Magyarország
ハンガリーのコンテキスト ハンガリー
- ハンガリー
- Magyarország
- 国の標語:なし
- 国歌:Himnusz(ハンガリー語)
賛称
ハンガリー(ハンガリー語: Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。
国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。
詳細について ハンガリー
- 通貨 フォリント
- 母国語表記 Magyarország
- 呼び出しコード +36
- インターネットドメイン .hu
- Mains voltage 230V/50Hz
- Democracy index 6.5
- 人口 9599744
- 領域 93036
- 駆動側 right
- 詳細は「ハンガリーの歴史」を参照
ハンガリーの国土はハンガリー平原といわれる広大な平原を中心としており、古来さまざまな民族が侵入し、定着してきた。
古代にはパンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入。1世紀中ごろ、属州パンノニアに分離された。4世紀後半にはフン族が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。
その後、フン族はアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アッティラが40歳で死亡したあと、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。
ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年)10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け大きな被害を受けた。14世紀から15世紀ごろには周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった[1]。
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古代にはパンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入。1世紀中ごろ、属州パンノニアに分離された。4世紀後半にはフン族が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。
その後、フン族はアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アッティラが40歳で死亡したあと、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。
ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年)10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け大きな被害を受けた。14世紀から15世紀ごろには周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった[1]。
1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北。フス戦争(1419年 - 1439年)。15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)、両帝国のぶつかりあう最前線となった。
三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側にトランシルヴァニア公国が、カトリック側に王領ハンガリーが分裂して参加した。
1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約で、ハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。
1848年の3月革命では、コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年にキエッジェズィーシュ(和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。
オーストリア=ハンガリー二重帝国の体制下で資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。
ハンガリー人民共和国時代(1918年 - 1919年)1918年10月31日、アスター革命(ハンガリー語: Őszirózsás forradalom)でハンガリー初の共和制国家であるハンガリー人民共和国が成立し、社会民主党系のカーロイ・ミハーイが初代大統領および首相を務める。
ハンガリー・ソビエト共和国時代(1919年 - 1919年)1919年3月、ハンガリー共産党のクン・ベーラによるハンガリー革命が勃発し、クン・ベーラを首班とするハンガリー・ソビエト共和国(3月21日 - 8月6日)が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
ハンガリー王国時代(1920年 - 1945年)1920年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として統治するハンガリー王国の成立が宣言された。1920年6月4日に結ばれたハンガリーと連合国とのトリアノン条約により、二重帝国時代の王国領のうち、トランシルヴァニアやハンガリー北部(スロバキア)など、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。領土を失った反動、周囲の旧連合国からの孤立などの要因から次第に右傾化した。
1930年代後半からはナチス・ドイツと協調するようになり、1938年のミュンヘン協定、ハンガリーのカルパト・ウクライナへの侵攻[注釈 1]、1939年のスロバキア・ハンガリー戦争、 2度のウィーン裁定などで一部領土を回復した。第二次世界大戦では領域拡大とナチス・ドイツからの圧迫を受けて枢軸国に加わり独ソ戦などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、1944年にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが、ナチス・ドイツ軍と矢十字党によるクーデター(パンツァーファウスト作戦)で阻止されて失脚した。かわって矢十字党の国民統一政府が成立、1945年5月8日の敗戦まで枢軸国として戦うことになった。一方でソビエト連邦軍の占領区域では、軍の一部や諸政党が参加したハンガリー臨時国民政府が樹立され、戦後ハンガリー政府の前身となった。1945年4月4日には、ハンガリー全土からドイツ軍が駆逐され、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏した。
戦後から共産主義政権時代(1946年 - 1989年)1946年2月1日には王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかし、ソ連の占領下に置かれたハンガリーでは1垓ペンゲー紙幣まで発行される史上最悪のハイパーインフレーションが起きるなど政府に統制力はなく、共産化の影響力が次第に高まりつつあった。
1947年2月にはパリ条約によって連合国と講和し、占領体制は一応終結したがソ連軍はそのままハンガリーに駐留し続けることになった。ハンガリー共産党は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、1949年にハンガリー人民共和国が成立した。ハンガリー共産党が合同したハンガリー勤労者党による一党独裁国家としてソ連の衛星国となり、冷戦体制の中では東側の共産圏に属した。
共和国成立直後より国民への統制は厳しいものとなり、1949年時点から他の衛星国に先駆けて西側諸国(オーストリア)国境に鉄条網の障壁が築かれた[2]。こうした共産主義体制に対する反発も根強く1956年にはハンガリー動乱が起こったが、ソ連軍に鎮圧された。勤労者党はハンガリー社会主義労働者党に再編され、カーダール・ヤーノシュによるグヤーシュ・コミュニズムと呼ばれる比較的穏健な政策がとられた。
1980年代後半になると、ソ連のペレストロイカとともに東欧における共産党一党独裁の限界が明らかとなった。社会主義労働者党内でも改革派が台頭し、ハンガリー民主化運動が開始され、1989年2月には憲法から党の指導性を定めた条項が削除された。5月には西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。また6月には複数政党制を導入し、社会主義労働者党もハンガリー社会党に改組された。
第三共和国(1989年 - 現在)1989年10月23日、ハンガリー共和国憲法施行により、多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立した。1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に、2004年に欧州連合(EU)に加盟した。
ハンガリー第三共和国の国旗と国章では、ファシズム体制を敷いた矢十字党の「矢印十字」の紋章と、共産党時代の「赤い星」の紋章が消去されている。また、ナチスドイツ、矢十字党、ソビエト連邦、共産党一党独裁による圧制の反動から、「鉤十字」「矢十字」「鎌と槌」「赤い星」の配布・公刊・公の場での使用が、1993年の改正刑法にて禁止された[3]。
1999年3月にNATOに加盟、2004年5月にEUに加盟。さらに 2007年にシェンゲン協定を導入[4]。2011年に新憲法「ハンガリー基本法」への改正が行われた。
しかし、2010年に首相に再登板したオルバーン・ヴィクトルは、次第に親ロシア路線に転換し始めた。2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際には、国益に反するとしてウクライナへの軍事支援を拒否。他のNATO諸国と一線を画した[5]。対露制裁とも距離を置いたが、これはロシアへのエネルギー依存度が高いという事情もある。
^ Kristó Gyula – Barta János – Gergely Jenő: Magyarország története előidőktől 2000-ig (History of Hungary from the prehistory to 2000). Pannonica Kiadó, Budapest. (2002). ISBN 963-9252-56-5 ^ “「鉄のカーテン」 撤去までの道のり”. AFP (2020年11月7日). 2020年5月12日閲覧。 ^ 先週のハンガリー 2008年7月6日~12日 (北海道大学ハンガリー文化センター)リンク切れ ^ 外務省 ハンガリー基礎データ ^ “ウクライナ軍事支援を拒否 ロシアに融和的―ハンガリー首相”. 時事通信 (2022年3月26日). 2022年3月27日閲覧。
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