のコンテキスト ブータン

ブータン王国
འབྲུག་ཡུལ་
国の標語:なし
国歌:འབྲུག་ཙན་དན་(ゾンカ語)
(雷龍の王国)

ブータン王国(ブータンおうこく、ゾンカ語: འབྲུག་ཡུལ་、英語: Kingdom of Bhutan)、通称ブータンは、南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はティンプー。北は中国、東西南はインドと国境を接する。

国教は仏教(ロ・ドゥク派)。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語。

国旗はその模様が複雑で、竜のうろこが細かく描かれている。国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス、国蝶はブータンシボリアゲハ。

長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国際連合加盟。翌年に国民総幸福量という功利主義を採用した。

詳細について ブータン

基本情報
  • 通貨 ニュルタム
  • 呼び出しコード +975
  • インターネットドメイン .bt
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 5.71
Population, Area & Driving side
  • 人口 807610
  • 領域 38394
  • 駆動側 left
履歴
  •  
    1646年建設のパロ谷のゾン

    ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教のドゥク・カギュ派が伝えられ、以後、同地に定着していった。

    ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より化身ラマが同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。

    第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫ガワン・ナムゲルを同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。

    ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。

    両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。

    ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。

    1772年、当時インドのクーチ・ビハール王国に侵出していたブータンはイギリスの援軍によって駆逐され、以来イギリスとの関係が始まる。この紛争はパンチェン・ラマの調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人によるドゥアール地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使イーデンを派遣して交渉に当たらせた。イーデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国インド総督が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは1864年にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが(ドゥアール戦争)、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、1865年にブータンへの補助金(年額五万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(→シンチュラ条約)[1][2]。

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    1646年建設のパロ谷のゾン

    ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教のドゥク・カギュ派が伝えられ、以後、同地に定着していった。

    ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より化身ラマが同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。

    第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫ガワン・ナムゲルを同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。

    ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。

    両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。

    ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。

    1772年、当時インドのクーチ・ビハール王国に侵出していたブータンはイギリスの援軍によって駆逐され、以来イギリスとの関係が始まる。この紛争はパンチェン・ラマの調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人によるドゥアール地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使イーデンを派遣して交渉に当たらせた。イーデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国インド総督が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは1864年にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが(ドゥアール戦争)、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、1865年にブータンへの補助金(年額五万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(→シンチュラ条約)[1][2]。

    その後1906年にイギリス人のブータン入国が正式に承認されると、1910年には先のシンチュラ条約(第四条及び第八条)を改正して、補助金を年額十万ルピーに倍加すること、イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと、さらにシッキム王国及びクーチ・ビハール侯国のマハ・ラージャとの抗争はイギリス政府の仲裁に託すことが両国間に締約された(→プナカ条約(英語版))[2]。イギリスによるこの外交指導権買収は、英領インド保全のためにその東北方から他国の勢力を排除するのが目的で、当時その対象となっていた国は、ブータンを「チベットの属部」と認識し、度々その宗主権を主張していた清国と、南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていたロシア帝国であった[3]。イギリス政府はプナカ条約締結と同時に北京駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であること、またブータンに対する清国の勢力をイギリスは容認しないことを正式に通知した[1]。イギリスによるブータンの外交権束縛は、イギリスから独立したインドによって引き継がれた。

     
    初代国王ウゲン・ワンチュク

    従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマ・ラージャ(仏法王)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャ(執政王)による二頭体制であった。しかし1885年に内乱が勃発して以来国内が安定しなかった[1]ことから、1907年ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュクが世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王となった[4]。次いで1926年にその子息ジグミ・ワンチュクが第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが1972年に崩御すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく第4代国王の座に即いた。2005年に総選挙が実施されると翌年12月に国王は譲位し、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。2008年7月18日には初の成文憲法典が公布され、名実ともに立憲君主国へと移行した。

    年表
     
    ブータンの国獣、ターキン
     
    国鳥ワタリガラス
    627年 - パロのキチュ・ラカンとブムタンのジャンパ・ラカンがソンツェン・ガンポによって建設される。 747年 - パドマサンバヴァがチベット仏教のニンマ派を伝える。 1616年 - ドゥク派(チベット仏教カギュ派の支派)座主織をめぐり内紛。座主職を相伝してきたギャ氏のガワン・ナムゲルの継承に対し、反対派が「先代の化身ラマ」を擁して対抗。時のチベット中央政府の介入により座主織を追われたガワン・ナムゲルが南方モン地方の支持者に迎えられて政権を樹立。ブータン国家の起源。 1617年 - チベット・ツァンパ政権による第1回侵攻。 1626年 - イエズス会のポルトガル人神父、エステヴァン・カセラ、ヨハン・カプラルがヨーロッパ人として初めてブータン入国。 1634年 - チベット・ツァンパ政権による第2回侵攻。 1639年 - チベット・ツァンパ政権による第3回侵攻。 1644年 - チベット・ダライラマ政権(1642年成立)による攻撃。 1648年 - チベット・ダライラマ政権がブータンを攻撃。 1649年 - チベット・ダライラマ政権がブータンを攻撃。 1651年 - ガワン・ナムゲル入寂。ドゥク派は東部地方を除くブータン全土に浸透していった。 1694年 - タクツァン僧院建立。1998年に寺院の大半を焼失。その後再建。 1714年 - チベット・ダライラマ政権がブータンを攻撃 1825年 - ジグミ・ナムゲル、クルテに誕生。(~1880年) 1864年 - イギリス=ブータン戦争(ドゥアール戦争)勃発。 1865年 - ブータン戦争(ドゥアール戦争)に敗北し、イギリスとの間にシンチュラ条約を締結。イギリスは領土占領と引き換えにブータンに年5万ルピーを補償金として支払うことになった。ブータンはアッサム、ベンガル、ドゥアール(英語版)の7,122平方キロメートルの領土を喪失した。 1870年 - ジグミ・ナムゲルはデシに任命される。 1882年 - ウゲン・ワンチュクはトンサ・ペンロップとなった。 1906年 - 英国人のブータン入国が正式に承認される。 1907年 - ワンチュク家(現王朝)が支配権を確立する。12月17日、ウゲン・ワンチュクが初代世襲制国王に選出される。ブータン王国となる。 1910年 - プナカ条約(英語版)締結。1949年までイギリスの保護下に入る。 1926年 - ジグミ・ワンチュクが第2代国王になる。 1947年 - インド・ニューデリーで行われたアジア関係諸国会議 (Asian Relations Coference) に参加。 1949年 - インド・ブータン条約(英語版)調印。 1952年 - ジグミ・ドルジ・ワンチュクが第3代国王になる。 1964年 - ジグミ・パルデン・ドルジ首相(英語版)が暗殺される。 1971年 - 国際連合に加盟する。128番目の加盟国として国連への参加を認められた。 1972年 - ジグミ・シンゲ・ワンチュクが第4代国王になる。 1973年 - 非同盟諸国会議 (NAM) に出席。 1974年 - 第4代国王戴冠式。 1985年 - 南アジア地域協力連合 (SAARC) に参加。 1990年 - 反政府運動激化。南部居住のネパール系住民が国外に脱出し難民化する(ブータン難民)。 1999年 - 国内テレビ放送開始(ブータン国営放送)。インターネットの利用を許可。 2003年 - インドからの要求に従い、6年間ブータン国内に潜伏していた3000人のアッサム・ゲリラの追放作戦を行う(オールクリア作戦(英語版))[5]。 2005年 - ワンチュク国王、2008年の譲位と総選挙後の立憲君主制移行を表明。 2006年 - 当初の予定を繰り上げて、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位。 2007年 - 12月、初の普通国政選挙となる国家評議会(上院)選挙を実施。 2008年 - 3月、普通選挙による国民議会(下院)選挙を実施。4月、初の民選首相としてジグメ・ティンレーが選任される。7月18日、新憲法が公布される。 2011年 - 日本の調査隊により、78年ぶりに再発見されたブータンシボリアゲハを国蝶とする。 2013年 - 7月、普通選挙による国民議会(下院)選挙を実施。国民民主党 (PDP)が過半数を獲得し、政権交代がおこなわれる。 2020年 - 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大に伴い、8月、12月の2回にわたり全土にロックダウンが行われる[6]。 2021年 - 国会でブータン刑法第213条が改正、「被告人が自然の秩序に反する性行為を行った場合、被告人は不自然な性行為で有罪となる。ただし、成人間の同性愛は不自然な性行為とはみなされない。」とされ同年2月17日施行。それまで犯罪であった同性愛の性交渉が、合法化された(「ブータンにおけるLGBTの権利」も参照)。^ a b c 朝日新聞社中央調査会 1942, p. 276. ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、5頁 ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、6頁 ^ 朝日新聞社中央調査会 1942, p. 277. ^ 今枝由郎. “仏教王と戦争 ---ブータン第四代国王による2003年アッサム・ゲリラ国外追撃作戦--” (PDF). 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所. 2019年4月17日閲覧。 ^ “ブータン全土でロックダウン開始”. JETRO (2020年8月19日). 2020年12月29日閲覧。
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