Cattedrale di Santa Maria del Fiore

( サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 )

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレだいせいどう、イタリア語:Cattedrale di Santa Maria del Fiore)は、イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会である。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意である。

 大聖堂の内部空間

旧聖堂はサンタ・レパラータ教会堂と呼ばれ、フィレンツェで二番目に古い教会堂だった。この遺構は現在の聖堂の地下に埋まっている。この教会堂は393年に古代ローマ時代のドムス跡に建設され、ミラノ司教アンブロジウスによって献堂されたが、ビザンティン時代の戦役によって破壊されたために、7世紀から9世紀にかけて修復されロマネスク様式の建築となった。現在、遺構の一部は公開されており、側廊を持ち後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。

フィレンツェの街が発展していく中で、教会堂は次第に手狭となっていった。14世紀に至るまで、建築、芸術の分野で目立った実績のなかったフィレンツェだったが、ピサやシエナの大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ規模の大聖堂の建設が計画された。1294年、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な石工であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。のちに多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。

1296年9月8日の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課すことを決定した[1]。しかし1302年にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、ヴェッキオ宮殿と第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、1334年にジョットを指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中(1337年)に死去した。

1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにタレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはドーム部分を残すのみとなった。

 大聖堂のドーム

14世紀末から、ドームの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(ドームの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事は難しい局面に入った。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、ドームの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。(当時の建築技術で)ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはドーム頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた(この献堂式の際にギヨーム・デュファイ作曲のモテット「バラの花が咲く頃」が演奏された)。このドームは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。

ブルネレスキはドームを完成させたが、頭頂部のキューポラ については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにキューポラを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成した。

天蓋の天頂にあるブロンズ製の球は彫刻家ヴェロッキオが製作した。当時、ヴェロッキオの弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、このブロンズ球を天蓋に揚げる際に使われたフィリッポの機械に魅了され、スケッチに取って絶賛した[2]。

また、レオナルド・ダ・ヴィンチはパリ手稿Gで「私達がサンタ・マリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆している[3]。

 大聖堂の正面

外観で最も重要な部分である大聖堂西側のファサード(正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし1490年代には、このファサードは堅固でないという報告がされた。ロレンツォ・デ・メディチによってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。1587年に、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去した。これはフランチェスコ1世が構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時1689年に石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェ市議会は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンペティションが行われ、エミリオ・デ・ファブリス設計によるネオ・ゴシック様式のファサードが選ばれた。この工事は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。

^ 森田義之監訳『ヴァザーリ ルネサンス彫刻家建築家列伝』p16。 ^ Ross King, Brunelleschi's Dome, p. 69 ^ Paolo Galluzzi, "Leonard de Vinci, engineer and architect",p. 50
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