のコンテキスト サルデーニャ

サルデーニャ自治州
Regione Autonoma della Sardegna(イタリア語)
Regione Autonoma de sa Sardigna(サルデーニャ語)

サルデーニャ(イタリア語: Sardegna[sarˈdeɲɲa])は、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。サルデーニャ語の発音([saɾˈdiɲɲa])からサルディーニャとも表記される。

周辺の島を含めて、サルデーニャ自治州を構成している。この州は、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はカリャリ(カリアリ)。

詳細について サルデーニャ

Population, Area & Driving side
  • 人口 1639591
  • 領域 23949
履歴
  • 新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。その碑文の研究によると、彼らは、サルディス(リディア)を出発し、ティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。

    以下は英語版の項目en:History of Sardiniaからの翻訳である。先史時代
     
    先史時代の遺跡

    1979年、15万年前にさかのぼる人類の痕跡が発見された。ガッルーラからサルデーニャ北部に居住した最初の人間は、おそらくイタリア半島のトスカーナから渡ってきたとみられている。島の中央部にはバレアレス海を渡り、イベリア半島から来た人々が居住したとも考えられている。先史時代の矢じり(約5000年〜6000年前)や、現在カリャリの考古学博物館に納められている地中海地方の母神像から、高いレベルで石の彫刻を作る能力を持っていたと推測される。

    石器文化と黒曜石の時代

    石器時代には既に、モンテ・アルチ (Monte Arci) は重要な役割を演じていた。この休火山は、黒曜石採掘と刃物・矢じりへの加工の中心地のひとつであった。現在でも山腹では火山ガラスを見つけることが出来る。サッサリの考古学博物館には、紀元前2600年頃の青銅器時代(またはAneolithic Age)の土器が展示されている。

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    新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。その碑文の研究によると、彼らは、サルディス(リディア)を出発し、ティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。

    以下は英語版の項目en:History of Sardiniaからの翻訳である。先史時代
     
    先史時代の遺跡

    1979年、15万年前にさかのぼる人類の痕跡が発見された。ガッルーラからサルデーニャ北部に居住した最初の人間は、おそらくイタリア半島のトスカーナから渡ってきたとみられている。島の中央部にはバレアレス海を渡り、イベリア半島から来た人々が居住したとも考えられている。先史時代の矢じり(約5000年〜6000年前)や、現在カリャリの考古学博物館に納められている地中海地方の母神像から、高いレベルで石の彫刻を作る能力を持っていたと推測される。

    石器文化と黒曜石の時代

    石器時代には既に、モンテ・アルチ (Monte Arci) は重要な役割を演じていた。この休火山は、黒曜石採掘と刃物・矢じりへの加工の中心地のひとつであった。現在でも山腹では火山ガラスを見つけることが出来る。サッサリの考古学博物館には、紀元前2600年頃の青銅器時代(またはAneolithic Age)の土器が展示されている。

     
    青銅器時代の遺跡
    ヌラーゲ文化の時代

    先史時代のサルデーニャは、ヌラーゲと呼ばれる独特の石造りの構造物に特徴づけられている。サルデーニャには複雑な構造のものから単純なものまで、大小7000のヌラーゲが現存している。最も有名なのはカリャリ県バルーミニのヌラーゲ遺跡、スー・ヌラージ・ディ・バルーミニである。このヌラーゲは紀元前1800年から250年頃にわたって造られ、紀元前1200年から900年頃に全盛期を迎えた。聖なる水場の隣に建てられ(例:Santa Cristina, Sardara)、墓の構造はドルメンと呼ばれる。この時代サルデーニャ人は既に、西地中海で交易を行っていたミケーネ人と接触していたことがわかっている。

    エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャとのつながりは真偽が疑わしく、立証されていない。墓場 (Tombe dei giganti) には沈みかけの船をかたどった墓石があり、長い航海中に惨事があったことを示している。古代ギリシャで初めて地中海を西に航海したエウボイア人は、サルデーニャをHyknousaと呼んだ。のちにラテン化しIchnus(s)a(イクヌーザ)となった。ノーラ遺跡の石碑は、フェニキア人がこの島をShardenと呼んだ証拠となっており、これがSardiniaという名前の由来となっている。

    フェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人
     
    ローマ時代の風呂遺跡

    紀元前8世紀から、Tharros(ターロス)、Bithia(ビティア)、Sulcis(スルシス)、Nora(ノーラ)、Karalis(カラリス、現在のカリャリ)と、フェニキア人が都市や砦をいくつもサルデーニャに築いた。フェニキア人はレバノンの出身で、地中海で交易を行っていた。彼らは島のあらゆるエリアに定住した。サルデーニャはカルタゴ(現在のチュニジア)、スペイン、ローヌ川(フランス)、エトルリア(イタリア半島)の間にあったため、西地中海の中心として特別な地位を獲得していた。イグレージアス周辺の鉱物地帯は、鉛や亜鉛の産地として重要であった。都市は防御しやすく天然の港になる、多くは河口に近い半島部や島のような、戦略上の重要な地点に造られた。フェニキア人ののちに、紀元前500年ごろカルタゴ人(Punic、ポエニ)がサルデーニャ周辺の地中海の覇権を確立した。カルタゴの影響はサルデーニャのほぼ全域に及んでいる。

    紀元前238年、ローマ人が島を獲得した。ローマはカルタゴと第一次ポエニ戦争を戦ったが、戦後にカルタゴの傭兵が反乱を起こしたため、ローマはこの年サルデーニャに上陸し、占領する機会を得た。ローマ人がサルデーニャを獲得した時点で、既に社会基盤と(少なくとも平野部では)都市化された文化があった。サルデーニャはシチリアとともに、エジプト征服までのあいだローマの穀倉地帯のひとつでありつづけた。フェニキア・カルタゴ文化は、ローマ人の支配下にあっても紀元後数世紀まで根強く残った。Tharros(ターロス)、Nora(ノーラ)、Bithia(ビティア)、Antas(アンタス)、Monte Sirai(モンテ・シライ)らは、建築と都市計画の調査に非常に重要な考古学遺跡となっている。

    中世
     
    ジュディカーティの領国(14世紀)

    ローマ帝国の滅亡後、サルデーニャは何度と征服の対象とされている。東ローマ帝国による帝国の一部としての奪還に先立ち、456年北アフリカのヴァンダル人に占領された。711年からは、サラセン人による沿岸部の都市への攻撃が始まった。これが原因となり、9世紀には1800年の歴史を持つターロスが放棄され、内陸のオリスターノが取って代わった。アラブ人に対抗するために、海洋共和国であったピサとジェノヴァによる支援が求められた。

    1063年から、この地域の東ローマ帝国の政治行政組織を踏襲する形で、審判による統治を意味するジュディカーティ(Giudicati)という制度が形成された。中世後期において最も特筆すべき、今に至るまで島のヒロインと慕われる人物は、ジュディカーティであったアルボレア国の妃エレオノーラ・ダルボレア(Eleonora d'Arborea)である。彼女は法制の整備に尽力し、1395年に発効した先進的な民法典カルタ・デ・ログ(Carta de Logu)は1827年まで使われた。

    同じ時代、アラゴン=カタルーニャ王国の影響が大きくなり、これはアラゴンによるサルデーニャ占領まで続いた。アラゴンの塔と呼ばれた見張り台が沿岸部全域にわたって作られ、アラブ人の侵入を防ぐことに役立った。これらの見張り台のいくつかは、ちょうど戦略上の重要地点にあったフェニキア都市の石を使って作られた。教会建築への再利用としての好例は、古い都市オトカ(Othoca)の跡に建てられたサンタ・ジュスタ(Santa Giusta)教会にみられる。当時のスペインの影響の強さは、今でもアルゲーロ周辺でカタルーニャ語の方言が使われていることからも窺える。

    サルデーニャ王国の誕生から現代

    スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)でサルデーニャはスペインからオーストリアに渡った。しかし、旧領回復を目指すスペインは1717年にサルデーニャに侵攻(スペインによるサルデーニャ侵攻)。四国同盟戦争(1718年 - 1720年)を経て、1720年にシチリア島との交換によりサヴォイア家が領有した。以後、イタリア統一の1861年まで、サルデーニャはピエモンテとともにサルデーニャ王国を形成していた。

    フランス革命戦争中の1793年には、フランス共和国軍がサルデーニャ島に侵攻したが、サルデーニャ人によって撃退された(サルデーニャ遠征)。

    サルデーニャ島の社会基盤の開発は遅れていたが、19世紀初期にカルロ・フェリーチェによる統治のもと、南のカリャリから北のサッサリに至る島の大動脈が建設され、いまでも彼の名がこの道につけられている。1861年にサルデーニャ王国がイタリア統一を果たして国名を「イタリア王国」と改めた。1883年にはカリャリからサッサリまでの鉄道が開通した。

    ムッソリーニ政権下では、オリスターノ周辺の沼沢地が干拓され、最も成功した農村コミュニティとなったアルボレアの基盤が作られた。またムッソリーニは鉱業の中心地としてカルボーニアを建設した。第二次世界大戦後、石炭の重要性は低下し、観光業が盛んとなった。雇用を創出するための様々な施策は、安価な労働力をもっても埋め合わせることの出来ない高い運送費のために、これまでのところうまくいってはいない。

    今日、サルデーニャは自治州であり、その歴史は言語と文化の中にいまだ息づいている。また注目すべきは沿岸部と内陸部の差異である。沿岸部は常に外部からの影響に対してよりオープンであった。今日サルデーニャは、船や飛行機の便がよい北部の海岸や島々(ラ・マッダレーナ、コスタ・ズメラルダ)と南部カリャリ周辺の海岸によって、最もよく知られている。

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