Teotihuacán

( テオティワカン )

世界遺産の一つであるテオティワカン(ナワ語群: Teōtīhuacān、スペイン語: Teotihuacan)とは、メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した、テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡。当時のアメリカ大陸では最大規模を誇り、メソアメリカの中心的都市として機能していた。

この地は形成期後期にすでに集落があったが、紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコ(ナワ語群: Cuicuilco)がシトレ火山(英語版)(ナワ語群: Xitle)の噴火によって埋まり、またポポカテペトル山も噴火した。このために人々がテオティワカンの地に移住し[1]、テオティワカンは都市として急速に発展した。テオティワカンは西暦紀元前後から7世紀なかばまで都市として使用され、その時期は4期に分けられる[2]。

ツァクアリ相(1年 - 150年):この時期にテオティワカンははじめて都市として成立し、太陽と月のピラミッドが作られた。 ミカトリ相(150年 - 200年):南北を結ぶ道路(死者の大通り)が建設された。 トラミモルパ相(200年 - 350年):交通・水利・祭祀・住宅・産業などのシステムが整備された。 ショロパン相(350年 - 650年):この時期に人口がもっとも増えた。

テオティワカンは国際的に大きな勢力を持っており、1000キロメートル離れたマヤ地域にも影響は及んだ。378年にはテオティワカン系のシヤフ・カックがエル・ペルーとティカルに侵入し、ティカルの古い石碑を破壊して新しい王朝を建てた[3]。426年にコパンとその衛星都市のキリグアを建設したのもテオティワカン系の人間だったらしい[4]。テオティワカン様式の芸術は古典期マヤ文明に大きな影響を及ぼした。

都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。しかしながら人口の集中に伴い7世紀にはいると急激に衰退し、やがて滅びを迎えた。衰退の主要な原因としては、火事の発生、漆喰の生産のために木材を大量に燃やして森林破壊が起きた、旱魃による農業の衰退、およびそれらに伴う内乱の発生とメスキタル(イダルゴ州)の狩猟採集民の侵入などがあげられる[5]。

^ Manzanilla (2001) p.201 ^ Manzanilla (2001) pp.202-203 ^ Martin & Grube (2000) pp.29-31 ^ Martin & Grube (2000) pp.192-193 ^ Stuart (2001) p.203
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