のコンテキスト カザフスタン

カザフスタン共和国
Қазақстан Республикасы(カザフ語)
Республика Казахстан(ロシア語)
国の標語:なし
国歌:Менің Қазақстаным(カザフ語)
我がカザフスタン

カザフスタン共和国(カザフスタンきょうわこく、カザフ語: Қазақстан Республикасы、 قازاقستان رەسپۋبلىيكاسى)、通称カザフスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。西と北でロシア、東で中華人民共和国(中国)、南でキルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接する国家で、南西は世界最大の湖カスピ海に面している。首都はアスタナ(2019年から2022年までは初代大統領のヌルスルタン・ナザルバエフのファーストネームにちなんだ「ヌルスルタン」に名称変更)で、1997年に国内最大の都市アルマトイから遷都した。

詳細について カザフスタン

基本情報
  • 通貨 テンゲ
  • 呼び出しコード +7
  • インターネットドメイン .kz
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 3.14
Population, Area & Driving side
  • 人口 19002586
  • 領域 2724900
  • 駆動側 right
履歴
  • イッセドネス人、アリマスポイ人

    古代ギリシアのヘロドトスやアリステアス(英語版)らによる歴史書では、伝承ではあるものの、カザフ草原にイッセドネス人やアリマスポイ(英語版)人(一眼族)といった諸族がいたことを記録している。イッセドネス人は故人の肉を食す民族であり、アリマスポイ人は一つ目の民族であるという。アリマスポイ人は絶えず近隣の民族を攻撃しており、そのため西隣のイッセドネス人は西へ移動し、その西にいたスキュタイ人は西へ移動し、さらに西(南ロシア草原)にいたキンメリア人を追い出すこととなった[1]。

    スキュタイ、マッサゲタイ

    古代ギリシアのヘロドトスによる『歴史』によれば、元々はアジアの遊牧民であったスキュタイがマッサゲタイに追われてアラクセス河を渡河し、当時のキンメリア地方(現在の南ウクライナ)に移ったという。アケメネス朝のキュロス2世がヤクサルテス川を越えて中央アジア征服に及んだ際、マッサゲタイの女王トミュリスに殺され、征服は失敗に終わったとされているが、この記述はキュロス2世の死後から大分経ってから書かれた記録であること、トリュミスの名がここでしか書かれてないことから反ペルシアであるヘロドトスの創作の可能性の方が高い(古代ギリシアはペルシア戦争でアケメネス朝の侵略を受けた)。

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    イッセドネス人、アリマスポイ人

    古代ギリシアのヘロドトスやアリステアス(英語版)らによる歴史書では、伝承ではあるものの、カザフ草原にイッセドネス人やアリマスポイ(英語版)人(一眼族)といった諸族がいたことを記録している。イッセドネス人は故人の肉を食す民族であり、アリマスポイ人は一つ目の民族であるという。アリマスポイ人は絶えず近隣の民族を攻撃しており、そのため西隣のイッセドネス人は西へ移動し、その西にいたスキュタイ人は西へ移動し、さらに西(南ロシア草原)にいたキンメリア人を追い出すこととなった[1]。

    スキュタイ、マッサゲタイ

    古代ギリシアのヘロドトスによる『歴史』によれば、元々はアジアの遊牧民であったスキュタイがマッサゲタイに追われてアラクセス河を渡河し、当時のキンメリア地方(現在の南ウクライナ)に移ったという。アケメネス朝のキュロス2世がヤクサルテス川を越えて中央アジア征服に及んだ際、マッサゲタイの女王トミュリスに殺され、征服は失敗に終わったとされているが、この記述はキュロス2世の死後から大分経ってから書かれた記録であること、トリュミスの名がここでしか書かれてないことから反ペルシアであるヘロドトスの創作の可能性の方が高い(古代ギリシアはペルシア戦争でアケメネス朝の侵略を受けた)。

    サカイ、ソグディアノイ

    古代ローマの地理書にはサカイ、ソグディアノイといった民族が記されている。サカイはスキュタイと同じ遊牧民族であり、ペルシアの史料ではサカと呼ばれ、アケメネス朝の属民であった。アレクサンドロス大王の侵入時もその存在が確認でき、ヤクサルテス川(シル・ダリヤ)を挟んで対峙した。ソグディアノイはのちにシルクロード交易の担い手となるソグド人として有名であるが、このころはアケメネス朝やアレクサンドロスの属民として歴史に登場する[2]。

    康居、奄蔡

    紀元前2世紀から4世紀にわたり、中国の歴史書には康居や奄蔡といった遊牧民族が記されている。康居ははじめ、東の匈奴、南の大月氏といった強国に臣従していたが、1世紀になると、栗弋国、厳国、阿蘭聊国といった諸国を支配下に入れるほど強盛する。奄蔡は西方史料のいうアオルソイに比定されたり、のちに阿蘭と改名したことからアランに比定されたりするが、記録が少なく、康居と同族であること以外わかっていない[3]。

    悦般、エフタル

    悦般はモンゴル高原から追われた北匈奴が行き着いた地で建てた国であり、その場所は康居の北にあったとされる。言語・習俗は高車と同じであり、周辺民族の中でも清潔であったという[4]。

    この悦般がのちのエフタルであるとする説もある[5]。エフタルはその出自が不明で、アルタイ山脈から南下してきたとも、バダフシャンにいたとも言われている[6]。エフタルはインドではフーナ(hūna)と呼ばれ、ペルシアではヘプタル(heptal)、中国では嚈噠・挹怛とも呼ばれ、中央アジアにあってその周辺国に侵入し、戦争を行った。

    西突厥

    6世紀、エフタルの国家は突厥とサーサーン朝の挟撃に遭って滅ぼされ、中央アジア全土は突厥の領土となった。突厥は582年に東西に分離し、カザフ草原は西突厥が支配することとなる。西突厥は内紛が相次ぎ、一時は唐の支配下に入ってともにアラブ・イスラーム勢力と戦うも、741年には王族である阿史那氏が滅び、その帝国はそれぞれの部族に分散してしまう。9世紀から12世紀にかけては西突厥の構成民族であった突騎施(テュルギシュ)、カルルク、オグズ、キマク、キプチャク、カンクリ、ハザール、ペチェネグなどが割拠した。

    カラハン朝、カラ・キタイ

    カラハン朝はテュルク系初のイスラーム王朝であり、その母体はウイグルともカルルクとも言われている[7]。東西の文化が融合したことで文化面では大いに発展し、「カラハン朝トルコ語(トルコ語版)」と呼ばれるアラビア文字を使って記されるテュルク語の文語が生まれた。ユースフ・ハーッス・ハージブの韻文作品『クタドゥグ・ビリグ(幸福になるための智恵)』や、マフムード・アル・カーシュガリーのテュルク諸語の語彙を集めた辞典『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク(トルコ語版)(テュルク諸語集成)』が登場し、テュルク・イスラム文化の先駆けとなった[8]。カラハン朝は1041年に東西に分裂し、12世紀初頭には耶律大石率いる契丹軍によって征服され、カラ・キタイ(西遼)の属国となった。

    モンゴル帝国

    カザフの西の大部分はテュルク系のキプチャクの領土であり、東の大部分はカラ・キタイの領土であった。カラ・キタイは1211年にナイマンのクチュルクによって乗っ取られるが、まもなく東の遊牧民族を統一したチンギス・カンのモンゴル帝国軍によって征服され、1224年にはキプチャクもスブタイ率いるモンゴル軍によって征服される。

    モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイが没すると、1242年にバトゥはヴォルガ川下流のサライに都を置いて、 キプチャク草原を中心とする自立政権ジョチ・ウルスを築いた。ジョチ・ウルスは内部では「右翼=バトゥ・ウルス=白帳ハン国」と「左翼=オルダ・ウルス=青帳ハン国」に分かれており、オルダ・ウルスはイルティシュ川上流域〜シル川下流域という後のカザフスタンに近い領域を支配していた。

    カザフ・ハン国
     
    アブライ・ハーンの切手
    カザフスタン、2001年、Michel 317)
     
    ペトロパブル近郊のロシア人入植者

    15世紀末、ジョチ・ウルスの東部(現在のカザフ草原)において、ウズベクと呼ばれる遊牧集団からアブルハイル・ハンが頭角を現し、ウズベク・ハン国を建国させる。一方でケレイとジャニベクの2人によって率いられた青帳ハン国の残党(=後のカザフ)がウズベク・ハン国より分離する。アブルハイル・ハンの死後、カザフの集団は分裂状態に陥ったウズベクの集団を吸収し、カザフ・ハン国を形成、アブルハイル・ハンの孫にあたるムハンマド・シャイバーニー・ハンによって率いられたシャイバーニー朝と対立する。カザフ・ハン国はカーシム・ハン(在位:1511年 - 1518年)の時代に強盛となり、対外戦争を行い、周辺国から恐れられた。

    18世紀になると、カザフ・ハン国は政治的統一を失い、東部の大ジュズ(Ұлы жүз)、中部の中ジュズ(Орта жүз)、西部の小ジュズ(Кіші жүз)という3つの部族連合体に分かれて草原に居住するようになる。

    18世紀初頭、ジュンガルが襲来したため(アクタバン・シュブルンドゥ)、1730年代から1740年代に小ジュズと中ジュズはロシア帝国に服属を表明し、その傘下に入った。1820年代になると、カザフのハンは権威を喪失しており、ロシア帝国による直接統治を受け入れていた。同じ頃、残る大ジュズもロシア帝国の統治を受け入れる。こうしてロシア帝国に組み込まれたカザフ草原は、アクモリンスク州、セミパラチンスク州、セミレチエ州、ウラリスク州、トルガイ州、シルダリア州の6州に区分され、その東半分は1891年にステップ総督府の管轄下に置かれた(セミレチエ州は1897年にトルキスタン総督府へ移管)。

    カザフ・ソビエト社会主義共和国

    ロシア革命では、北部は白軍の支配下に入りアラシュ自治国(1917年 - 1920年)、1920年に南部は赤軍の支配下に入りソビエト連邦の構成下においてキルギス自治ソビエト社会主義共和国(英語版)が誕生(首都はオレンブルク)、1925年にはカザフ自治ソビエト社会主義共和国(1925年 - 1936年)が樹立された(1929年に首都がアルマトイになる)。

    1936年12月5日、ソ連崩壊まで続くソビエト連邦構成国カザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格した。第二次世界大戦後、領内にはセミパラチンスク核実験場と、ソビエト連邦の宇宙開発の中心となるバイコヌール宇宙基地が作られた。

    カザフスタン共和国

    ソビエト連邦崩壊直前の1991年12月16日、「カザフスタン共和国」として独立し、1991年12月21日に独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    2006年2月、野党「アク・ジョル」の共同議長アルティンベク・サルセンバエフは運転手とともに、アルマトイで射殺体で発見された。カザフスタン国家保安委員会の5人のメンバーが、サルセンバエフの殺害に関わっているとして逮捕された。バウルツァン・ムハメドツァノフ内務大臣によると、犯人は1人あたり2万5,000ドルを受け取っているという。警察官1人も殺人に関わったとして逮捕されている。カザフスタンでは、反対派のアルマトイ前市長のザマンベック・ヌルカディロフも射殺体で発見されている。

    2007年8月18日の議会選挙では、与党「ヌル・オタン」が比例代表制による全98議席を獲得、その他9議席を大統領の諮問機関であるカザフスタン民族会議(英語版、カザフ語版、ロシア語版)が指名するため、与党が107議席を全て独占することとなった。5月には憲法改正が行われており、改正によって初代大統領ヌルスルタン・ナザルバエフに限り、3選禁止の規定が除外された。

    2019年3月、ナザルバエフは5期目(2015年〜2020年)途中で辞任を表明し、元老院(上院)議長のカシムジョマルト・トカエフが第2代大統領に就任した。

    2022年1月、燃料価格が2倍に値上がりしたことに抗議する住民らの反政府デモが国内各地の都市で発生して多数の死傷者を出し、デモの沈静化策として国家安全保障会議議長として強大な権力を握っていたナザルバエフが解任され、30年あまりにもわたって続いたナザルバエフ体制は完全に終焉を迎えた[9]。

    ^ (ヘロドトス『歴史』巻4-13 ^ ストラボン『地理誌』、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』 ^ 『史記』(大宛列伝)、『漢書』(西域伝)、『後漢書』(西域伝)、『三国志』(裴注『魏略』西戎伝) ^ 『魏書』(列伝第九十 西域)、『北史』(列伝第八十五 西域) ^ 松田壽男『古代天山歴史地理学研究』 ^ 岩村 2007,p118 ^ 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』 ^ 小松 2005,p166-167 ^ “カザフスタン大統領、治安部隊に「無警告の発砲」を許可 秩序ほぼ回復と声明”. BBC. 2022年4月7日閲覧。
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