のコンテキスト コスタリカ

コスタリカ共和国
República de Costa Rica
国の標語:なし
国歌:Noble patria tu hermosa bandera(スペイン語)
高貴な故国、美しき旗

コスタリカ共和国(コスタリカきょうわこく、スペイン語: República de Costa Rica)、通称コスタリカは、中央アメリカ南部に位置する共和制国家。北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。首都はサンホセである。国土面積は51,060 km2で、人口は約500万人である。首都であり最大都市であるサンホセには推定333,980人が住んでおり、周辺の都市圏には約200万人が住んでいる。

中央アメリカにおいては数少ない、長年にわたり安定した民主主義政治を維持している国で、高い教育を受けた労働者が多いことでも知られている。教育予算が国家予算に占める割合は、世界平均が4.4%であるのに対し、同国はおよそ6.9%(2016年)である。かつては農業に大きく依存していたが、現在は金融、外資系企業向けサービス、製薬、エコツーリズムなど多角的な経済活動を行っている。コスタリカの自由貿易地域(FTZ)には、多くの外資系製造業や...続きを読む

コスタリカ共和国
República de Costa Rica
国の標語:なし
国歌:Noble patria tu hermosa bandera(スペイン語)
高貴な故国、美しき旗

コスタリカ共和国(コスタリカきょうわこく、スペイン語: República de Costa Rica)、通称コスタリカは、中央アメリカ南部に位置する共和制国家。北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。首都はサンホセである。国土面積は51,060 km2で、人口は約500万人である。首都であり最大都市であるサンホセには推定333,980人が住んでおり、周辺の都市圏には約200万人が住んでいる。

中央アメリカにおいては数少ない、長年にわたり安定した民主主義政治を維持している国で、高い教育を受けた労働者が多いことでも知られている。教育予算が国家予算に占める割合は、世界平均が4.4%であるのに対し、同国はおよそ6.9%(2016年)である。かつては農業に大きく依存していたが、現在は金融、外資系企業向けサービス、製薬、エコツーリズムなど多角的な経済活動を行っている。コスタリカの自由貿易地域(FTZ)には、多くの外資系製造業やサービス業が進出しており、投資や税制上の優遇措置の恩恵を受けている。

コスタリカは16世紀にスペインの支配下に入るまで、先住民が住んでいた。その後、第一次メキシコ帝国の一部として独立し、中央アメリカ連邦共和国の一員となり1847年に正式に独立を宣言するまで帝国の周辺植民地として存続した。1948年の短期間のコスタリカ内戦の後、1949年に恒久的な機関としての陸軍を廃止し、常備軍を持たない数少ない主権国家の1つとなった。

人間開発指数(HDI)では常に良好な成績を収めており、2020年時点で世界第62位、ラテンアメリカ第5位。国連開発計画(UNDP)からも、同じ所得水準の他国よりもはるかに高い人間開発を達成しており、人間開発および不平等については地域の中央値よりも良い記録を持っていると引用されている。また民主主義の状態、報道の自由、主観的幸福度の比較でも良い成績を示している。報道自由度ランキングでは7位、世界の自由度指数では37位、世界幸福度報告では12位の幸福な国である。一方、中南米の多くの国と同様にカトリックの影響が強く、人工妊娠中絶は母親の健康や命を守る以外の場合に認められない国である。

詳細について コスタリカ

基本情報
  • 通貨 コスタリカ・コロン
  • 母国語表記 Costa Rica
  • 呼び出しコード +506
  • インターネットドメイン .cr
  • Mains voltage 120V/60Hz
  • Democracy index 8.16
Population, Area & Driving side
  • 人口 5044197
  • 領域 51100
  • 駆動側 right
履歴
  • 先コロンブス期

    紀元前900年から紀元前300年頃の遺跡が確認されている。メソ・アメリカの一部であり、チブチャ系民族やナウアトル文化の交錯する地帯であった。13世紀までには神官を中心とする階級制社会が築かれていた。その後アステカ帝国に服属し、緩やかな支配を受ける形で中央アメリカと南アメリカの交易の仲介地点となった。また、カリブ人も定住していた。16世紀初め頃には約40万人の先住民が居住していたと推測されている。

    スペイン植民地時代
     
    17世紀末の教会跡(カルタゴ)

    1502年9月18日、クリストファー・コロンブスがリモン湾付近に上陸し、ヨーロッパ人としてはじめてこの地に渡来した。1524年、征服者フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにより、内陸部もスペインの支配下に入った。1538年にパナマ市のアウディエンシアの管轄下に置かれ、1542年にヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だった、グアテマラ総督領の辺境の地として編入された。1564年に中央盆地にカルタゴが建設され、以降独立までコスタリカの政治と経済の中心となった。

    ...続きを読む
    先コロンブス期

    紀元前900年から紀元前300年頃の遺跡が確認されている。メソ・アメリカの一部であり、チブチャ系民族やナウアトル文化の交錯する地帯であった。13世紀までには神官を中心とする階級制社会が築かれていた。その後アステカ帝国に服属し、緩やかな支配を受ける形で中央アメリカと南アメリカの交易の仲介地点となった。また、カリブ人も定住していた。16世紀初め頃には約40万人の先住民が居住していたと推測されている。

    スペイン植民地時代
     
    17世紀末の教会跡(カルタゴ)

    1502年9月18日、クリストファー・コロンブスがリモン湾付近に上陸し、ヨーロッパ人としてはじめてこの地に渡来した。1524年、征服者フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにより、内陸部もスペインの支配下に入った。1538年にパナマ市のアウディエンシアの管轄下に置かれ、1542年にヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だった、グアテマラ総督領の辺境の地として編入された。1564年に中央盆地にカルタゴが建設され、以降独立までコスタリカの政治と経済の中心となった。

    征服の過程での疫病などにより、先住民人口は17世紀初頭には約1万人になり、労働力や金銀等の鉱物資源が足りなかったためにスペイン人入植者の数は少なく、コスタリカはスペイン植民地の最辺境の地として孤立した。カカオ・プランテーションが築かれ、時折海賊の襲撃があったものの、植民地時代に大きな変化はないまま時を過ごすことになる。また、時期は定かではないが、中央アメリカで最も早く19世紀初頭までには確実にコーヒーが持ち込まれていた。

    独立
     
    中米連邦の擁護者 フランシスコ・モラサン。1842年にコスタリカ大統領になり、中米連邦再興のための遠征の準備をしていたところを同年暗殺された。

    1789年にフランス革命が起こり、ヨーロッパの政情が不安定になるとその影響はインディアス植民地にも及んだ。1808年にナポレオンのフランス軍がスペイン本国に進駐、国王フェルナンド7世を退位させ、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世に即位すると、スペインでは反フランス暴動がやがてスペイン独立戦争へと発展し、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。

    その後、各地のクリオーリョ達がラテンアメリカ解放のために立ち上がり、メキシコでミゲル・イダルゴとホセ・マリア・モレーロスらによって、南米大陸でシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン・マルティンらによって解放戦争が続けられ、多くの共和国が独立を果たすと、中米でも1821年9月15日にグアテマラ総監領は中央アメリカ連合州として独立した。この国家は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国により、1822年に他の中米諸国と共に併合された。

    中央アメリカ連邦共和国(1823年 - 1839年)

    しかし、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴ってチアパス州を除く旧グアテマラ総監領の五州は再び中央アメリカ連邦として独立した。コスタリカ州代表だったフアン・モラ・フェルナンデス(スペイン語版、英語版)は連邦への積極的な加盟を勧めたが、この過程の中で、それまでコスタリカの中心だったカルタゴが内戦の末にサン・ホセ軍に敗れたため、以降サン・ホセがコスタリカの中心となった。連邦においてはエル・サルバドル出身のマヌエル・ホセ・アルセ(スペイン語版、英語版)が中米連邦初代大統領となるが、自由主義者のフランシスコ・モラサンをはじめとするエル・サルバドル派と、保守主義者のラファエル・カレーラをはじめとするグアテマラ派の内戦の末に、1838年に諸州が独立を宣言して中米連邦は崩壊した。

    再独立と国民戦争
     
    リバスの戦い(英語版、スペイン語版)で活躍したマクシモ・ブランコ(スペイン語版)将軍

    1839年にこの地もコスタリカ共和国として再独立を果たした。その後1842年にホンジュラス出身の元中米連邦大統領、フランシスコ・モラサンが大統領となり中米連邦再興のためにニカラグア侵攻を企てたが、同年にモラサンは暗殺された。

    1856年、隣国ニカラグアで アメリカ合衆国南部人の傭兵ようへい隊長、ウィリアム・ウォーカーが大統領となった。中米四国はウォーカー排除を決意し、このウォーカーの率いるニカラグア軍との国民戦争(スペイン語版)において、コスタリカ軍は、反ウォーカー派だったイギリス、アメリカのヴァンダービルト財閥などの支援を得て中米連合軍の中で主要な役割を果たした。同年4月にはリバスの戦い(英語版、スペイン語版)でウォーカー軍を打ち破った。なお、この戦争で壮絶な戦死を遂げたムラートの鼓兵、フアン・サンタマリーア(スペイン語版、英語版)は現在も国民的英雄となっている。

    国民戦争後、1870年に自由主義者のトマス・グアルディア(スペイン語版、英語版)将軍がクーデターで政権を握った。グアルディアの主導により、一院制議会と強い大統領権が認められた1871年憲法が制定された。以降1948年までのコスタリカは基本的にこの路線に沿って発展することになり、ラテンアメリカ全体でも特異なコスタリカの民主的な社会が成立する素地となった。

    1882年にグアルディアが死去してからは、自由主義派の流れを継いでベルナルド・ソト(スペイン語版、英語版)の支配が続いたが、1889年にカトリック教会と結んだ保守派のホセ・ロドリゲス(スペイン語版、英語版)に選挙とデモによってソトが敗れ、自由主義政権が終焉しゅうえんを迎えた。

    アメリカ合衆国の進出

    1870年代から始まった自由主義の時代にそれまでと同様に主産業だったコーヒー・プランテーションが拡大され、コーヒーを基盤に経済が発展し、1890年には輸出の80%がコーヒーとなっていた。ただし、コスタリカの土地所有形態は植民地時代からの中小独立自営農民による中規模土地所有が主体であったため、他の中米諸国やブラジルのような大プランテーションは発達しなかった。また、コスタリカは中米で最も早くコーヒー栽培が開始されたため、コスタリカを通してグアテマラ、エルサルバドルにコーヒーの生産技術が伝播することとなった。この時期にブエノスアイレスやカラカスをはじめとする他のラテンアメリカの多くの国の首都がそうなったように、エリートによって首都サン・ホセはパリ風に改造され、カリブ・ヴィクトリア朝を真似た邸宅が建ち並んだ。

    また、内陸部からのコーヒー輸送のためにアメリカ人のマイナー・C・キース(英語版)によって鉄道が建設され、積出し港としてカリブ海側のリモンが発展した。鉄道建設の負債を補うために1871年にパナマ地峡からバナナが導入され、キースはその後、熱帯雨林を切り開いた跡地でのバナナのプランテーション栽培に力を入れた。バナナはそれまでの主産業だったコーヒーを抜いて1905年頃には輸出の60%を占めるに至り、1899年にキースにより設立されたユナイテッド・フルーツ社は中央アメリカの事実上の支配者となった。

    20世紀に入ってもコスタリカはバナナとコーヒーのモノカルチャー経済の下で発展が続いたが、第一次世界大戦による輸出収入減により、1916年に所得税が導入されると、1917年にフェデリコ・ティノコ・グラナードス(スペイン語版、英語版)将軍がクーデターを起こすが、アメリカの圧力により1919年に独裁制は崩壊した。

    1921年にはアメリカの支持の下、隣国パナマとコト戦争を起こし、パナマから領土を得た。

    1929年の世界恐慌はコスタリカのモノカルチャー経済に大打撃を与え、コーヒー価格の低落のために社会が不安定化した。1936年の大統領選挙では国民共和党(PRN)からファシズムに傾倒したレオン・コルテスが大統領になった。

    なお、1935年に堀義貴初代駐コスタリカ日本公使が着任し、日本との間で正式に外交関係が成立した[1]。

    1940年に行われた大統領選挙では社会民主主義のカルデロン・グアルディア(スペイン語版、英語版)政権が誕生し、グアルディア政権は内政では労働法の制定(1940年)や、社会保障の制度化、コスタリカ国立大学の創設など労働者や中間層よりの政策を進める一方で、外交では1941年の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発すると、合衆国に先駆けて枢軸国に宣戦布告し、敵性国民となったドイツ系地主の資産が接収された。

    1944年の大統領選挙ではテオドロ・ピカード・ムチャイスキ(スペイン語版、英語版)が大統領に就任した。

    1948年の大統領選挙は与党のカルデロンと野党のオティリオ・ウラテ(スペイン語版、英語版)の一騎討ちとなり、開票の結果ウラテの勝利が確定したが、与党はこの選挙結果を無効とした。こうした中で、グアテマラ大統領フアン・ホセ・アレバロの支援を受けた野党のホセ・フィゲーレス・フェレールによる反乱への準備が進んでいった。

    1948年内戦と常備軍の廃止以降
     
    中米紛争解決に尽力したオスカル・アリアス・サンチェス大統領

    1948年の大統領選挙の結果が不正であることが明らかになると、野党のホセ・フィゲーレス・フェレールが反乱を起こし、コスタリカ内戦(英語版)が勃発した。6週間の内戦の後にフィゲーレスは政府軍を破って勝利した。

    翌年、1949年憲法(英語版)が施行されるとカルデロン前大統領派が多数を占めていた常備軍は廃止され(第12条 常設的機関としての軍隊は禁止する。)、それまで軍の担っていた役割は警察に移管された。フィゲーレスは民兵や予備役兵を組織し、反攻を防いだ。また、女性や黒人の政治参加も認められた。この常備軍廃止により、コスタリカは以降他のラテンアメリカ諸国で繰り広げられたような軍事クーデターは起こらなくなった。1953年の大統領選挙ではフィゲーレスの国民解放党(PLN)が勝利し、フィゲーレス政権は「兵士の数だけ教師を」を合言葉に、軍事予算を教育予算に回し教育国家に転換した。

    1955年1月、元コスタリカ大統領だったテオドロ・ピカード・ムチャイスキ(スペイン語版、英語版)の息子、ピカード2世が再びソモサに支援された傭兵軍(その中には軍服を脱いだニカラグア国家警備隊の隊員もいた)と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカード2世軍はいくつかの都市を攻略したものの、コスタリカ武装警察の反撃と、OASの仲介により同年2月に停戦し、侵攻軍は武装解除した。

    このようにして国難を乗り越えると、1949年憲法による政治の安定が国家の成長を助け、コスタリカ経済はこの時期に伝統的なバナナ、コーヒーの輸出に加えて、外資による工業化をも達成することになった。1960年に中米共同市場が発足すると、コスタリカは中米四国に遅れて1962年にこれに加盟した。1965年4月にドミニカ共和国で内戦が起き、リンドン・ジョンソン大統領が反共を掲げてアメリカ海兵隊を主体とした軍をドミニカに派遣すると、コスタリカもブラジル軍を主体としたドミニカ占領軍に警備隊を派遣した。

    国家としては反共でありながらもこのような事情からニカラグアのソモサ王朝を嫌っていたコスタリカ人は、1978年にサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が全面蜂起するとこれを全面的に支援し、ニカラグア革命を支えた。その後サンディニスタ内での路線対立によりFSLNの司令官だったエデン・パストラが亡命すると、パストラを司令官にしてコントラの一派民主革命同盟(ARDE)が組織され、コスタリカはアメリカによる対ニカラグア作戦の基地となり、中立原則も一時揺らいだ。1983年にはルイス・アルベルト・モンへ(英語版)大統領が「コスタリカの永世的、積極的、非武装的中立に関する大統領宣言」を行っている。

    ところが、1986年にモンヘ大統領を破り就任したアリアス大統領はアメリカの対ニカラグア強硬政策に追随することを良しとせず、アリアス大統領によって国内のARDEの基地は撤去され、さらに中米紛争そのものの解決のためにも尽力した。この中米和平実現のための努力に対して、アリアスには1987年ノーベル平和賞が与えられた。

    1990年の大統領選挙によって、中道右派のキリスト教社会連合党(PUSC)からラファエル・アンヘル・カルデロン・フルニエルが大統領に就任した。

    1994年の大統領選挙によって、中道左派の野党国民解放党(PLN)からホセ・フィゲーレス・フェレールの息子ホセ・マリア・フィゲーレス(スペイン語版、英語版)が大統領に就任した。

    1998年2月の大統領選挙によって、PUSCのミゲル・アンヘル・ロドリゲスが大統領に就任したが、ロドリゲス大統領はメキシコの実業家カルロス・ハンク・ゴンサレスからの不正献金を受け取っていたことが1999年にスキャンダルとなった。2001年の9.11テロ後は、アメリカのアフガニスタン攻撃を支持した[2]。

    2002年の大統領選挙によって、PUSCからアペル・パチェーコが大統領に就任した。パチェーコ大統領は、アフガニスタン攻撃に続いて2003年3月のイラク戦争開始に当たってアメリカのブッシュ政権を支持する声明に署名した。これは常備軍を廃止した同国の平和憲法の精神や国際法に違反していると、当時コスタリカ大学の学生が最高裁憲法法廷に提訴した。翌2004年12月に最高裁が大統領の声明を無効とし、支援国のリストから外れるように命じた。しかし政府は支援を停止することはしなかった[2]。また、同年カルデロンとロドリゲスの二人の元大統領が汚職によって逮捕された。

    2006年からは再任した(連続再任ではない)アリアス大統領が大統領職を務めた。

    2010年2月7日、大統領選挙が行われ国民解放党(PLN)のラウラ・チンチージャ前副大統領が大差で当選しコスタリカで初の女性大統領となった。なお2位は市民行動党(PAC)のソリス候補、3位は自由主義運動(ML)のゲバラ候補と続いている[3]。

    ^ 「堀義貴公使の中米5ヶ国着任(1935年)」外務省 ^ a b 山岡加奈子 2010, pp. 27. ^ “中米コスタリカで初の女性大統領、与党のチンチジャ氏勝利”. AFP. (2010年2月8日). https://www.afpbb.com/articles/-/2692193?pid=5291967 2011年2月15日閲覧。 
    もっと読む

会話帳

こんにちは
Hola
世界
Mundo
こんにちは世界
Hola Mundo
ありがとうございました
Gracias
さようなら
Adiós
はい
いいえ
No
元気ですか?
¿Cómo estás?
よし、ありがとう
Bien, gracias
いくらですか?
¿Cuánto cuesta?
ゼロ
Cero
1
Una

どこの近くで寝れますか コスタリカ ?

Booking.com
489.159 総訪問数, 9.196 興味がある点, 404 保存先, 65 今日の訪問.