のコンテキスト マドリード

マドリードMadrid)は、スペインの首都。マドリード州の州都であり、マドリード州の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。マドリッドとも呼ばれる。

人口は約325万人。2018年の都市圏人口は679万人 であり、EU内においてパリに次ぐ規模の大都市圏である。 紋章はイチゴノキとクマ。スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。

ヨーロッパ屈指の世界都市であり、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界15位の都市と評価された。

詳細について マドリード

Population, Area & Driving side
  • 人口 3332035
  • 領域 604
履歴
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    マドリード王宮
     
    レティーロ公園の外にあるアルカラ門。商人が日曜の市のためにマドリードに入るのに使われた。...続きを読む
     
    マドリード王宮
     
    レティーロ公園の外にあるアルカラ門。商人が日曜の市のためにマドリードに入るのに使われた。
     
    シベーレス広場にそびえるマドリード市庁舎。
    中世

    マドリードの地には先史時代から人間が住んでいた。古代ローマ時代にはコンプルトゥム(現在のアルカラ・デ・エナーレス)の司教管区に属していた。マドリードが最初に歴史の記録に残されたのは、9世紀に後ウマイヤ朝のムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)が現在の王宮の位置に、小さな宮殿の建設を命じたときである。この宮殿のそばには小さな要塞が建てられた。近くのマンサナーレス川はアラビア語で「アル・マジュリート」(المجريط、「水の源」の意)と呼ばれ、そこからこの地は「マジェリト」と呼ばれるようになり、現在の「マドリード」となった。

    1085年に要塞はトレドに向かう途上のアルフォンソ6世に征服され、モスクは教会に建て替えられた。1329年、フェルナンド4世に助言するための最初の議会(コルテス)がこの都市で開かれた。セファルディム(ユダヤ教徒)やイスラム教徒もここに住み続けたが、15世紀の終わりに追放された。エンリケ3世の時代には、都市は大火のあとに再建され、王は城壁外のエル・パルドに住んだ。

    ルネッサンス期

    カスティーリャ王国(首都トレド)とアラゴン王国(首都サラゴサ)が連合したのち、16世紀にカルロス1世の元でスペイン王国としての融合が進んだ。1561年にフェリペ2世が宮廷をマドリードに移した。王の公式な宣言はなかったものの、宮廷の位置が事実上の首都となった。マドリードが首都とされたのは、国土のほぼ中央にある地理的条件や、水が豊富で気候が穏やかだったことによるとされる。1601年から1606年の短期間、フェリペ3世が宮廷をバリャドリッドに移した[1] が、1606年に再び首都はマドリードに戻った。スペインの黄金時代にマドリードは新大陸から流入する富によって栄え、ミゲル・デ・セルバンテスを筆頭に、ロペ・デ・ベガ、フランシスコ・デ・ケベード、ルイス・デ・ゴンゴラ、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカなどの文人や、宮廷画家ディエゴ・ベラスケスといった芸術家がマドリードを拠点として次々と作品を発表していき、文化の一中心となっていた。

    近代

    18世紀にフェリペ5世は、ヨーロッパの首都としてふさわしいようにマドリード王宮を含む新しい宮殿の建設を行ったものの、マドリードが近代的な都市となったのは、カルロス3世の代であった。彼の時代に、当時の市街の東端にあった王室の土地がレティーロ公園として整備されて市民に開放され、また現在プラド美術館として使用されている建物が建設された[2]。マドリードの歴史の中でもっとも人気のあるカルロス3世は「最良の市長であり王」と呼ばれた。

    カルロス4世が即位すると、マドリードは反乱を起こした。1808年、息子のフェルナンド7世に率いられたアランフエスの蜂起のあと、カルロス4世は退位し、スペイン王家はフランスに追放されて、ナポレオンの兄であるジョゼフ・ボナパルトがホセ1世としてスペイン王位に就くこととなった。5月にナポレオン・ボナパルトの部隊がホセを王位につけるためにマドリードに入城した。5月2日、これに反発するマドリード市民はフランス軍に対して反乱を起こしたが、鎮圧された。この時の光景を画家フランシスコ・デ・ゴヤが描いたものが、『マドリード、1808年5月3日』である。しかしこの蜂起はスペイン全土に波及し、1814年まで6年間にわたって継続するスペイン独立戦争の口火を切る形となった。1814年に最終的にナポレオン軍は敗北し、フェルナンド7世が王位に復帰したが、復帰したフェルナンドは極端に復古的な政治を行ったため、19世紀の間は自由主義派と保守派の争いが続いた(カルリスタ戦争)。

    20世紀

    20世紀に入っても、マドリードは産業があまり興っておらず、経済的には非常に停滞していた。スペイン内戦(1936年 - 1939年)では、マドリード市内は戦場となった。マドリードは内戦が勃発した1936年7月19日から20日にかけて反乱軍の蜂起が起きたものの瞬時に鎮圧され、人民戦線の手に残された。そして内戦期を通じて人民戦線側に保たれ、バルセロナやバレンシアと並ぶ政府の拠点だったが、1936年11月、マドリードを奪取しようとするフランコ軍が猛攻撃を開始し、政府機能はバレンシアへと移された。この猛攻はしかし政府軍の抵抗によって食い止められ、以降マドリードは3年間抵抗を続けるものの、1939年3月28日に降伏した。この降伏によって共和国側は最後の拠点を喪失し、3日後の3月31日にはスペイン全土がフランコ軍によって制圧され、4月1日にはフランコがマドリードに入城して内戦の終結を宣言した[3]。マドリードは初めて民間人を標的とした航空爆撃を受けた都市となった(Siege of Madrid (1936-39)を参照)。

    フランコ軍の勝利とともに、マドリードは再びスペインの首都となった。フランコの独裁時代の間、マドリードの南は工業化され、多くの移民が地方から流れ込んだ。マドリードの南東沿いにスラムが形成されたが、文化的・政治的な活動の舞台ともなった。フランコの死後、フアン・カルロス1世の下で民主化が進み、マドリードはイベリア半島の経済的な中心としての地位を固めた。1981年2月23日にはこの民主化の流れに反対するアントニオ・テヘーロ中佐らがマドリードの国会議事堂を占拠し、いわゆる23-Fと呼ばれるクーデター未遂事件を起こしたものの、フアン・カルロスの果断な対応などによって翌日に鎮圧され、以後民主化は一層進むこととなった[4]。

    21世紀

    2004年3月11日、マドリード市内のアトーチャ駅など3つの駅でマドリード列車爆破テロ事件が発生し、191人が死亡し、2000人以上が負傷した。この事件は3日後の総選挙に大きな影響を与え、国民党が退陣してスペイン社会労働党に与党が移り変わる結果となった[5]。

    マドリードは2012年夏季オリンピック、2016年夏季オリンピック、2020年夏季オリンピックの開催都市に立候補したが、いずれも開催地決定投票で脱落した。

    2020年3月14日、2019新型コロナウイルス感染者数の増加を受けて都市封鎖(ロックダウン)が行われた。市民の外出禁止措置によりウイルス感染者の増加に歯止めをかける効果はあったが、同時に失職者が増加するなどの経済的影響生じた[6]。同年9月には再びウイルス感染者数の拡大が見られたことから、10月2日より再びロックダウンを実施。このロックダウンは、外出禁止を伴う厳格なものではないが、不要不急のマドリード内外の往来は禁止され、市内のレストランやバーの営業時間、商店などの収容人数に制限が加えられた[7]。

    ^ 「王都マドリードの誕生」坂東省次/「マドリードとカスティーリャを知るための60章」(エリア・スタディーズ131) p51 川成洋・下山静香編著 明石書店 2014年6月30日初版第1刷 ^ 「ビジュアルシリーズ 世界再発見1 フランス・南ヨーロッパ」p52 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷 ^ 「内戦期」渡辺雅哉/「マドリードとカスティーリャを知るための60章」(エリア・スタディーズ131) p76 川成洋・下山静香編著 明石書店 2014年6月30日初版第1刷 ^ 「23-Fクーデターと国王フアン・カルロス1世」桑原真夫/「マドリードとカスティーリャを知るための60章」(エリア・スタディーズ131) p88-90 川成洋・下山静香編著 明石書店 2014年6月30日初版第1刷 ^ 安田圭史「スペインにおける3.11」/川成洋・下山静香編著『マドリードとカスティーリャを知るための60章』(エリア・スタディーズ131), 明石書店, 2014年, pp.92-93 ^ “スペイン、新型コロナの「ロックダウン」で約90万人失職”. 朝日新聞 (2020年4月2日). 2020年10月2日閲覧。 ^ “マドリード再封鎖、不要不急の往来禁止 コロナ第2波で”. ロイター (2020年10月3日). 2020年10月2日閲覧。
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