のコンテキスト ガリシア州

ガリシア州(ガリシアしゅう、Galicia、あるいはGaliza)は、スペインの自治州の1つである。スペイン北西に位置し、南はポルトガル、東はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州に接し、北と西は1490キロメートルの海岸で大西洋とカンタブリア海に面する。州都はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。自治州政府はシュンタ・デ・ガリシア(Xunta de Galicia)。

詳細について ガリシア州

基本情報
  • 母国語表記 Galicia
  • インターネットドメイン .gal
Population, Area & Driving side
  • 人口 2695645
  • 領域 29574
履歴
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    出典検索?: "ガリシア州" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
    2017年1月
     
    鉄器時代の家を発展させたガルシアの東にあるen:Palloza

    トリアカステーラにある Eirós Cave からは、ネアンデルタール石器物や動物の遺骸が見つかっており、古くから人の居住があったことが判ってる。この海の沿岸周辺には新石器時代頃の巨石記念物が残されており、巨石文明があったことが示されている[1]。

    ガリシアの名は古代ローマの属州ガラエキア(現在のスペイン西部とポルトガル北部)から来ている[2]。そのガラエキアの起源はギリシア語の「カライコイ」(Kallaikói、καλλαικoι、ヘロドトスが記述を残す)から来ており、古代にドウロ川(カスティーリャ語でドゥエロ川)以北に住んでいたケルト系の民族を指していた。この地域で話されているガリシア語は俗ラテン語(口語ラテン語)を起源とするロマンス諸語の一つであり、この地でのケルト語はすでに滅んでいる。キリスト教は、ローマ時代末期に様々なルートを辿ってガリシアへ伝来した。

    5世紀から6世紀にかけては、スエビ王国(ガリシア王国)の中心地であったが、584年に西ゴート王レオヴィギルドに征服された。この時代に、ガリシア北部ブリトニア(es:Britonia)にブリトン人移民による司教座ができた。このブリトン人たちは、アングロ=サクソン人のグレートブリテン島侵攻から逃れてやってきた人々である。8世紀にイスラム教徒に征服されたものの、実効支配は及ばないまま739年にアストゥリアス王国のアルフォンソ1世(ガリシア語ではアフォンソ1世、Afonso I)に奪い返された。以降レオン王国の一部となり、カスティーリャ王国に受け継がれた。1065年、フェルナンド1世の死後に領土が分割され、ガリシアは一時的に別の王国となったが、すぐにアルフォンソ6世に統合された。

    9世紀から、サンティアゴ・デ・コンポステーラでサンティアゴの聖遺物が発見されサンティアゴ信仰が盛んになり、レコンキスタ運動の中でのキリスト教徒の象徴となった。中世以後、サンティアゴ・デ・コンポステーラへは巡礼路を巡ってヨーロッパ中からキリスト教徒が巡礼するようになった。人々の往来は、この地方へのロマネスク美術の伝播、吟遊詩人の詩や音楽が伝えられるなど、文化的な交流をもたらした。9世紀から10世紀にかけて、沿岸部をヴァイキングやノルマン人が荒らしまわり、現在もカトイラ(ポンテベドラ県)には防衛用の塔が残る。

    13世紀、アルフォンソ10世はカスティーリャ語を国家の言語と定め、宮廷や政治の場で使用させたが、文学の言語としてはガリシア語を使用した。カスティーリャ優位の中央集権体制が進むにつれ、ガリシア語は徐々に衰退していった。おおまかに16世紀から18世紀半ばまでの時期は、ガリシア語のセクロス・エスクーロス(Séculos Escuros、暗黒時代)と呼ばれ、ガリシア語が書き言葉として使われる伝統は途絶えてしまったが、口語として途絶えることはなかった。

    1833年それまであった7県(ラ・コルーニャ、サンティアーゴ、ベタンソス、モンドニェード、ルーゴ、オレンセ、トゥイ)が現行の4県に再編され、現在にいたっている。19世紀にガリシア民族主義、連邦主義が勃興する。しかし1846年、自由主義者の将軍ミゲル・ソリスが起こしたクーデターは、ラモン・マリア・ナルバエス政権によって弾圧された。替わって盛り上がりを見せたのは社会的・文化的手段としてのガリシア語復興運動(レシュルディメント)であった。作家ロサリーア・デ・カストロ、マヌエル・ムルギア、エドゥアルド・ポンダルらがその代表者である。

    20世紀の独裁者フランシスコ・フランコはガリシア地方フェロルの出身であったが、フランコ時代にはガリシアの自治は廃止され、公でのガリシア語の使用は禁止された。1978年のスペイン新憲法によって自治州制度が導入され、1980年12月20日ガリシア自治憲章(ガリシア語版)が住民投票によって可決成立、ガリシア自治州が創設された。

    ^ Antonio de la Peña Santos, Los orígenes del asentamiento humano Archived 24 May 2013 at the Wayback Machine., (chapters 1 and 2 of the book Historia de Pontevedra A Coruña:Editorial Vía Láctea, 1996. p. 23. ^ 桑原真夫「ガリシアという異郷」/ 坂東省次・桑原真夫・湯浅武和編著『スペインのガリシアを知るための50章』明石書店 2012年 19ページ
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