のコンテキスト イスタンブール

イスタンブール(トルコ語: İstanbul [isˈtanbuɫ] ( 音声ファイル)、英語: Istanbul [ˌɪstænˈbuːl]、ラテン語: Constantinopolis コンスタンティーノポリス、ギリシア語: Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολη コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。ヨーロッパ有数の世界都市。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。

詳細について イスタンブール

基本情報
  • 母国語表記 İstanbul
Population, Area & Driving side
  • 人口 14804116
  • 領域 5343
履歴
  • A stout cylindrical column in a courtyard in front of palatial arches of Islamic style ビザンティオンのアクロポリスで発見された今でも残っているビザンティオンの円柱。現在はトプカプ宮殿の敷地にある。

    21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブールの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示している[1]。 遺物の発見以前はフリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えである[2]。アジア側の遺物は紀元前4000年に遡る物とされ、カディキョイ地区のフィキルテペ Fikirtepe で発見されている[3]。同じ場所は紀元前1000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町があった[注釈 1]。

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    A stout cylindrical column in a courtyard in front of palatial arches of Islamic style ビザンティオンのアクロポリスで発見された今でも残っているビザンティオンの円柱。現在はトプカプ宮殿の敷地にある。

    21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブールの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示している[1]。 遺物の発見以前はフリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えである[2]。アジア側の遺物は紀元前4000年に遡る物とされ、カディキョイ地区のフィキルテペ Fikirtepe で発見されている[3]。同じ場所は紀元前1000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町があった[注釈 1]。

    しかしながら、イスタンブールの歴史は一般的に紀元前660年頃[注釈 1]にビザス(英語版)王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡る。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地であった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えた[4]。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験するが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻している[5]。都市の開祖はギリシア神話の海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子ビザス(英語版)であり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した「ビュザンティオン」を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われる[6]。ビザンティオンは デロス同盟とその後の第二アテナイ連合(英語版)の一部であったが、紀元前355年についには独立を得ている[7]。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となった[8]。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者 (en) ペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させた。195年に降伏している[9]。

    それにもかかわらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回った[10]。

    コンスタンティノープルの興亡  東ローマ帝国時代のヴァレンス水道橋 1422年に作られた現存する最古のコンスタンティノープルの地図

    コンスタンティヌス1世は324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になった[11]。コンスタンティヌスは2ヶ月後に新しいキリスト教の都市にビザンティオンを置き換えるための都市計画を打ち出した。帝国の東の首都として都市は新ローマを意味するネア・ローマNea Roma と名付けられたが、一番単純なコンスタンティノープルの名称が20世紀まで続いた[12]。6年後の330年5月11日にコンスタンティノープルはついにビザンティン帝国や東ローマ帝国の名称で知られる帝国の首都として宣言された[13]。

    この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世はトロイに遷都しようと考えていたが夢で神の啓示を受けて変更した、カルケドンを予定し建設工事に取り掛かったが鷲が道具を咥えてビュザンティオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたという[14]。また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示したが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたという[14]。

    コンスタンティノープルの創建はコンスタンティヌスの最も永続的な成果として、ローマの力の東進や街をギリシャ文化やキリスト教の中心にしたことにある[13][15]。多くの教会が街中に建てられ、その中にはアヤソフィアも含まれ、1000年の間世界最大の大聖堂であり続けた[16]。 コンスタンティヌスにより着手された他の街の改良にはコンスタンティノープル競馬場の大改修や拡張が含まれ、何万もの観衆を収容し競馬場は市民生活の中心となり、5世紀や6世紀にはニカの乱を含め社会不安の出来事の中心であった[17][18]。

    コンスタンティノープルの位置はまたその存在が時の試練に耐えることを確実とした。多くの世紀、城壁や海岸により東やイスラムの進軍する侵略者からヨーロッパを守っていた[15]。中世の大部分の間とビザンティン時代の後半、コンスタンティノープルはヨーロッパ大陸最大で最も裕福な都市で、当時の世界最大の都市であった[19][20]。 第4回十字軍の後、コンスタンティノープルの衰退が始まり第4回十字軍の間に略奪や占領があった[21]。コンスタンティノープルは後に正教会のビザンティン帝国を置き換えるために、カトリックの十字軍によって作られたラテン帝国の中心となった[22]。しかしながら、ラテン帝国は短命でビザンティン帝国は弱体化しながらも1261年に復活した[23]。コンスタンティノープルの教会や防衛力、基本的な公益事業は荒廃しており[24]、人口は8世紀の50万人から10万人へ減少していた[注釈 2]。

    アンドロニコス2世によって始められた様々な経済や軍事力の削減などの軍事の政策は、帝国を弱体化させ攻撃に対してより脆弱なままにした[25]。

    14世紀半ばオスマン朝 (en) は小さな町や都市を攻略し、コンスタンティノープルへの供給路を断ちゆっくりと締め付ける戦略を始めた[26]。1453年5月29日に8週間にわたる包囲の後、ついにスルターンのメフメト2世はコンスタンティノープルの陥落[27]の勝者になりオスマン帝国の新しい首都として宣言された。この間、ビザンティン帝国最後の皇帝であったコンスタンティノス11世パレオロゴスは殺されている。その後、スルターンはアヤソフィアへ赴きイマームにシャハーダを命じ、壮大な大聖堂は帝国のモスクへと変わった[28]。(トルコやイスラム世界では「イスタンブールの開拓」または「イスタンブールの征服」İstanbul'un Fethi と呼ばれている。)預言者ムハンマドのハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブールの征服を試みた。674年から678年に、ウマイヤ朝初代のカリフ、ムアーウィヤ時代から[29]1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。1453年にこの町を征服したオスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブールは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。

    オスマン朝の時代  ドルマバフチェ宮殿A lithograph depicting a building with a complex set of domes, arches, and towers on a deserted street. スレイマニエ・モスクはミマール・スィナンが携わったイスタンブールのモスクのうちの一つ。

    コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世は直ちに街を復興するために試みた。モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道(ローマ水道)を補修し、後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。また、王宮としてトプカプ宮殿の建造を開始している[30]。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、ユダヤ教徒や被征服者のキリスト教徒にズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリム(イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブールは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、スルターンはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、オスマン期に持続した国際的な社会を築いている[31]。

    オスマン朝は急速に街をキリスト教の牙城からイスラーム文化の象徴に変化させた。ワクフは壮大な帝国のモスク、また度々隣接した学校や病院、ハンマムなどの公衆浴場の建設などに資金を供給するため設立された[30]。各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクが造られ、イスラム都市の伝統に則ったモスクと公共施設が整備された。また、イスラム教徒による差別と抑圧はあったものの東方正教やアルメニア使徒教会の教会、ユダヤ教のシナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。1517年にオスマン家はイスラム帝国の地位を宣言し、イスタンブールは4世紀にわたりオスマンのカリフ(英語版)の首都として続いた[32]。 1520-1566年のスレイマン1世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。主要な建築家であったミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、イスラームの書法、オスマンの細密画(英語版)が栄えた[33]。イスタンブールの全人口は18世紀までに57万人に達した[34]。19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であったマフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ[35]この時代に金角湾に橋が架けられた[36]。1880年代にイスタンブールはヨーロッパの鉄道網と結ばれ[37]、1883年に運行を開始したオリエント急行は、スエズ運河の自由航行に関する条約が締結された1888年にイスタンブールへの直接乗り入れを開始している。これにより、西ヨーロッパとイスタンブールは直接結ばれることとなった[38]。近代的な水道・電気・電話・路面電車などが、オスマン債務管理局を通した公共事業により導入されていった[39]。

     
    ガラタ塔の展望台から望むイスタンブール市街の風景。1890年のオスマン帝国末期の写真
    20世紀以降から現代

    20世紀初め、青年トルコ人革命により廃位されたアブデュルハミト2世や一連の戦争は病んでいる帝国の首都を悩ませた[40]。これらの第一次世界大戦の終わりはイギリスやフランス、イタリアによるコンスタンティノープルの占領(英語版)の結果となった。遂にはオスマン帝国最後の皇帝であったメフメト6世が1922年11月に亡命し、翌年ローザンヌ条約によりコンスタンティノープルの占領は終わり、アンカラのトルコ大国民議会でムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国の建国を宣言し[41]共和国が認められた[42]。共和国の初期の頃、オスマンの歴史から新しい世俗的な国を遠ざけるためイスタンブールはトルコの首都の選択から外されアンカラが支持された[43]。しかしながら、1940年代後半から1950年代初めにイスタンブールは大きな構造変化を経験し、新しい公共広場や大通り、道路が市内中で建設され、時には歴史的な建築物が犠牲となった[44]。アナトリアの人々が膨張するイスタンブールの郊外に建設された新しい工場の雇用を見付けるため市内に移住したため、1970年代に急増が始まった。都市のこの突然の人口の増大は大規模な住宅開発の需要の要因となり、以前の中心部から離れた村や森はイスタンブールの大都市圏に飲み込まれた[45]。

    1984年に大都市自治体として指定され[46]、2004年の指定範囲拡大により指定区域はイスタンブール県全県となっている[47]。

    2016年にはテロが2件発生した(1月の自爆テロと12月の爆弾テロ事件)ほか、2022年11月13日には爆弾テロ事件(英語版)が発生した[48]。

    ^ Rainsford, Sarah (2009年1月10日). “Istanbul's ancient past unearthed”. BBC. http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7820924.stm 2010年4月21日閲覧。  ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「fre10」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Düring 2010, pp. 181–2 ^ Çelik 1993, p. 11 ^ De Souza 2003, p. 88 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Hidaka10」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Freely 1996, p. 20 ^ Freely 1996, p. 22 ^ Grant 1996, pp. 8–10 ^ Limberis 1994, pp. 11–2 ^ Barnes 1981, p. 77 ^ Barnes 1981, p. 212 ^ a b Barnes 1981, p. 222 ^ a b 井上(1990)、p.58-60、2-「新しいローマ」の登場、私の前を歩いている御方が ^ a b Gregory 2010, p. 63 ^ Klimczuk & Warner 2009, p. 171 ^ Dash, Mike (2012年3月2日). “Blue Versus Green: Rocking the Byzantine Empire”. Smithsonian Magazine. The Smithsonian Institution. 2012年7月30日閲覧。 ^ Dahmus 1995, p. 117 ^ Cantor 1994, p. 226 ^ Morris 2010, pp. 109–18 ^ Gregory 2010, pp. 324–9 ^ Gregory 2010, pp. 330–3 ^ Gregory 2010, p. 340 ^ Gregory 2010, pp. 341–2 ^ Reinert 2002, pp. 258–60 ^ Baynes 1949, p. 47 ^ 井上(1990)、p.238-240、6-ビサンティン帝国の落日、ビサンティン帝国の滅亡 ^ Gregory 2010, pp. 394–9 ^ 井上(1990)、p.114-116、3-「パンとサーカス」の終焉、「髭の皇帝」は誰か ^ a b Holt, Lambton & Lewis 1977, pp. 307 ^ Holt, Lambton & Lewis 1977, pp. 306–7 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「maag1145」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Holt, Lambton & Lewis 1977, pp. 735–6 ^ Chandler, Tertius; Fox, Gerald (1974). 3000 Years of Urban Growth. London: Academic Press. ISBN 978-0-12-785109-9.  ^ Shaw & Shaw 1977, pp. 4–6, 55 ^ Çelik 1993, pp. 87–9 ^ Harter 2005, p. 251 ^ 「オリエント急行の時代 ヨーロッパの夢の軌跡」p183 平井正 2007年1月25日発行 中央公論新社 ^ Shaw & Shaw 1977, pp. 230, 287, 306およびオスマン債務管理局の項目に付した出典 ^ Çelik 1993, p. 31 ^ 「バルカン 歴史と現在」p308-309 ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 1994年7月発行 サイマル出版会 ^ Landau 1984, p. 50 ^ Dumper & Stanley 2007, p. 39 ^ Keyder 1999, pp. 11–2, 34–6 ^ Efe & Cürebal 2011, pp. 718–9 ^ “TÜRK BELEDİYECİLİĞİNİN GELİŞİM SÜRECİ”. www.mevzuatdergisi.com. 2022年2月6日閲覧。 ^ “BÜYÜKŞEHİR BELEDİYESİ KANUNU” (10/7/2004). 2022年2月6日閲覧。 ^ “トルコ爆発関与か、5人拘束 クルド人やガガウス人―ブルガリア:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2022年12月10日閲覧。


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