ベルギー

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のコンテキスト ベルギー

ベルギー王国
Koninkrijk België(オランダ語)
Royaume de Belgique(フランス語)
Königreich Belgien(ドイツ語)
国の標語:
L'union fait la force(フランス語)
Eendracht maakt macht(オランダ語)
Einigkeit macht stark(ドイツ語)
(日本語訳: 団結は力なり)
国歌:La Brabançonne(フランス語)
De Brabançonne(オランダ語)
Das Lied von Brabant(ドイツ語)
ブラバントの歌
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ベルギー王国
Koninkrijk België(オランダ語)
Royaume de Belgique(フランス語)
Königreich Belgien(ドイツ語)
国の標語:
L'union fait la force(フランス語)
Eendracht maakt macht(オランダ語)
Einigkeit macht stark(ドイツ語)
(日本語訳: 団結は力なり)
国歌:La Brabançonne(フランス語)
De Brabançonne(オランダ語)
Das Lied von Brabant(ドイツ語)
ブラバントの歌

ベルギー王国(ベルギーおうこく、蘭: Koninkrijk België、仏: Royaume de Belgique、独: Königreich Belgien)、通称 ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。

首都ブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため「EUの首都」とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体からなるブリュッセル首都圏の自治体のひとつ、ブリュッセル市である。

詳細について ベルギー

基本情報
  • 通貨 ユーロ
  • 呼び出しコード +32
  • インターネットドメイン .be
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 7.51
Population, Area & Driving side
  • 人口 11584008
  • 領域 30528
  • 駆動側 right
履歴
  • 古代

    ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[1]。新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住を始め、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[2]。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年ごろまで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる[2]。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[2]。紀元前6世紀ごろにケルト人がライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[2]。

    紀元前後になるとローマ人との接触が始まり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[2][3]。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[2]。ベルガエ族は多数の部族に分かれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[3]。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンゲレン、トゥルネー、アルロンといった植民都市が築かれた[3]。

    アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[4]。

    3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住を始めた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入し、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[3]。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[5][6]。フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認めた。

    中世

    481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクローヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[6]。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)、ルクセンブルク南部のアレマン族、ブルグント王国、西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[6]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[7]。

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    古代

    ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[1]。新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住を始め、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[2]。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年ごろまで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる[2]。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[2]。紀元前6世紀ごろにケルト人がライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[2]。

    紀元前後になるとローマ人との接触が始まり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[2][3]。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[2]。ベルガエ族は多数の部族に分かれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[3]。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンゲレン、トゥルネー、アルロンといった植民都市が築かれた[3]。

    アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[4]。

    3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住を始めた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入し、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[3]。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[5][6]。フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認めた。

    中世

    481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクローヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[6]。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)、ルクセンブルク南部のアレマン族、ブルグント王国、西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[6]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[7]。

    7世紀中盤ごろになるとアウストラシアの宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年、テルトリーの戦いでネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年、カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年、ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[8]。カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[8]。800年、サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した[9]。

    カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年、ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国、西フランク王国とロタリンギアに分けられた。さらに870年のメルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収され、この結果、ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった[10]。また、9世紀初頭より始まったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領、ブラバント伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルク伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した[10]。中でもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブルッヘやヘントといった都市を中心に繁栄を誇った[11]。

    10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった[12]。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した[13]。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった[14]。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった[15]。

    14世紀以降

    1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランド王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブルッヘが征服されてしまう。この結果、フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった[16]。

    フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った[17]。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公の1477年、ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家のマクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝)に救援を要請し、結婚した[18]。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。

    フランドル地方の統治権はフィリップ美公を経て1506年、カール5世に渡った。カールは1464年に設置されていたネーデルラント全域を管轄する全国議会を存続させ、1531年にネーデルラントに軍事・立法・財務の各職掌に評議院を設ける[19]など統治に意を用いる一方、この地方の統合を進め、1543年にはゲルデルン公国を併合してこの地方を統一し、1548年には神聖ローマ帝国からこの地方を法的に分離してネーデルラント17州を誕生させた[20]。この時期アントウェルペンはブリュージュに代わりフランドルの経済の中心となった。しかしカールが1556年に退位し、ネーデルラントをスペイン王となったフェリペ2世が統治するようになると、強硬な異端取り締まりや自治の制限といった圧政に17州が蜂起し、1568年に八十年戦争が勃発した。この戦争は当初はスペイン側が優勢に戦いを進め、1576年には大貿易港だったアントウェルペンをスペインが占領・劫掠する一方、17州側はヘントの和約を締結して結束を固めた[21]。しかしこの和約は北部のカルヴァン派と南部のカトリックとの対立によって崩壊し、北部諸州はユトレヒト同盟を結んで独立の姿勢を鮮明にする一方、南部2州はアラス同盟を結んでスペイン寄りの姿勢を示し[22]、ここを拠点に進撃したスペイン軍が南部10州の支配を固め、ネーデルラントは南北に分離することとなった。最終的に、北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペイン領南ネーデルラントとしてスペインの支配下に留まった[23]。

    18世紀

    スペイン・ハプスブルク朝の断絶により生じたスペイン継承戦争(1701年 - 1714年)の結果、ラシュタット条約でスペイン領南ネーデルランドがオーストリアに割譲され、オーストリア領ネーデルラントが成立する。1740年オーストリア継承戦争ではフランスが再度ベルギーを占領したが、アーヘンの和約によりマリア・テレジアに返された。

    1778年にはカール・テオドールが、自身の領国バイエルン選帝侯領をオーストリア領ネーデルラントと交換しようと画策したがバイエルン継承戦争により失敗した。1789年にハプスブルク=ロートリンゲン家の支配に対してブラバント革命が起こり、1790年には独立国家であるベルギー合衆国が建国されたが、短期間で滅ぼされた[24]。ベルギーは、オーストリア領ネーデルラントとして再びハプスブルク家の支配下に戻った。

    フランス革命戦争勃発後、ジャコバン派がフランス革命国民義勇軍を主導したが、その国民義勇軍の将軍ジュールダンと公安委員カルノーはベルギー戦線で、ロベスピエールの恐怖政治中の1793年10月、オーストリア軍を殲滅した。翌1794年6月、ジュールダン将軍とベルナドット将軍は再度ベルギー戦線でオーストリア軍を殲滅した。このあと、フランス軍は南ネーデルランドを占領し、1795年にはフランスに併合された[25]。

    独立と永世中立国化

    ナポレオン戦争の終結後、ベルギーはフランス統治下を離れ、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダとともにネーデルラント連合王国として再編された[26]。しかしプロテスタント・オランダ語話者が多数派を占め経済の低迷する北部ネーデルラントに対し、カトリックが多数派でオランダ語話者とフランス語話者がほぼ同数であり、さらに産業革命の波が到達して経済が活況を呈している南ネーデルラントは反発を強めていき、ネーデルラント国王ウィレム1世の高圧的な姿勢がそれに拍車をかけた[27]。こうして1830年に南ネーデルラントは独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年にはドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた[28]。しかしオランダはこれに反発し、1839年のロンドン条約を締結するまで独立を承認しなかった[29]。

    同年に制定された憲法は、主たる納税者であったブルジョワジー(財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政や軍事など最高の国家行為には首相の承認(副署)を要することを規定した。ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。これはカトリックのベルギーが、外から迎えるプロテスタントの国王、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世(在位:1831年 - 1865年)に対抗するためのものであった。

    19世紀

    ベルギーは大陸ヨーロッパでもっとも早く、独立直前の1820年代に産業革命が始まった。独立後工業化はさらに進展し、1835年にメヘレン・ブリュッセル間の鉄道が建設されたのを皮切りに急速に鉄道建設が進んで、1840年代前半には国内の主要鉄道網が完成した[30]。次いで1846年にはチャールズ・ホイートストンとウィリアム・クックに電信の敷設を許可したが、1850年頃から政府が回線網の買収と拡大を進めるとともに、1851年には商業利用が認可された[31]。こうしたインフラの整備を背景に、とくに南部のワロニア地方を中心にリエージュ、シャルルロワなどにおける石炭の産出が増加し、製鉄や機械工業といった重工業や、ソルベイに代表される化学工業が発達した[32]。

    一方、内政においては学校教育の主体を巡り、公教育の充実を目指す自由主義派と教会による教育を重視するカトリック派の対立が続いた[33]ほか、工業化に伴う産業構造の変化によって労働運動が台頭し[34]、これに伴って1893年には男子普通選挙制が導入された[35]。また1860年代以降、当時は独立以来唯一の公用語とされていたフランス語に対する、オランダ語の地位向上を目指すフランデレン運動が盛んになり、以後のベルギー政治を二分する争点となっていった[36]。

    この時期、ベルギー政府は植民地獲得にまったく興味を持っていなかった[37]一方、第2代国王レオポルド2世は積極的に植民地獲得を目指しており、彼はアフリカ中部のコンゴ川流域に目をつけ、ヘンリー・スタンリーを派遣して現地の掌握を進めていた。この動きを警戒した列強によって1884年にアフリカ分割のためのベルリン会議が開かれ、レオポルド2世は個人所有地としてコンゴ川流域の支配権を認められた[38]。しかしこうして設立されたコンゴ自由国は現地で過酷な搾取を行い、さまざまな蛮行を行ったため列強から強い批判を浴び、1908年にはコンゴの統治権はレオポルドからベルギーへと移管された[39]。

    20世紀以降

    第一次世界大戦ではドイツ軍によってほぼ全土を占領されたが、国王アルベール1世を中心とする政府は亡命政府を樹立し頑強に抵抗した[40]。戦後はドイツの脅威に対抗するためフランスと軍事協定を結んだが、1936年にはこれを破棄して中立政策へと回帰した[41]。

    しかし1940年5月10日未明、ナチス・ドイツはベルギーと同じく中立を宣言していた隣国のオランダ、ルクセンブルグに侵攻を開始。交戦状態となり[42]、再びドイツ軍によって国土を占領された。ロンドンに亡命政権が立てられたが、 同年5月28日に国内に残った国王レオポルド3世は亡命政府の意向を無視してドイツの無条件降伏要求を受諾[43]。 立憲君主制下にある国王の権限を逸脱するものとして戦後に問題視されることとなった[41]。

    戦後、レオポルド3世の行為は問題視され、1950年には君主制の是非を巡る国民投票が行われた。この投票ではかろうじて君主制維持が過半数を占めたものの、とくに南部で批判票が強く、これを受けてレオポルド3世は退位し、ボードゥアン1世が即位した[44]。1950年代には経済の復興が進む一方、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体への参加以来、首相のポール=アンリ・スパークを中心に積極的にヨーロッパ統合の動きを推進し、のちにスパークは欧州連合の父の1人に数えられるようになった[45]。1958年に成立したガストン・エイスケンス政権は学校教育問題の解決などで大きな成果を上げたが[46]、コンゴ植民地の独立時の対応を誤り、コンゴ動乱を招くこととなった。

    1960年代に入ると、ワロン地域の経済低迷とフランデレン地域の経済成長によって両地域の経済的地位が逆転し、これに伴って言語問題が激化していった[47]。これを解決するためにベルギー政府は分権化を進め、1963年には言語境界線が確定され、1970年には3つの言語共同体と3つの地域が成立し、1980年には言語共同体とブリュッセルを除く2つの地域に政府が設置され、1988年にはブリュッセル地域政府を設置した上で1993年には正式に連邦国家へと移行した[48]。

    現在、首都ブリュッセルは欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の「首都」にあたる性格を帯びている。ブリュッセルは2014年、ビジネス、人材、文化、政治、識字率などを総合評価した世界都市ランキングにおいて、特に「政治的関与」が高く評価され、世界11位の都市と評価された[49]。

    ^ ベルギー観光局、1.古代とケルト人 - ローマ人・4世紀頃。 ^ a b c d e f 森田1998、p.169。 ^ a b c d 小川2009、p.38。 ^ 森田1998、p.172。 ^ 小川2009、p.39。 ^ a b c 森田1998、p.176。 ^ 小川2009、p.40。 ^ a b 小川2009、p.41。 ^ 小川2009、p.42。 ^ a b ベルギー観光局、2.1.中世・5世紀 - 14世紀。 ^ 小川2009、pp.43-44。 ^ 森田1998、p.202。 ^ 森田1998、p.203。 ^ 森田1998、p.205。 ^ 小川2009、p.44。 ^ 小川2009、p.45。 ^ 小川2009、p.46。 ^ 小川2009、p.47。 ^ 「物語 オランダの歴史」p4-5 桜田美津夫 中公新書 2017年5月25日発行 ^ 『図説 オランダの歴史』p.35 佐藤弘幸 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2012年 ^ 「物語 オランダの歴史」p30-31 桜田美津夫 中公新書 2017年5月25日発行 ^ 「物語 オランダの歴史」p33-34 桜田美津夫 中公新書 2017年5月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p20 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p26 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p27 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 オランダの歴史」p172 桜田美津夫 中公新書 2017年5月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p31-32 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p39-40 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p42-43 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 『スイス・ベネルクス史』p386-387 森田安一編 山川出版社 1998年4月20日1版1刷発行 ^ 西岡洋子 国際電気通信連合成立前史にみる国際的電気通信制度の形成過程に関する検討 p.34. ^ 『スイス・ベネルクス史』p388-390 森田安一編 山川出版社 1998年4月20日1版1刷発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p60-63 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p64-65 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p73 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 『スイス・ベネルクス史』p398-400 森田安一編 山川出版社 1998年4月20日1版1刷発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p78 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p77-78 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p81 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p92-93 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ a b 『スイス・ベネルクス史』p424 森田安一編 山川出版社 1998年4月20日1版1刷発行 ^ オランダ各地に独落下傘部隊降下(『東京日日新聞』昭和15年5月11日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p367 ^ ベルギー国王、降伏を受諾(『東京日日新聞』昭和15年5月29日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p370 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p124-125 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p130-132 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p128 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 「物語 ベルギーの歴史」p144-147 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日発行 ^ 『スイス・ベネルクス史』p434-436 森田安一編 山川出版社 1998年4月20日1版1刷発行 ^ 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
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