のコンテキスト アルバニア

アルバニア共和国
Republika e Shqipërisë
国の標語:Ti Shqipëri, më jep nder, më jep emrin Shqipëtar(アルバニア語)
汝、アルバニアは我に名誉、そしてアルバニア人の名をもたらす
国歌:Hymni i Flamurit(アルバニア語)
国旗への賛歌

アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、アルバニア語: Republika e Shqipërisë)、通称アルバニアは、東南ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。

西はアドリア海に面し、対岸はイタリアである。北はモンテネグロ、北東はコソボ(コソボを独立国と認めない立場からすればセルビア)、東は北マケドニア、南はギリシャと国境を接する。

詳細について アルバニア

基本情報
  • 通貨 レク (通貨)
  • 母国語表記 Shqipëria
  • 呼び出しコード +355
  • インターネットドメイン .al
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 6.11
Population, Area & Driving side
  • 人口 2793592
  • 領域 28748
  • 駆動側 right
履歴
  • 古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。

    前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。

    オスマン帝国領時代

    14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まる。スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラム教への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリア等とは異なり、現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家にイコン画を飾る風習など、正教会やカトリックとの共通点を多く持つ)。

     
    提案されたアルバニア公国の国境線(1912年 - 1914年)

    長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、19世紀末には民族意識(ナショナリズム)が高揚し、1878年のプリズレン連盟(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。

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    古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。

    前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。

    オスマン帝国領時代

    14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まる。スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラム教への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリア等とは異なり、現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家にイコン画を飾る風習など、正教会やカトリックとの共通点を多く持つ)。

     
    提案されたアルバニア公国の国境線(1912年 - 1914年)

    長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、19世紀末には民族意識(ナショナリズム)が高揚し、1878年のプリズレン連盟(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。

    独立

    第1次バルカン戦争の途中、1912年にイスマイル・ケマルらがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、列強に独立は認められたものの、国境画定の際にコソボなど独立勢力が「国土」と考えていた地の半分以上が削られた(「大アルバニア」を参照)。1914年にドイツ帝国の貴族ヴィート公子ヴィルヘルム・ツー・ヴィートを公に迎え、アルバニア公国となったものの、第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。

    1920年には君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は不安定であり、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグーが大統領に就任した(アルバニア共和国)。

    その後、ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアには君主政のアルバニア王国が成立した。

    1939年4月7日、アルバニアに上陸したイタリア軍は簡単な戦闘の後、 全土に進駐し[1]、ゾグーは王妃と共に亡命した(イタリアのアルバニア侵攻)。イタリア王国との同君連合という形で国王にはイタリアの国王が即位し、親伊派の傀儡政権が置かれた。第二次世界大戦時の1940年にはイタリアによるギリシャ侵攻(ギリシャ・イタリア戦争、ギリシャの戦い)によって南部の各地域が激戦地となった。翌1941年には、イタリアは同じ枢軸国であるナチス・ドイツなどとともに、アルバニア北隣のユーゴスラビアに侵攻。独ソ戦も始まり、バルカン半島全体が戦場となった。1943年にイタリアが連合国に降伏すると、アルバニアはドイツ軍によって占領された。

    マルクス・レーニン主義時代

    1944年11月29日、アルバニアのパルチザン(英語版)とソビエト連邦軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。

    1946年には王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする共産主義政権が成立した。1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名した。同年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国がコミンフォルムを脱退したことに伴い、ユーゴスラビアと断交した。

     
    社会主義時代の国旗
     
    1992年 - 1998年の国章

    ホッジャ政権は1961年以降、スターリン批判を行ったソビエト連邦を「修正主義」と名指しで非難し、ソ連もニキータ・フルシチョフが第22回ソ連共産党大会においてアルバニアを批判するも、出席していた中華人民共和国の周恩来はアルバニアを擁護し、中ソの路線の違いが鮮明になる。

     
    毛沢東とエンヴェル・ホッジャ

    ソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受け、この時期のアルバニア軍は、兵士が中国人民解放軍の六五式軍服に類似した軍服を着用し、中国製の56式自動歩槍とそのコピーのASh-78を制式小銃に採用して59式戦車やJ-6戦闘機なども配備されるなど、当時のワルシャワ条約機構軍を構成する周辺諸国と比較しても異様な軍隊となる。1968年にはワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とした極端な軍事政策を取った。領土問題を抱えていた隣国ユーゴスラビアとも、チトー大統領を「チトー主義者」であると規定し、激しく対立していた。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また1967年に中国のプロレタリア文化大革命に刺激されて「無神国家」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。更に、1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカ(石灰石は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っている。1970年代には核戦争を想定して、ティラナ東方の山腹に部屋106室、広さ2,685平方メートルの大型核シェルターが建設された[2]。一方で農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成していた[3]。同年、国号を「アルバニア社会主義人民共和国」へ改称した。

    1976年に毛沢東主席の死によって中国で文化大革命が終息し、1978年に鄧小平が改革開放路線に転換するとホッジャは中国を批判した(中ア対立)。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、1980年代には、欧州の最貧国とまで揶揄されるに至った。当時の西欧各国の左派政党が採択していたユーロコミュニズム路線や隣国ユーゴスラビアのチトー主義、更に社会主義国でも同様の独自路線を行っていたルーマニアや北朝鮮[4] すらも批判したホッジャは「アルバニアは世界唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言し[5][6]、事実上アルバニアの鎖国とも言える状況[7] を招いた。体制の引き締めを狙って政府高官の粛清も行われ、ホッジャに次ぐナンバー2の権力の地位にあったメフメット・シェフー首相は、1981年不可解な自殺を遂げている。

    上記のように国際的な孤立を深める一方で、「ホッジャ主義」と呼ばれる独自の理論を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に第三世界の左派において大きな位置を占めていた毛沢東主義者に対して、イデオロギー的に勝利することに成功した。日本共産党(左派)、ブラジル共産党、コロンビア人民解放軍のようにホッジャの思想に共鳴し、一時的ながら毛沢東主義より転向する勢力も現れた。

    1989年から全国的に反政府デモが続発し、ホッジャの後継者のラミズ・アリアが1990年から徐々に開放路線に転化を開始した。当時の情勢については「ソビエト連邦の崩壊」「東欧革命」「ユーゴスラビア紛争」も参照。

    なおこの間に、それまで外交関係がなかった日本国との国交を1981年に樹立している。

    アルバニア共和国

    1991年に国名を「アルバニア共和国」に改称した。アリアは経済の開放とともに政党結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、1992年の総選挙によって、戦後初の非共産政権が誕生した。民主化後のサリ・ベリシャ政権は、共産主義時代の残滓の清算や市場主義経済の導入、外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。しかし、市場主義経済移行後の1990年代にネズミ講が流行し、1997年のネズミ講の破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は一瞬で破綻した(アルバニアのネズミ講(英語版))。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという暴動が発生した(1997年アルバニア暴動)。暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、アルバニア労働党を前身とするアルバニア社会党が与党となり、一応の沈静化を見せたものの、未だ尾を引いているともいわれている。 2005年9月の総選挙で民主党が56議席を確保し比較第一党となり、18議席を確保した国民戦線、4議席の環境農民党・2議席の人権党連合と連立を組んで民主党のサリ・ベリシャを再び政権に送り込んだ。社会党は42議席を獲得し、最大野党となった。

    2007年の大統領選出は立候補が無く、5回期限が延長された。サリ・ベリシャは、大統領選挙を直接選挙制にすべきだとの声明を出したが、2007年の大統領選挙には間に合うものではなかった。社会党党首のエディ・ラマは総選挙を行った上で民意を反映すべきだとしたが、世論はこれを支持しなかった。

    結局、民主党副議長のバミール・トピと社会党前党首のファトス・ナノ(英語版)が立候補を表明したが、社会党はナノを支持せず、欠席戦術を用いた。トピがいずれの選挙でも勝利したものの、得票数が定数に満たないために就任できなかった。また、第3回の選挙には、民主同盟党のネリタン・セカが出馬し、打開への期待からか票を得たものの、第4回の選挙では議会空転を終結させるため立候補を取りやめ、トピを支持した。その結果、出席90名、得票85票でバミール・トピは大統領に選出された。この後、ファトス・ナノは社会党を離党し、連帯行動党を結党した。

    2009年4月28日、ベリシャ首相はプラハを訪問し、欧州連合 (EU) 議長国チェコのミレク・トポラーネク首相にEU加盟を申請した。2014年6月よりEU加盟候補国。

    ^ W.チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦 1』(河出文庫版)P248. ^ “独裁者の核防空壕を一般公開、観光資源に アルバニア”. AFPBBNews (フランス通信社). (2014年11月24日). https://www.afpbb.com/articles/-/3032532?ctm_campaign=pcpopin 2014年12月23日閲覧。  ^ 40 Years of Socialist Albania, Dhimiter Picani ^ Enver Hoxha, "Reflections on China II: Extracts from the Political Diary", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania," Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549. ^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. ^ Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107 ^ 『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』(日本放送出版協会、1987年)
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