のコンテキスト カッパドキア

カッパドキア(ラテン語: Cappadocia)はトルコの中央アナトリアの歴史的地域、あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。

古代の地理においてCappadocia(「美しい馬の地」を意味するペルシア語: Katpatuk‎に由来、トルコ語: Kapadokya, ギリシア語: Καππαδοκία)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウロス山脈から黒海)までの全域をなしていた。この意味でのカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。だが、その境界を正確に定義することは不可能である。その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。

詳細について カッパドキア

履歴
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    熱気球から観たカッパドキアの奇観

    カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。

    ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退によって、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態においた、一種の封建貴族の軍政に委ねられた。これは後に、彼らをして、外国の奴隷制度に適した者とした。

    カッパドキアはアケメネス朝のダレイオス1世によって設置された区画の中で第3サトラペイアに含まれた。しかし、誰もその地方全体に対して明確に至上な存在ではなく、ペルシア王に対してほぼ完全に従属した地元の支配者たちによる統治が長く続いた。

    紀元前4世紀中頃にはサトラップのダタメスによって徹底的に抑えられた。後に彼はペルシア王に反旗を翻したものの、敗死した。カッパドキアは、一人の統治者アリアラテス1世のもとで独立を回復した。彼はアレクサンドロス3世と同時代の人であり、アケメネス朝が滅びた後も、カッパドキアの王位を維持した。

    この地域にアレクサンドロスが訪れることはなかった。彼は、小アジアから出発する前にアリアラテスによってなされた彼の統治権への従属的承認で満足した。そして、土着王朝の継続はアレクサンドロスの死後の短い期間のみ中断された。なぜならその時、帝国の全体的な分割の中で、王国はアリアラテスの許可を得ることなくエウメネスのものとなったからだ。彼の権利は、アリアラテスを磔刑にした摂政のペルディッカスによって紀元前322年に履行された。しかしエウメネスの死をもたらした紛争の中で、アリアラテスの息子は遺産を回復し、それを後継者の血統に残した。

    アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは共和政ローマとの関係を持つにいたった。最初はセレウコス朝のアンティオコス3世の主張を支持し敵対者として、それからマケドニア(アンティゴノス朝)王ペルセウスに対抗する同盟者としてである。

    王たちはこれ以後、それまで折々に従属してきたセレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟した。アリアラテス5世はローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス(en)とともにアッタロス朝(ペルガモン王国)の王位主張者アリストニコス(エウメネス3世に対して軍を進めたが、彼らの軍は殲滅された(紀元前130年)。彼の死後の混乱は最後には、勃興するポントス王国の介入と王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招いた。

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    熱気球から観たカッパドキアの奇観

    カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。

    ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退によって、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態においた、一種の封建貴族の軍政に委ねられた。これは後に、彼らをして、外国の奴隷制度に適した者とした。

    カッパドキアはアケメネス朝のダレイオス1世によって設置された区画の中で第3サトラペイアに含まれた。しかし、誰もその地方全体に対して明確に至上な存在ではなく、ペルシア王に対してほぼ完全に従属した地元の支配者たちによる統治が長く続いた。

    紀元前4世紀中頃にはサトラップのダタメスによって徹底的に抑えられた。後に彼はペルシア王に反旗を翻したものの、敗死した。カッパドキアは、一人の統治者アリアラテス1世のもとで独立を回復した。彼はアレクサンドロス3世と同時代の人であり、アケメネス朝が滅びた後も、カッパドキアの王位を維持した。

    この地域にアレクサンドロスが訪れることはなかった。彼は、小アジアから出発する前にアリアラテスによってなされた彼の統治権への従属的承認で満足した。そして、土着王朝の継続はアレクサンドロスの死後の短い期間のみ中断された。なぜならその時、帝国の全体的な分割の中で、王国はアリアラテスの許可を得ることなくエウメネスのものとなったからだ。彼の権利は、アリアラテスを磔刑にした摂政のペルディッカスによって紀元前322年に履行された。しかしエウメネスの死をもたらした紛争の中で、アリアラテスの息子は遺産を回復し、それを後継者の血統に残した。

    アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは共和政ローマとの関係を持つにいたった。最初はセレウコス朝のアンティオコス3世の主張を支持し敵対者として、それからマケドニア(アンティゴノス朝)王ペルセウスに対抗する同盟者としてである。

    王たちはこれ以後、それまで折々に従属してきたセレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟した。アリアラテス5世はローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス(en)とともにアッタロス朝(ペルガモン王国)の王位主張者アリストニコス(エウメネス3世に対して軍を進めたが、彼らの軍は殲滅された(紀元前130年)。彼の死後の混乱は最後には、勃興するポントス王国の介入と王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招いた。

     
    カッパドキア属州の位置

    カッパドキア人は、ポントス王ミトリダテス6世に対してローマの支援を受けつつ、地元の後継領主にアリオバルザネス1世を選任した(紀元前93年)が、第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、彼の支配は確立されなかった。

    ローマの内戦中には、カッパドキアはグナエウス・ポンペイウスに組し、次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従い、そして彼に対抗した。アリオバルザネス王朝は終わりを迎え、その代わりにアルケラオスという人物が、始めはアントニウスの、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援によって統治した。この従属的独立は紀元17年まで維持されたが、ティベリウス帝の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはついにローマの属州となった。

    カッパドキア属州は州都をカエサレア(現:カイセリ)に置き、1世紀の後半にはポントゥスやアルメニア・インフェリオルの領域の一部も併せられた。ローマ帝国にとって最北東の属州であり、2個軍団といくつかのアウクシリアが常駐した。

    284年に皇帝となったディオクレティアヌスは東方属州の再編を行い、カッパドキア属州は元々の属州面積に戻された。330年、カッパドキア属州の東半分がアルメニアに新たに設置された属州へ合併させるため分離された。371年、ウァレンス帝はさらにカッパドキア属州の南西部をカッパドキア・セクンダ(Cappadocia Secunda)として分離させ、残った北東部はカッパドキア・プリマ(Cappadocia Prima)と名付けられた。

     
    アナトリア半島のテマ制(650年)

    カッパドキアはいくつかの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用された。4世紀のカッパドキアの神父たちは、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在であった。

    ローマ帝国が分裂するとカッパドキアは東ローマ帝国に属した。535年にユスティニアヌス1世はプリマとセクンダの2つの属州を再び統一のカッパドキア属州として統合した。その後、イサウリア人による襲撃を受け、7世紀前半までにカッパドキア属州はサーサーン朝の支配下へ入ったが、サーサーン朝がイスラム勢力によって滅ぼされると、カッパドキアは東ローマ帝国の領土に再び組み入れられて、アナトリコン(Anatolikon)とアルメニアコン(Armeniakon)の2つのテマ制に再編された。

    1071年のマラズギルトの戦いで東ローマ帝国を破ったセルジューク朝がカッパドキアを支配。セルジューク朝の崩壊後、一時期はKaramanoğluが支配したが、15世紀までにオスマン朝がカッパドキアを領有し、現在はトルコ共和国の領土内にある。

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