のコンテキスト マルタ

マルタ共和国
Repubblika ta' Malta(マルタ語)
Republic of Malta(英語)
国の標語:なし
国歌:L-Innu Malti(マルタ語)
マルタ賛歌

マルタ共和国(マルタきょうわこく、マルタ語: Repubblika ta' Malta、英語:Republic of Malta)、通称マルタMalta)は、南ヨーロッパの共和制国家。イギリス連邦および欧州連合(EU)の加盟国でもあり、公用語はマルタ語と英語、通貨はユーロ、首都はバレッタである。地中海中心部の複数の島からなる小さな島国で、人口は約44万人。いわゆるミニ国家の一つ。

詳細について マルタ

基本情報
  • 呼び出しコード +356
  • インターネットドメイン .mt
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 7.68
Population, Area & Driving side
  • 人口 465292
  • 領域 316
  • 駆動側 left
履歴
  • 新石器時代から人間が生活していたといわれ、巨石文明および平行に穿たれた2本の溝の遺跡が島内各所に残る。前者はジュガンティーヤ、スコルバ、タルシーン、ハジャイーム、(イ)ムナイドラの各神殿を含む。後者は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、この溝には水路説と神殿などに石を運ぶために出来た(あるいは造られた)レール説があるが、鉄道のポイントのように分岐点が所々存在する。

    紀元前1000年頃、現在のレバノン一帯が起源とされるフェニキア人が渡ってきて支配者となる。

    紀元前400年頃に、カルタゴの支配下に入り、その後紀元前218年にローマに攻略される。その頃から既に地中海貿易で繁栄していた。

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    新石器時代から人間が生活していたといわれ、巨石文明および平行に穿たれた2本の溝の遺跡が島内各所に残る。前者はジュガンティーヤ、スコルバ、タルシーン、ハジャイーム、(イ)ムナイドラの各神殿を含む。後者は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、この溝には水路説と神殿などに石を運ぶために出来た(あるいは造られた)レール説があるが、鉄道のポイントのように分岐点が所々存在する。

    紀元前1000年頃、現在のレバノン一帯が起源とされるフェニキア人が渡ってきて支配者となる。

    紀元前400年頃に、カルタゴの支配下に入り、その後紀元前218年にローマに攻略される。その頃から既に地中海貿易で繁栄していた。

     
    マルタ包囲戦 (1565年)
    変遷
    マルタ騎士団の旗  聖ヨハネ騎士団 1566–1798

    フランスの旗  フランス占領下のマルタ(英語版) 1798–1800
    イギリスの旗  マルタ保護国(英語版) 1800–1813
    マルタの旗  直轄植民地マルタ(英語版) 1813–1964
    マルタの旗  マルタ国(英語版) 1964–1974

    マルタの旗  マルタ共和国 1974–現在

    紀元60年頃[1]、使徒パウロがローマで皇帝の裁判を受けるために護送される途中で嵐に遭い、船が難破して打ち上げられた[2]。なお、マルタ島の北部にパウロと兵士や船員たちが打ち上げられたと言われる「聖パウロ湾」(Saint Paul's Bay)と呼ばれる場所がある。

    870年にアラブ人の侵攻を受け、1127年にノルマン人が占拠するまでイスラム帝国の支配下に置かれた。その後、1479年にスペインの支配下に置かれ、1530年には、1522年にロドス島を追われた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領となった。1565年にマルタ騎士団はオスマン帝国からの攻撃を受けるが(マルタ包囲戦)、およそ4か月で撃退に成功した。現在の首都バレッタは、この時のマルタ騎士団の団長ジャン・ド・ヴァレットの名前にちなんでいる。

    1795年にエジプト遠征途上のナポレオン・ボナパルトによって占領された(フランスのマルタ占領)が、まもなくイギリスが支配したため、フランス軍はエジプトに孤立した。マルタ占領で地中海進出を果たしたイギリスに対し、通商権を侵害されたとしたデンマーク、スウェーデンと、そもそもイギリスの地中海進出に難色を示したロシアはプロイセンと結び、1800年に第二次武装中立同盟を結成する。

    イギリスは、1801年にデンマークの首都コペンハーゲンを攻撃して(コペンハーゲンの海戦, 4月2日)武装中立同盟を解体させる。ナポレオン戦争の終了後、ウィーン会議でイギリスのマルタ領有が確定する。

    地中海を経由してインドに至るルート上に位置するマルタは、イギリスの重要拠点となっていく。第一次世界大戦と第二次世界大戦では、マルタ沖では海戦が度々勃発した。特に第二次世界大戦中にはエジプトへの連合国側の輸送路の途上にあり、またイギリス海軍の拠点として、イタリアと北アフリカとを結ぶ枢軸国側の輸送路を脅かす存在となった。このため、マルタ島は激しい空襲に晒されたが(第二次マルタ包囲戦)、ついに陥落することはなく、連合国軍のシチリアやイタリア本土への上陸作戦の拠点となった。

    戦時下の国民の努力と忍耐を讃え、イギリス国王ジョージ6世は「マルタの国と国民全て」を対象にジョージ十字勲章を授与された。勲章は現在の国旗のデザインとしてあしらわれている。

    戦後、反英抵抗運動、独立闘争では後に第3代大統領となるアガサ・バーバラらが活躍した。1964年9月21日、英連邦王国自治領マルタ国State of Malta / Stat ta' Malta)としてイギリスから独立、エリザベス2世を女王とする人的同君連合となった。さらに1974年12月13日には君主制から共和制に移行し、イギリス連邦加盟のマルタ共和国となった。2004年5月1日に欧州連合(EU) に加盟した。

    ^ 「カラー聖書ガイドブック」(いのちのことば社)P568に、総督ペリクスが解任させられたのが59年とある。その直後、パウロはカイザリアからローマに向けて船出した。 ^ 使徒言行録28章
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