のコンテキスト セルビア

セルビア共和国
Република Србија
Republika Srbija
国の標語:不明
国歌:Боже правде / Bože pravde(セルビア語)
正義の神
経済統計はコソボを除く。

セルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、東南ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。首都はベオグラード。北にハンガリー、北東にルーマニア、南東にブルガリア、西にボスニア・ヘルツェゴビナ、南にコソボ、北マケドニア、南西にモンテネグロと国境を接している。また、同国のヴォイヴォディナ自治州部は西にクロアチアが接している。 

詳細について セルビア

基本情報
  • 通貨 セルビア・ディナール
  • 母国語表記 Србија
  • 呼び出しコード +381
  • インターネットドメイン .rs
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 6.22
Population, Area & Driving side
  • 人口 6647003
  • 領域 88361
  • 駆動側 right
履歴
  • 中世・近世・近代 6世紀 - バルカン半島西部(当時は東ローマ帝国の領域)にセルビア人が居住を始める。 9世紀 - セルビア人がキリスト教を受容する。 1171年 - セルビア王国が成立。 1346年 - セルビア帝国が成立。 1371年 - セルビア公国が成立。 1459年 - セルビア公国がヨーロッパに侵攻してきたオスマン帝国に滅ぼされる。 1817年 - セルビア公国が成立し、オスマン帝国から自治権を獲得。事実上の独立を果たす。 1838年 - ベオグラード遷都。 1878年 - ベルリン条約により、オスマン帝国から完全に独立。 1882年 - セルビア王国が成立。 1912年 - 第一次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利し、領土を拡大。戦間期
     
    ユーゴスラビア王国とその地方区分(1929年)

    第一次世界大戦後、1918年のサン=ジェルマン条約により、旧オーストリア=ハンガリー帝国領の南スラヴ人地域はスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国として分離した。この国はセルビア、モンテネグロとともに「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生した。1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど民族問題に取り組む姿勢をとった。ところが、建国当初から民族間の不和が続き、政治は行き詰まっていた。状況の打開を試み、1929年にセルビア王アレクサンダル1世がクーデターを起こしユーゴスラビア王国とした。しかしアレクサンダル1世はマケドニア人の民族主義組織・内部マケドニア革命組織に暗殺され、後継となった摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチはクロアチア人に対してクロアチア自治州の設置を認めたものの、民族間の不和は解消されなかった。

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    中世・近世・近代 6世紀 - バルカン半島西部(当時は東ローマ帝国の領域)にセルビア人が居住を始める。 9世紀 - セルビア人がキリスト教を受容する。 1171年 - セルビア王国が成立。 1346年 - セルビア帝国が成立。 1371年 - セルビア公国が成立。 1459年 - セルビア公国がヨーロッパに侵攻してきたオスマン帝国に滅ぼされる。 1817年 - セルビア公国が成立し、オスマン帝国から自治権を獲得。事実上の独立を果たす。 1838年 - ベオグラード遷都。 1878年 - ベルリン条約により、オスマン帝国から完全に独立。 1882年 - セルビア王国が成立。 1912年 - 第一次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利し、領土を拡大。戦間期
     
    ユーゴスラビア王国とその地方区分(1929年)

    第一次世界大戦後、1918年のサン=ジェルマン条約により、旧オーストリア=ハンガリー帝国領の南スラヴ人地域はスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国として分離した。この国はセルビア、モンテネグロとともに「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生した。1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど民族問題に取り組む姿勢をとった。ところが、建国当初から民族間の不和が続き、政治は行き詰まっていた。状況の打開を試み、1929年にセルビア王アレクサンダル1世がクーデターを起こしユーゴスラビア王国とした。しかしアレクサンダル1世はマケドニア人の民族主義組織・内部マケドニア革命組織に暗殺され、後継となった摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチはクロアチア人に対してクロアチア自治州の設置を認めたものの、民族間の不和は解消されなかった。

    第二次世界大戦
     
    枢軸国により分割されたユーゴスラビア王国(1941年-1943年)。北東がセルビア救国政府

    第二次世界大戦ではナチス・ドイツに侵攻され、王国政府はロンドンに逃れて亡命政権を樹立した。ドイツ軍は、傀儡政権であるセルビア救国政府を成立させる一方で、軍政を敷いてセルビアでの事実上の支配権を握った。他方で、ユーゴスラビア王国軍で主流であったセルビア人将校が中心となり、ドイツ軍に対抗する武装組織チェトニックが組織された。しかし、ドイツ軍政当局はドイツ軍の死者1人につきセルビア人市民100人、ドイツ軍の負傷者1人につきセルビア人市民50人を殺害する規定を導入し、セルビア人市民を虐殺した。チェトニックたちの多くはドイツ軍への抵抗をあきらめ、次第に軍政当局に協力する立場へと転じていった。

    代わってドイツに対しての抵抗運動を展開したのは、ヨシップ・ブロズ・チトーをはじめとするパルチザンである。チェトニックはドイツ軍への抵抗をしない代わりに、クロアチア独立国でセルビア人がジェノサイドの対象となっていることへの報復としてクロアチア人やボシュニャク人に対する大量虐殺を始めた。これに対して、パルチザンは多民族混成の抵抗運動であり、市民への虐殺をせず、ドイツ軍に対して粘り強く抵抗した。一時はウジツェに解放区を作るなど目覚しい戦果を挙げ、やがて多くの市民がパルチザンに加わっていった。パルチザンは、ソ連軍が侵攻してくる前に、自力でユーゴスラビアから枢軸勢力を駆逐し、ユーゴスラビア民主連邦を成立させた。

    社会主義時代
     
    ユーゴスラビア社会主義連邦共和国とその構成国

    ユーゴスラビアを自力で解放することに成功したチトーは、国王ペタル2世の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、独自にユーゴスラビアの再建を始めた。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟に改称)は、次第に共産主義の盟友であったソビエト連邦との路線対立が拡大し、1948年にはコミンフォルムを追放された。それ以降、セルビアを含むユーゴスラビア連邦は、ソビエト連邦の支配からはずれ、他の東側諸国とは一線を画するようになる。ユーゴスラビアは西側諸国との良好な関係を築き、マーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、ソ連と対立していた。1953年にチトーがユーゴスラビアの大統領となり、ソ連と一線を画した社会主義政策を展開した(自主管理社会主義)。また、非同盟運動を推進し、第三世界の主要国としての地位を確立した。

    しかし、1980年にチトーが死ぬと、セルビア領であるコソボ社会主義自治州がセルビアからの分離を求め、セルビア人との対立が深刻化するなどの民族対立や、地域の経済格差が顕在化した。セルビア人たちは、ユーゴスラビア連邦の枠内で自民族の権利が不当に低く扱われていると不満を募らせ、他方でスロベニアやクロアチアでは公然とユーゴスラビアからの分離を求める勢力が伸張した。1991年にはクロアチア、スロベニア、マケドニア共和国がユーゴスラビアから独立、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。残されたユーゴスラビア連邦はセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチが事実上支配下に置き、ユーゴスラビアはセルビア人の国家とみなされるようになった。

    ユーゴスラビア連邦共和国時代
     
    ユーゴスラビア連邦共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ(1998年)

    ユーゴスラビア連邦に残っていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国の2つの共和国は、公式に社会主義体制を放棄した新しい連邦「ユーゴスラビア連邦共和国」を形成した。ユーゴスラビアは経済制裁下に置かれ、大きな経済的打撃を受けた。ユーゴスラビアは、ユーゴスラビア解体に伴って発生したクロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への公式な関与は中止しており、セルビアは平和を保っていたものの経済制裁が続いて経済は疲弊した。政権内外の民族主義者は民兵組織を作るなどして紛争への関与を続けた。

    1995年に両紛争は終戦を迎えたものの、1996年ごろからコソボで大アルバニアを掲げるアルバニア人の民族主義勢力コソボ解放軍が、コソボの独立を求めての武力闘争を始めた。コソボ解放軍により同地方に在住するセルビア人が迫害されたため、セルビアはコソボ解放軍をテロリストと見なし弾圧した。これによってコソボ紛争が引き起こされ、1999年の北大西洋条約機構による爆撃に至った。これにより首都のベオグラードがアメリカ軍を主体とする北大西洋条約機構軍による激しい爆撃に晒された。1999年以降、セルビア領のコソボ・メトヒヤ自治州からはセルビアの統治権が排除され、国際的な監視下に置かれることになった。

    ユーゴスラビア崩壊以降の欧米の制裁による経済的苦境や、各種の紛争での敗北により、セルビアで強権を握っていたスロボダン・ミロシェヴィッチに対する不満が高まり、ミロシェヴィッチは2000年に失脚した(ブルドーザー革命(英語版))。

    セルビアとともにユーゴスラビア連邦を構成していたモンテネグロでも1997年ごろからミロ・ジュカノヴィッチを中心に独立要求が強まったため、EUの仲介により2003年にはユーゴスラビア連邦は、より緩やかな国家連合であるセルビア・モンテネグロに移行した。人口比で大幅にセルビアを下回るモンテネグロの政治的権限を大幅に拡大し、3年後の2006年以降再びモンテネグロの独立を問う事が出来る事を条件にして緩やかな連合国家に変更された。

    独立以降
     
    コソボ離脱後のセルビア

    2006年5月21日にモンテネグロは独立についての住民投票を実施し、賛成55.5%でモンテネグロ共和国の独立が決定した。これによって、モンテネグロは2006年6月3日(現地時間)に独立を宣言し、1918年のセルビアとの併合以来、88年ぶりに独立を回復することとなった。モンテネグロの独立によって、第2次世界大戦後にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアの6共和国で誕生したユーゴスラビア連邦は完全に解体した。2006年6月5日、セルビア議会はセルビアがセルビア・モンテネグロの継承国家である事を宣言して、モンテネグロの独立を追認した。ウィキニュース

    2008年2月17日にはセルビアの自治州でありながらセルビアの主権が及んでいない(その地位があいまいであった)コソボが独立を宣言した。セルビアはコソボを自国の不可分の領土であるとして、コソボの独立を認めていない。セルビアの同意のないまま、国際的監視下にあるコソボが一方的に独立することに対する国際法上の懸念などにより、コソボの独立に明確に反対の意思を表明する国も多く、コソボの独立を承認している国連加盟国は2013年の時点では100カ国程度に留まっている。日本は、コソボの独立を2008年3月18日に承認し、2009年2月25日に正式な外交部署を発足させた[1]。

    2009年12月22日、欧州連合に加盟を申請した[2]。EUからはコソボとの関係改善が加盟条件とされたため、共にEU加盟を目指すセルビアとコソボは関係改善を模索していた。2013年4月19日、セルビアとコソボは改善に向けた合意に達した[3]が、2021年現在もなおセルビアとコソボは厳しい対立状況にあり[4]、加盟交渉は継続中である。

    SARS-CoV-2の感染拡大

    2020年3月、欧州に拡大し始めた2019新型コロナウイルスの影響はセルビアにも及び始めた。同年3月15日、セルビア政府は非常事態宣言を発令。宣言は、3月20日からセルビアの全陸上国境の封鎖による入国禁止(ただし貨物は除く)、学校の閉鎖、自宅勤務の推奨、公共交通機関の運行を停止するなどの内容となった。次いで、 3月22日からは夜間外出禁止、高齢者については生活必需品購入時を除く終日外出禁止措置を行った。2021年2月4日現在の感染者数は402700人(死者4085人)[5]。

    ^ “コソボ共和国(Republic of Kosovo) 基礎データ”. 外務省 (2020年11月8日). 2020年12月30日閲覧。 ^ セルビア:EU加盟を申請 大統領「目標だった」 毎日新聞 2009年12月23日[リンク切れ] ^ “コソボと関係改善へ歴史的合意 セルビア、EU加盟に道”. 産経新聞. (2013年4月19日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/130420/erp13042001220001-n1.htm 2013年4月20日閲覧。  ^ “セルビア・コソボ国境で緊張高まる ナンバープレートめぐり対立”. AFP (2021年9月27日). 2021年9月27日閲覧。 ^ “セルビアにおける新型コロナウイルスに関する状況” (PDF). 在セルビア日本大使館 (2021年2月). 2021年2月9日閲覧。
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