Argentina

アルゼンチン
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のコンテキスト アルゼンチン

アルゼンチン共和国
República Argentina
国の標語:En Unión y Libertad
(スペイン語: 統一と自由において)
国歌:Himno Nacional Argentino(スペイン語)
アルゼンチンの国歌

アルゼンチン政府は南極の1,000,000 km2およびマルビナス諸島の領有を主張している。

アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく、スペイン語: República Argentina)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。位置は南米大陸から見ると南西側に位置しており、西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。

チリとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビナス...続きを読む

アルゼンチン共和国
República Argentina
国の標語:En Unión y Libertad
(スペイン語: 統一と自由において)
国歌:Himno Nacional Argentino(スペイン語)
アルゼンチンの国歌

アルゼンチン政府は南極の1,000,000 km2およびマルビナス諸島の領有を主張している。

アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく、スペイン語: República Argentina)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。位置は南米大陸から見ると南西側に位置しており、西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。

チリとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。

詳細について アルゼンチン

基本情報
  • 母国語表記 Argentina
  • 呼び出しコード +54
  • インターネットドメイン .ar
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 6.95
Population, Area & Driving side
  • 人口 47327407
  • 領域 2780400
  • 駆動側 right
履歴
  • 先コロンブス期
     
    パタゴニアの手の洞窟
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    先コロンブス期
     
    パタゴニアの手の洞窟
     
    アイマラ人が15世紀に築いた、アルゼンチン北西部フフイ州ティルカラ(英語版)にあるティルカラのプカラ(英語版)(石壁)

    アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。

    その後、15世紀後半に現ペルーのクスコを中心に発展したケチュア人の国家クスコ王国(1197年 - 1438年)は、タワンティンスーユ(インカ帝国、1438年 - 1533年)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキとワイナ・カパックによって征服され、北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入された。征服された地域はタワンティンスーユ内の4州の内の1州、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコやパンパやパタゴニアには、チャルーア人のような狩猟インディヘナがおもに居住しており、パンパやチャコにもグアラニー人のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。

    スペイン植民地時代

    16世紀に入ると、1516年にスペインの探検家、フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民といさかいを起こし、まもなく殺害された。その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ(英語版)率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年にアウディエンシアの設置されたパラグアイのアスンシオンとなった。

    植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカではもっとも開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬がパンパの牧草を食べて自然に大繁殖したこともあり、いつしかガウチョが現れるようになっていった。同じようにして繁殖した牛は、19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2,000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこのころの人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイをあわせても100万人を超えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸のコルドバにコルドバ大学が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀にはグアラニー戦争(英語版)などに代表されるように、ポルトガル領ブラジル(英語版)方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部のトゥクマンや中央部のコルドバであり、リトラル地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、のちに植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。

    独立戦争と内戦
     
    五月革命の実行者の一人となったブエノスアイレスの代表者 マヌエル・ベルグラーノ。アルゼンチンの国旗の制定者でもある

    1806年、1807年の2度にわたるイギリス軍のラプラタ侵略(英語版)を打ち破ったあと、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日に五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略(スペイン語版、英語版)は失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、王党派の支配していたアルト・ペルー攻略(スペイン語版)第一次アルト・ペルー攻略(スペイン語版、英語版)第二次アルト・ペルー攻略(スペイン語版))は失敗した。

     
    シモン・ボリーバルと並ぶラテンアメリカの解放者、ホセ・デ・サン・マルティン
     
    スペイン語とケチュア語で書かれた南アメリカ連合州の独立宣言

    独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはトゥクマンの議会(英語版)で南アメリカ連合州として正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガス(英語版)のようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見はまったく一致しなかった。ベルグラーノ将軍が第三次アルト・ペルー攻略(スペイン語版)に失敗し、北部軍(スペイン語版、英語版)司令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍(英語版)司令官のホセ・デ・サン・マルティン将軍がアンデス山脈越え(英語版)を行い、王党派の牙城リマを攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破ってチリ(チャカブコの戦い(英語版)マイプーの戦い(英語版))、解放者シモン・ボリーバルのコロンビア共和国解放軍から派遣されたアントニオ・ホセ・デ・スクレがペルー(アヤクーチョの戦い(英語版))を解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年にプエイレドン(英語版)が失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年にブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。

    その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州がポルトガル・ブラジル連合王国に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地をめぐって1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、ベルナルディーノ・リバダビア(英語版)を首班とした中央政府が一時的に成立し、このときに国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が国内のすべての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し、再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、内政の混乱が災いし、最終的にはイギリスの介入によってバンダ・オリエンタルを独立国とするモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にウルグアイ東方共和国が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。

    ロサス時代
     
    ブエノスアイレス州知事にして「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス。批判されることが多いが、パンパを代表とするアルゼンチンのもうひとつの精神を体現していた人物である。1835年から1852年まで鉄の統治を敷いた
     
    ロサス時代の国旗

    ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激化する。1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェ(英語版)を打倒した連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル3州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったもののアルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「荒野の征服作戦(英語版)」で敵対していたパンパのインディヘナを今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、大土地所有制を強化した。

    1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガ(英語版)が暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻のドーニャ・エンカルナシオン(英語版)のクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は恐怖政治を敷き、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧・追放され、2万5,000人にも及ぶ市民が粛清された。その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。独裁制はこうした政策により、ブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする上流階級以外の各層から支持を得た。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとった。1833年に マルビナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、島はイギリスに占領されてしまった。しかしながらロサスは、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイをめぐっての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難すべてからアルゼンチン連合を守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)がエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にカセーロスの戦い(英語版)でロサスは敗れ、失脚した。

    国家統一と西欧化
     
    もっとも代表的な自由主義(欧化主義)者、ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(英語版)。1868年から1874年まで大統領を務めた
     
    『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』(ホセ・イグナシオ・ガルメンディア画)

    カセーロスの戦い以後のアルゼンチン連合は、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合の1853年憲法(英語版)は、事実上の起草者だったアルベルディ(英語版)の意向を反映し、きわめて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。

    その後もブエノスアイレス国(英語版)と周辺諸州との間で内戦が続いたが、1861年にブエノスアイレス国がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス国知事ミトレ(英語版)ら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と中央集権政策を進め、アルゼンチン・ブラジル2大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラ(英語版)などが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント(英語版)政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方、パンパではいまだに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にロカ(英語版)将軍の指揮した砂漠の征服作戦(英語版)によってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。

    西欧による搾取から民主化へ
     
    民主化に努めた急進党のイポリト・イリゴージェン(1916年 - 1922年、1928年 - 1930年に大統領を務めた)

    1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「非公式帝国」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこのころから、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』が完成した。

    また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これはのちの急進市民同盟(急進党)へと発展していった。また、1890年の反乱は政府証券を保有していたベアリングス銀行に損失を被らせ、結局1893年恐慌に発展させた。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派のロケ・サエンス・ペーニャ(英語版)大統領は以降行政による選挙干渉をやめることを提案し、司法が行政に優越する新選挙法を成立させた。この選挙法が適用された1916年の選挙では急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出され、寡頭支配が切り崩された。国民主義的な政策をもって政治に臨んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごした。

    戦間期

    民主化の進展によって戦間期には政治も経済も安定に入り、イリゴージェンは1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界第5位の富裕国となった[1]。しかし、1929年の世界恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は急速に不安定化した。

    世界恐慌に対する対策を持たなかったイリゴージェンは、翌1930年に軍事クーデターで追放された。クーデターによって1930年に大統領に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、この試みは失敗した。

    忌まわしき10年間

    ファシズム体制の失敗もあって1932年にフストが大統領に就任すると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。1930年代には19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「忌まわしき10年間(英語版)」と形容された。

    国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ=ランシマン協定(英語版)で、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロック(英語版)(Sterling bloc)に組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のような様相を呈するようになった。

    ペロニスタと軍部の戦い
     
    フアン・ペロン。生涯に3回大統領を務めた(1946年 - 1952年、1952年 - 1955年、1973年 - 1974年)

    このような潮流から次第に国民主義的な意識が国民の間に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(英語版)(GOU)のフアン・ペロン大佐は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。なお第二次世界大戦はスペインやポルトガルなどと同じく中立国として生き永らえ、牛肉などの輸出で豊富な外貨を稼いだ。

    大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらにデスカミサードス(英語版)[2]から聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死去すると政策は傾きだしていった。

    それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデター(リベルタドーラ革命(英語版))でペロンは亡命した。

    フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にもペロニスタ(ペロン主義者)と軍部の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党のフロンディシ(英語版)大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、このときの軍事政権は長続きしなかった。

    しかし、民政移管した急進党のイリア(英語版)大統領を追放した1966年のクーデター(英語版)(アルゼンチン革命)は様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア(英語版)将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権は外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(英語版)(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。

    1973年のこの選挙では正義党(ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三たび大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済ともに悪化の一途を辿った。

    汚い戦争

    1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデター(アルゼンチン・クーデター(英語版))を起こしイサベル・ペロンをスペインに追い払い、再び官僚主義的権威主義体制(国家再編成プロセス)がアルゼンチンに生まれた。

    ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧・弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的なインフレーションを招いた。

    軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初うまくいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりフォークランド紛争(マルビナス戦争)に発展し、イギリスの反撃に遭って失敗した。建国以来初めての敗戦によって高まった国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。しかし、この戦争はアルゼンチンとほかのラテンアメリカ諸国との絆を強め、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響も与えた。

    民政移管

    1983年に、大統領選挙と議会選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任したラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務問題、マルビナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることができなかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線はのちのメルコスール形成につながった。

    また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。こうした政策に対して3度にわたる軍部の反乱もあったものの、アルフォンシンは結果として軍部を文民の統制下に置くことに成功した。アルフォンシンは任期を5か月残して1989年に辞任した。

    1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは、1990年の湾岸戦争に南アメリカで唯一軍を派遣し、1991年には非同盟諸国首脳会議から脱退するなど、先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。軍事面でもメネム時代には「汚い戦争」に携わった軍人の恩赦が認められた一方で、核軍縮や徴兵制の廃止など、軍部の権力の制限がさらに進んだ。

    2001年の債務不履行
     
    デモに参加する人々(2001年)

    一方で経済面では、当初公約で掲げていたペロニスモ路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策をとった。社会インフラや年金をも民営化した新自由主義政策は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と対ドルペッグ固定相場政策で長年の懸念だったインフレーションを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年ごろにはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。1999年の大統領選挙では急進党のフェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利したが、すでに経済は危険な水準に達しており、IMFからの援助や公務員給与の削減なども効果はなく、最終的にはドルペッグ制の破綻をきっかけに、2001年にデ・ラ・ルアは債務不履行を決行した。なお、アルゼンチンはそれまでに6回の債務不履行(1827年、1890年、1951年、1956年、1982年、1989年)を経験しており、2001年の債務不履行は通算7回目となる[3]。

    アルゼンチン経済の崩壊後、アルゼンチンの世界的な評価は地に落ちた。政治面では大統領が次々と入れ替わる大混乱に陥り、社会的にもデモや暴動が多発する異常事態に陥った。しかし2003年に正義党左派から就任したネストル・キルチネルの下で、政治は安定を取り戻し、それまでの新自由主義、市場原理主義と決別した。富裕層優遇をやめ、国民の大多数を占めている貧困層を減らし、中間層へと移行させるなどより、公正な社会を目指す政策を実行した。経済的な再建も進んだ。

    2014年の債務不履行

    2007年10月、正義党からキルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが、同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業・輸出・農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年のアルゼンチンはリーマンショック以降の世界的不況とは裏腹に好調を維持していた。しかしアメリカ合衆国のヘッジファンドが、2001年におけるデフォルト時に債務削減に同意しなかった債権者から返還凍結中の債務を買い取り、全額支払いを求め2014年にアメリカ合衆国において訴訟を提起した[4]。連邦最高裁判所はヘッジファンド側の訴えを認めた。アルゼンチン政府はヘッジファンド側との交渉を続けたが和解に漕ぎ着けず、防衛的措置として「計画的債務不履行」を決行した。

    新自由主義への回帰と経済の破綻

    2015年11月の大統領選挙では、親米・新自由主義政策による経済復興を主張した中道右派のマウリシオ・マクリが勝利[5]した。ルネル時代以前にとられていた格差縮小や富の再分配の重視といった社会主義的な政策よりも、国際金融資本・グローバル資本の利益を重視して経済成長を目指す新自由主義を中心とした政策へと回帰しつつあるとされた[6]。しかしながら、緊縮財政により経済は崩壊しデフォルト危機になった。IMFの主導による社会保障削減策で国民への負担が重くのしかかる一方、マクリ大統領のパナマ文書での租税回避行為が暴露されたことで反政府デモが勃発した。

    反米左派政権の復活へ

    2019年の大統領選挙では左派のアルベルト・フェルナンデスがマクリ大統領を破って当選[7]し、4年ぶりに左派政権が復活することになった。

    2020年の債務不履行

    新型コロナウイルスの感染拡大を理由に債務返済を停止。2020年5月22日、同日が期限だった約5億ドル相当の国債利払いが行われなかったことをもって、通算9回目のデフォルト(債務不履行)に陥った[8]。

    ^ 増田義郎『略奪の海 カリブ』岩波文庫(岩波新書新赤版75)、1989年6月 p.214 ^ 貧民を指す。直訳すれば「シャツなし」だが、ここでは「上着なし」の意 ^ 「アルゼンチン、「デフォルト危機」の顛末」。2014年8月23日、東洋経済新報社。2014年8月26日閲覧。 ^ アルゼンチン、デフォルトした場合の影響は? 2014年7月30日 9:25 AFP BBニュース ^ 「アルゼンチン大統領選、右派野党マクリ氏が勝利 経済自由化訴え」『Reuters』、2015年11月23日。2022年7月20日閲覧。 ^ “アルゼンチンから吹いてきた中南米左派政権の終焉の風”. ニューズウィーク. (2015年12月10日). http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/12/post-4230.php 2015年12月11日閲覧。  ^ “アルゼンチン大統領選、フェルナンデス氏圧勝 左派政権復活へ”. ロイター通信. (2019年10月28日). https://jp.reuters.com/article/argentina-election-idJPKBN1X60U2 2019年10月29日閲覧。  ^ “アルゼンチン、9回目のデフォルト-債権者との交渉は継続”. ブルームバーグ (2020年5月23日). 2020年5月22日閲覧。
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