.jetro.go.jp. 2020年5月16日閲覧。 ^ “Georgia - Trade - European Commission”. ec.europa.eu. 2020年5月16日閲覧。 ^ EU候補国「落選」、抗議デモ ジョージア市民「加盟に必要な改革怠った」『朝日新聞』朝刊2022年6月26日(国際面)2022年7月10日閲覧 ^ “米英軍、ジョージアで「最大規模」演習 ロシア反発”. 『日本経済新聞』ニュースサイト. (2016年5月14日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM14H88_U6A510C1FF8000/  ^ “ジョージア、NATO早期加盟に意欲 外相「米の支援期待」”. 『日本経済新聞』朝刊. (2017年7月12日). http://www.nikkei.com/article/DGKKZO1875459012072017FF1000/  ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「日本国外務省」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
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