Xochimilco

( ソチミルコ )

ソチミルコ(スペイン語: Xochimilco)は、メキシコの首都メキシコシティ内にある16の管轄区域(demarcaciones territoriales、2016年までは行政区(delegaciones)と呼ばれた)の一つ。メキシコシティ中心部からは南へ28Km離れている。北はコヨアカン(Coyoacán)、トラルパン(Tlalpan)、イスタパラパ(Iztapalapa)の各区に、西はトラウアック区(Tláhuac)に、南東はミルパ・アルタ区(Milpa Alta)に接している。人口は404,458人(2005年)。

ソチミルコはアステカ以来の伝統を色濃く残す町で、メキシコシティの巨大化で完全にその一部となった現在も独特の雰囲気を残す。ソチミルコの運河を行くトラヒネラと呼ばれる小舟はかつてメキシコ盆地内の重要な交通手段であったが、現在では観光資源となり多くの観光客を乗せている。1944年に大ヒットしたメキシコ映画『マリア・カンデラリア』(María Candelaria)をはじめとする様々な映画が、トラヒネラが行き交いチナンパ(沼の上に浮かぶ農地)の上に花が咲き乱れるロマンチックな土地としてソチミルコを描いてきた。

「ソチミルコ」という地名はナワトル語で「花の野の土地」を意味する。スペイン語ではソチミルコ([sotʃiˈmilko])と発音されるが、ナワトル語ではショチミルコ([ʃoːtʃiˈmiːɬko]、ショーチミールコ)となる。

植民地支配以前のショチミルコ  ソチミルコに残る、沼の上に浮かぶ農地チナンパで除草をする農夫

ショチミルコ(ソチミルコ)における最初の集落は先古典期末期(紀元前200年 - 紀元250年)頃に遡る。このことから、彼らの文化は、同時期にメキシコ盆地南部で栄えた最初の都市であるクィクィルコ(Cuicuilco)と関わりのあったことが考えられる。

しかし古典期に入ると、メキシコ盆地の人口はテスココ湖北東部の大都市テオティワカンに集中し、ショチミルコは盆地の大半と同様に打ち捨てられ、「神々の都市」テオティワカンの支配下に置かれた。6世紀から7世紀にテオティワカンが崩壊した後、ショチミルコの地はテオティワカンの旧住民やメソアメリカ北部から来たチチメカ族などを受け入れた。チチメカ族は古典期末期の大旱魃で故郷を捨てて南のメキシコ盆地へと逃れてきており、同じくメソアメリカ北部から来た遊牧民などを移民として多く受け容れていた。

 「ショチミルコ」と書かれた絵文字。「Tira de la Peregrinación」より

このほかにショチミルコに移住してきた民族に、ショチミルカ族(スペイン語版)(Xochimilcas)がいる。彼らは10世紀から14世紀の間にメソアメリカ中心部へとやってきて、10世紀には祭祀の中心地であるクァイラマ(スペイン語版)(Cuailama)を建てた。現在のソチミルコ付近の山地には先コロンブス期の絵文字などが多く見つかっており、彼らの宗教儀式に関係があるものとみられている。ショチミルカ族は、ソチミルコ湖湖岸に沿った地域、トラウアック(Tláhuac)やミスキック(スペイン語版)(Mixquic)といった湖中の島々、アフスコ山(スペイン語版)(Ajusco)やチチナウツィン山(Chichinauhtzin)を中心とするアフスコ=チチナウツィン山地(スペイン語版)に至る地域に広く住んでいた。ショチミルカ族は、チナンパ農法の発明者でありショチミルコの町の建設者でもあると信じられてきた。またチナンパの発明者ではなく、古くからおこなわれてきた農法を改良したという見方もある。ナワトラカ族(Nahuatlacas)がこの地に来た11世紀から14世紀には、チナンパの技術は最盛期に達している。チナンパはもとはメキシコ中部の湖水地帯の農法であり、アシなどの長い草を刈りとって積み上げたものを水面に浮かせて編み枝で囲い、湖底から集めてきた泥をその上に載せ浮島のようにし、その上に穀物や野菜などを栽培するというものであった。泥の養分と周りの湖の水により作物をよく育てることができた。彼らはチナンパの上に柳の木を植えたが、柳は早く成長してその根を湖底にまで下ろして根を張ったので、これでチナンパを一定の場所に固定することができた。

 ソチミルコの運河 鮮やかに塗られたトラヒネラ

アステカ族(メシカ族)は、ショチミルカ族のことを、メキシコ盆地の湖周辺の町に住む他の部族同様、遠い親戚のようなものと考えてきた。彼らは同じ神話上の故郷チコモストク(Chicomoztoc、「七つの洞窟の場所」)を共有していた。伝説によれば、チコモストクの七つの洞窟には異なった部族が暮らしていたが、その中にショチミルカ族とアステカ族がいた。チコモストクからアストランへ出て暮らしていた彼らは、やがてアストランを去り南へ向かい、メキシコ高原を放浪した。しかしアステカ族がメキシコ盆地にたどり着いたとき、ショチミルカ族はすでに盆地の南部に定着していたという。アステカ族はやがて、クルワカン市(Culhuacán)のトラトアニ(tlatoani、王)であったコシュコシュ(スペイン語版)(Coxcox)の手下となっていたショチミルコ市とトラウアック市に宣戦した。1323年にアステカはショチミルコのトラトアニであったアカトナリ(Acatonalli)を破った。彼らはクルワカンの支配を離れ、アステカの王はクルワカンとの同盟の証としてコシュコシュの娘イランクエイトル(Ilancueitl)を妃として迎えた。しかしアステカがシペ・トテックへの生贄に彼女をささげたために、アステカとクルワカンの間の敵意が増した。クルワカンはアスカポツァルコ(現在のメキシコシティ北端)のテクパネカ族(Tecpanecas)と結び、1367年にアステカを破った。

1376年、テクパネカの支配下でテノチティトラン市を築いていたアステカは、再びショチミルコを破った。しかしショチミルコはアステカの支配下とならず、テクパネカが支配するアスカポツァルコの領土に併合された。アステカはテクパネカと同盟を結び服従していたが、テスココ族と結んで、テクパネカの王位を簒奪したマシュトラ(Maxtla)に対し戦いを挑んだ。1428年、アステカはテクパネカに対して勝利した。その2年後、ショチミルコは三度アステカの攻撃を受けた。この戦いは決定的なアステカの勝利に終わり、ショチミルコはテノチティトランを都とするアステカ王国に併合された。ショチミルコの民はアステカの首都建設やその他の土木事業などでの労働を強制され、チャプルテペック(Chapultepec)の水道、イスタパラパの大通り、ネサワルコヨトルの石堤(albarradón)などを建設している。

スペイン人のメキシコ征服と植民地期のソチミルコ  ソチミルコのサン・ベルナルディノ教会(スペイン語版) ソチミルコの運河とトラヒネラ

スペイン人がアステカにやってきて征服を開始した頃、クアウテモック王はテノチティトランの防衛のためにショチミルコへ赴き救援を要請したとの言い伝えがある。その道中、クアウテモック王はアウェウェテ(ahuehuete、ラクウショウの一種メキシコラクウショウ(英語版))の木を植えたという。この木は現在もバリオ・デ・サン・フアン(スペイン語版)に立っている。エルナン・コルテスとその部隊は1521年4月16日にショチミルコを征服し、続いてチュルブスコ(スペイン語版)(Churubusco)、コヨアカン(Coyoacán)、オアステペク(スペイン語版)(Oaxtepec)、クエルナバカ(Cuernavaca)を相次いで征服した。

テノチティトランの征服が一段落すると、ショチミルコの最後の支配者であるトラトアニ(王)のアポチキヤウツィン(スペイン語版)(Apochquiyauhtzin)はキリスト教に改宗した。これが自発的なものか強要されたものかは分かっていない。彼は1522年6月6日に洗礼を受けた後、エルナン・コルテスおよびペドロ・デ・アルバラードの二人の征服者から名を取ってルイス・コルテス・セロン・デ・アルバラード(Luís Cortés Cerón de Alvarado)と改名した。彼は征服者の傀儡としてソチミルコの統治者の地位に納まったが、実際にはコルテスがアルバラードにソチミルコ地区の土地と民を征服の直後に与えていた。アルバラードは1541年の死までソチミルコの実権を握っていた。

ソチミルコとその周辺の住民に対するキリスト教改宗はフランシスコ会の宣教師が監督した。1534年から1579年にかけてフランシスコ会の僧院が建てられたが、現在ではソチミルコ大聖堂の一部となっている。スペイン王フェリペ2世はソチミルコを市に昇格させ、以後ソチミルコは正式には「高貴な都市ソチミルコ」と呼ばれていた。植民地当局はソチミルコ湖におけるチナンパ農法の繁栄を支えた土木事業に対しては関心を示さなかったため、1609年には大洪水が起こっている。1576年には天然痘の大流行(ウェイコロリストリ、hueycololiztli)が起こった。1777年にも天然痘が大流行した。この天然痘は18世紀のヌエバ・エスパーニャ植民地における人口激減の危機をもたらしている。

ソチミルコはメキシコシティとは湖を使った水運で緊密に結ばれていた。ソチミルコは、東の方の町からメキシコシティへ、トラヒネラ(trajineras, 小舟)で向かう際の中継地でもあった。16世紀半ばにはソチミルコ湖はテスココ湖などメキシコ盆地の他の湖から孤立し始めたため、ソチミルコとメキシコシティの間の水運は運河(Viga)が中心となった。

19世紀と20世紀のソチミルコ  ソチミルコLRT(エスタディオ・アステカ駅(スペイン語版)

メキシコ独立戦争後、ソチミルコはメヒコ州の一部となった。当時の産業は農業が主であり、湖や運河に浮かぶチナンパで収穫された作物は、トラヒネラに載せられて運河を経てメキシコシティの大きな市場へと運ばれていった。1850年にはメキシコシティからソチミルコへの鉄道が開通し、都市間の運送量は飛躍的に拡大した。トラヒネラはなおもソチミルコ周辺の主な交通手段だったが、1908年にメキシコシティ=ソチミルコ間の都市間鉄道(路面電車)が開通するとトラヒネラは観光用に使われるのみとなっていった。この路面電車は現在もライトレールとして運行しており、メキシコシティの地上の電車網の一部として、政府のメキシコシティ電気交通公社(スペイン語版)(Servicio de Transportes Eléctricos de la Ciudad de México、STE)が支援を行っている。

メキシコ革命の時期にはソチミルコも戦場となった。1911年にはモレロス州から来たエミリアーノ・サパタ率いる革命軍がメキシコシティに侵入した。彼らは指令部をメキシコシティ南部のミルパ・アルタ区に置いたが、やがてソチミルコ区に移動しようとし、ソチミルコの町は戦火に包まれた。1914年にはエミリアーノ・サパタとフランシスコ・ビリャ(パンチョ・ビリャ)はソチミルコの中央市場前の家屋で「ソチミルコ綱領」(Plan de Xochimilco)に調印している。

1968年メキシコシティーオリンピックではソチミルコでも五輪に向けた建設事業が行われた。クエマンコ運河(Cuemanco)の一部はオリンピックのボート競技およびオリンピックのカヌー競技の会場(「Virgilio Uribe」)へと改造された。区の郊外では、大きなバイパス道路も建設された。20世紀の後半、特に1970年代以降はコナベーションが起こり、メキシコシティとソチミルコの市街は一体化し、間にあった土地はほとんどすべて都市化している。

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Daani tru - CC BY-SA 4.0
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