のコンテキスト マダガスカル

マダガスカル共和国
Repoblikan'i Madagasikara(マダガスカル語)
République de Madagascar(フランス語)
国の標語:Tanindrazana, Fahafahana, Fandrosoana
(マダガスカル語: 祖国、自由、進歩)
国歌:Ry Tanindrazanay malala ô(マダガスカル語)
註1: 2007年4月27日より
註2: 2003年8月 から 翌2004年12月31日までは マダガスカル・フランと併用

マダガスカル共和国(マダガスカルきょうわこく)、通称マダガスカルは、アフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400キロメートル離れた西インド洋にあるマダガスカル島および周辺の島々からなる島国。首都はアンタナナリボである。

詳細について マダガスカル

基本情報
Population, Area & Driving side
  • 人口 25570895
  • 領域 587295
  • 駆動側 right
履歴
  • 定住の始まり
    オーストロネシア語族の広がりを示す図続きを読む
    定住の始まり
    オーストロネシア語族の広がりを示す図 
    オーストロネシア語族の広がりを示す図
    Y染色体ハプログループO型の世界分布図 
    Y染色体ハプログループO型の世界分布図

    マダガスカルに人類がいつごろから定住し始めたかという問題については不明な点が多い[1]。マダガスカル島は地球上にある主要な陸塊の中で、人類が最後に定住するようになった場所である可能性がある[2]。最も古い住居跡はアンツィラナナ近くの洞窟にあり、ここで採取された炭は放射性炭素年代測定により西暦420年ごろのものと判明した[3]。しかし、ここに住んだ人々が定住するに至ったかどうかまでは明らかではなく、人骨の出土はなく出土遺物からも漂流者の一時的避難場所であったことが示唆される[1]。長期にわたって利用された住居跡として最も古いものはヌシマンガベ島にあり、8 - 9世紀ごろの地層から土器片や陶器片、焼畑の痕跡が見つかっている[1]。ここで人々が生活していた証跡は18世紀初期まで連綿と続く[1]。住居跡でない、もっと曖昧な証拠であれば、紀元前89年から紀元後70年までのものと推定される、金属器の切りつけ痕の残るコビトカバ[注釈 1]の大腿骨がマダガスカル島南西部から見つかっている[1]。2011年にも、紀元前2000年ごろのものと見られる、人為的な切りつけ痕のある動物の骨が発見された[1][4][5]。

    比較言語学の知見に基づくと、マダガスカル語はボルネオ島南部のバリト川流域で話されているマアニャン語などが含まれるオーストロネシア語族ヘスペロネシア語派南バリト諸語に系統的に最も近い[6]。マダガスカル語がマアニャン語などと分岐した時期は、今から1200年から1300年ほど前と考えられている[6]。

    20世紀終盤から遺伝学は人類集団の移動の軌跡を調べる上で強力なツールとなっており、マダガスカル人の歴史的形成を研究する分野においても有用な研究方法の一つとなっている[7]。任意の属性を有する人間集団におけるY染色体ハプログループの分布を、他の人間集団の分布と比較するという手法を用いた研究によると、アジア由来のマダガスカル人のY染色体ハプログループの分布は、他のどの地域の人間集団の分布よりも、マアニャン語話者の多いバンジャルマシン住人の分布に近いことがわかった[8]。この結論は言語学的知見に基づく推定と一致する[7][8]。

    ボルネオ島南部からマダガスカルへの移住の態様についも不明な点が多く、諸説あるが、移住民がアウトリガー・カヌーに乗ってやってきたであろうことは確実である[9]。このようにインドネシア系の人々を先祖としてマダガスカル人の基層が形成されたが、そこに(イスラム教を信じる)アラブ系の人々が加わった、もしくは少なくとも文化的な寄与をしたことは、全島的に見られる男子割礼、豚肉の禁忌、先祖がメッカからやってきたという伝承を受け継ぐ民族集団の存在などを証拠に確実視される[9]。アラブ人たちがマダガスカル島に初めてやってきたのは7世紀から9世紀の間で、交易を目的として渡来した[10]。バンツー語族の言葉を話す人々の移民の波がアフリカ大陸の南東部からやってきたのは、西暦1000年ごろである(cf.Bantu expansion)。彼らは角を持ちコブのあるタイプの牛であるゼブ(コブウシ)を島に導入し、大規模な群れで飼い始めた[11]。

    中央高地のベツィレウ王国群では17世紀までに水田の灌漑が発達し、17世紀には隣接するメリナ王国にも水田の灌漑が広まった。メリナ王国では棚田も作られるようになった[12]。中央高地の森林生態系は、土地の耕作意欲の高まりと、コブウシの牧草地需要の恒常的な増加により、17世紀までには草原へと、大きくその姿を変容させた[11]。メリナ人たちは、牛牧にイネの灌漑施肥農耕を組み合わせた農法による新田開発で社会を富ませることで、勢力を拡大していった[13]。メリナ族は、彼らの間で口承で伝えられた歴史叙述によると、今からおよそ600年前から1000年前までの間に中央高地にやってきたことがうかがわれ、また、そのときに「ヴァジンバ」と呼ばれる人々に出会ったと伝わる。彼らは、アンヂアマネル、ラランブ、アンヂアンザカといった16世紀から17世紀にかけての歴代のメリナ王により、同化させられるか、中央高地から排斥されて、歴史の表舞台から姿を消した[14]。「ヴァジンバ」は子孫が絶えてしまったためマダガスカル人が非常に重視するところの「祖先になる」ことができず、その死霊がいつまでも彷徨っているとして畏れられている[15]:49。「ヴァジンバ」が単なる伝説か史実かは議論があるところである。史実と見る学者は、彼らがメリナ人に先行するオーストロネシアン移民の子孫で、技術的にはメリナ人に劣っていた人々ではないかと考えている[16]。

    沿岸部の歴史的展開
     
    サント・マリー島にある海賊の墓

    マダガスカルは、人類が定住してから数世紀のうちはインド洋に面した港と港をつなぐ大洋間交易における重要なハブであった。マダガスカルのことを歴史書に初めて残したのは、アラブ人である。彼らは、遅くとも10世紀までに北西部の沿岸に交易所を建設した。そしてイスラムとアラビア文字による書記法(アラビア文字を用いてマダガスカル語を表す書記法を「スラベ、sorabe」という)、アラビアの占星術などといった文化要素をもたらした[17]。ヨーロッパ人との接触は1500年から始まる。インドを目指して航海していたポルトガル船の船長ディオゴ・ディアスが、同年にマダガスカル島を目撃した[18]。17世紀後半になると、フランスが東海岸に交易所をいくつか建設した[17]。

    1774年から1824年ごろまで、マダガスカルは海賊やヨーロッパの交易商人たち(とりわけ、大西洋間奴隷貿易に携わっていた者たち)の間ではよく名前が知られていた場所であった。マダガスカル本島の北東沿岸から少し離れたところにある小さな島、ヌシ・ブルハ(サント・マリー島)は、歴史家により、伝説的な海賊のユートピア「リベルタリア」に比定されてきた島である[19]。マダガスカルの沿岸ではよく船が難破し、ヨーロッパの船乗りたちが多数遭難した。その中の一人、ロバート・ドリューリー (船乗り)(英語版)が残した日誌は、18世紀マダガスカル南部の生活を描写した数少ない文字史料のひとつである[20]。沿海交易によって生み出された富は、島内で成立した国家群の伸張に拍車をかけ、17世紀にはそのうちのいくつかが強勢となるまでに成長した[21]。そのような国家群としては、東海岸のベツィミサラカ人たちの連合国家や西海岸のメナベのサカラヴァ諸王国やブイナ王国がある。中央高地のアンタナナリボに都したメリナ王国が、アンヂアマネルのリーダーシップの下で出現したのも、沿岸の諸王国が栄えたのと同じころであった[22]。

    内陸部の内発的発展
     
    アンヂアナンプイニメリナ王 (1787–1810)

    メリナ王国が17世紀前半、中央高地に出現したころ、その勢力は沿岸の王国群の中でも比較的大きな国と比べるとまだ弱く[22]、アンヂアマシナヴァルナが4人の息子に王国を分け与えた18世紀初期にはさらに弱小となった。戦と飢餓の半世紀を過ごし、メリナ王国はアンヂアナンプイニメリナ(在位1787年 - 1810年)により1793年に再統一された[23]。王は都をアンブヒマンガから[24] アンタナナリボに移し、近隣の自立した勢力にその支配を急激に拡大した。メリナの王権の支配をマダガスカル島全体に行き渡らせるという彼の野望は、王位を受け継いだ息子のラダマ1世(在位1810年 - 1828年)により大部分が達成された。ラダマ1世はイギリス政府により「マダガスカル王」として認められた[25]。ラダマ1世は1817年に、イギリスの軍事経済的援助を得る見返りに、割のいい奴隷貿易を廃止するため、モーリシャスのイギリス政府と条約を結んだ。ロンドン伝道協会(英語版)が派遣した専門技術を持つキリスト教宣教師が1818年に到着。学校の設立、ローマ字を用いたマダガスカル語の書記法の考案、聖書の翻訳をするなどして、新しい技術を島にもたらした[25]。

    ラダマ1世から王位を受け継いだラナヴァルナ1世女王(在位1828年 - 1861年)はイギリス、フランスの一部の者たちによる政治的、文化的な侵略が増加していることに対抗して、マダガスカルにおけるキリスト教の宗教活動を禁止する勅令を発し、また、ほとんどの外国人に対して領土の外へ出るように圧力をかけた。マダガスカルの住民は、偸盗、淫祠・邪教(ここではキリスト教)などさまざまな罪で他人を告発することができるようになった。これらの罪には「タンゲナ、tangena」という神明裁判が欠かさず行われ、ラナヴァルナ1世の統治した約30年間で、1年あたり約3,000人の命がタンゲナにより失われた[26]。

    メリナ王国に住み続けた外国人もおり、企業家のジャン・ラボルドはそのうちの1人である。彼は女王の名代として武器開発やその他の産業の振興に努めた[27]:83-84。冒険家で奴隷商人でもあったジョゼフ=フランソワ・ランベールはラダマ2世がまだ王子であったころから彼に取り入り、ランベール特許状と呼ばれる問題の多い覚書を王と秘密裡に締約した[27]:98-99。母から王位を受け継いだラダマ2世(在位1861年 - 1863年)は母の厳しい政策を緩和しようと試みたが、2年後に首相のライニヴニナヒチニウニ(在職1852年 - 1865年)らに謀殺された。ラダマ2世の暗殺は国王が絶対的な権力を持つ体制を終わらせようとしていた、アンヂアナ(andriana、貴族)とフヴァ(hova、自由民)の廷臣たちが結託してなされたものであった[17]。

    謀略のあと、廷臣らはラダマ2世の后であったラスヘリナ(在位1863年 - 1868年)に女王として王位に就くことを提案した。そのための条件としては、権力を首相と共有すること、そして、ラスヘリナと首相が政略結婚することによりこの取引を隠蔽することであった[28]。ラスヘリナは同意し、ライニヴニナヒチニウニと結婚した。のちにラスヘリナはライニヴニナヒチニウニを退け、彼の弟であり首相のライニライアリヴニ(在職1864年 - 1895年)と再び政略結婚した。ライニライアリヴニはラスヘリナが亡くなると、やはり跡を継いだラナヴァルナ2世女王(在位1868年 - 1883年)、ラナヴァルナ3世女王(在位1883年 - 1897年)と政略結婚した[29]。

    ライニライアリヴニは終生首相の地位にあって、その31年間の在職中に近代化と中央集権化を目的とした多くの政策を実施した[30]。島全土に学校を建て、通学を義務化した[31]。軍隊の再編も行った[31]。また、イギリス人を雇い、常備軍化と鉄道建設を図った[31]。英国法を基礎にした法典範を整備し、三審制を導入するとともに首都にヨーロッパ風の裁判所を建てた[31]。ライニライアリヴニは将軍も兼務し、フランスの幾度かにわたる侵略からマダガスカルを守ることにも成功した[31]。なおキリスト教は、信徒であったラナヴァルナ2世が1868年に女王に即位すると、あっさりと宮廷公認の教えである旨の宣言がなされ、人口が増加しつつあったマダガスカル社会に伝統宗教と並んで受け入れられた[30]。重婚も非合法化された[30]。

     
    「マダガスカル征伐」を喧伝するポスター

    1883年、北西部の権益の保護を口実に、フランスはマダガスカルに侵攻する[27]:139-141。フランス語では「第一次マダガスカル遠征(英語版)」という名で知られる戦争である[32]。マダガスカルは敗戦し、北部の港町アンツィラナナ(ディエゴ・スアレス)をフランスに割譲し、ランベールの相続権者に56万フランを支払った[33]。1890年にイギリスはフランスがマダガスカルを全面保護国化することを受け入れたが、マダガスカル政府はフランスの権威を認めなかった。フランスはマダガスカルを服従させるために、東海岸にあるトゥアマシナの港を1894年12月に砲撃および占領し、1895年1月には西海岸の港町マハザンガも占領した[34]。

    北アフリカや西アフリカ出身の兵で強化されたフランス軍の別動隊がアンタナナリボに向かって進軍したが、マラリアやその他の病気でかなりの数の兵士が失われた。当該別動隊は1895年9月に首都にたどり着くと女王宮を大砲で砲撃し、大損害を与えるとともに女王ラナヴァルナ3世を降伏させた[35]。フランスは1896年にマダガスカルを併合し、翌年に植民地化を宣言した。メリナ王国は解体され、王室はレユニオン島に追放された。フランスが宮殿を接収したことに対する抵抗運動が起きたが、1897年の終わりには鎮圧された[36]。「メナランバの乱」と呼ばれるこの反乱は、各地に行政官として派遣されていたメリナ王国の高官とその指揮下の部隊が中核となったが、フランスはその鎮圧にあたって、国家間の戦争であったフランス=メリナ王国戦争(第二次マダガスカル遠征)時とは態度を一変させた。自らが主権を確立した土地における反乱に対しては容赦しない姿勢を示し、反乱参加者を拘束するとその場で処刑を行った。1895年から1898年の間の社会不安には飢饉も加わり、数十万人が命を落とした[37]:128-133。

    植民地体制下の近代化

    植民地支配下でプランテーションが開かれ、さまざまな輸出用作物の生産が行われた[38]。1896年に奴隷制が廃止され、およそ50万人の奴隷が解放されたが、多くは解放前の主人の家に使用人として残った[39]。植民地政府が置かれたアンタナナリボには、広い大通りと広場が建設され[40]、王宮を含む建物群は博物館になった[41]。メリナ王国による学校建設がまだ及んでいなかった地方や沿岸部を中心に、学校建設が追加された。6歳から13歳の子どもに教育を受けさせることが義務となり、学校では基本的にフランス語と実践的な技術が教えられた[42]。SMOTIGという強制労働制度がフランス植民地政府により創設され、沿岸部の町とアンタナナリボをつなぐ鉄道や道路の建設の際に利用された[43]。なお、マダガスカルの伝統的な家屋は先祖の住処である西に戸口を開くものであったが、フランス植民地政府は戸口を幹線道路を向くように命令した[15]:23。文明観において社会進化論が支配的であった当時の西欧では、「未開」の後進地域に文明を移出する「文明化の使命」があると観念され、文化の一方的な押しつけが何の疑問もなく行われた[15]:128。

    20世紀に入ると、官工や農業生産者の不足からアジア地域などから労働期間を限定した出稼ぎ外国人労働者を導入した。1901年04月、在清フランス領事がフランス商人からの要望に応じ、清国の福建洋務局や福州按察司と約定書を締結、福建省において約1500人の中国人労働者が募集され、3年間の出稼ぎ労働が行われた[44]。

    第一次世界大戦には、マダガスカル出身の兵士たちもフランスのために戦った[18]。この時期には遠く日本の明治維新及び日露戦争における日本の勝利の情報が入ってきており、これに触発されて民族主義運動が高まった[37]:268-270。フランス植民地当局はマダガスカル語新聞の検閲を強め、大戦中の1915年に抗仏秘密結社ヴィ・ヴァトゥ・サケリカを摘発した[37]:143-146。植民地当局は、硬軟双方の手管を用いた独立運動への抑圧と[37]:150-154、島内の民族間の対立を煽る統治政策を強めていった[45]。

    1930年代にはドイツの政治思想家が、マダガスカルをポーランドや他のヨーロッパ諸地域に住むユダヤ人たちを将来移住させる際の移住先とする「マダガスカル計画」を練り始めた[46]。第二次世界大戦中は、マダガスカルはヴィシー政府側につき、ヴィシー政府軍とそれを支援する大日本帝国海軍、イギリス軍との間で戦闘が起き、日本軍の潜水艦の攻撃でイギリス軍戦艦が大破、日本軍兵士とイギリス軍兵士が地上戦を繰り広げるなど、マダガスカルは戦場になった(マダガスカルの戦い)[47]。

    第二次世界大戦中に宗主国フランスがドイツに占領。マダガスカルもヴィシー政権の統治下におかれたが 1942年5月5日、イギリス軍が上陸作戦を開始[48]してヴィシー政府軍を掃討した。 戦後は再びフランス共和国による植民地統治が回復したが、植民地政府の威信に曇りをもたらす出来事であり、1947年に起きた反フランス植民地支配抵抗運動の遠因ともなった[49]。この運動はフランスが1956年に海外植民地改革法を制定するきっかけとなり、マダガスカルは平和裏に独立へと移行することとなった[50]。1958年10月14日に、フランス共同体に属する一自治国家として、マダガスカル共和国の樹立が宣言された。地方政府の時代は1959年憲法の発効により終わり、1960年6月26日に完全な独立を達成した[51]。

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