ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれた重要な交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ大公国分裂後の1136年、北方にノヴゴロド公国が建国された。首都ノヴゴロドはネヴァ川水路でバルト海と繋がっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれ、商業の中心地として繁栄した。また、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間にネヴァ河畔の戦いが起こり、この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド公国側が勝利し、その後アレクサンドルは自らの名に「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加え、アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。その後はモスクワ公国領となっていたが、1617年、ストルボヴァの和約によりスウェーデンがここを支配下に置いた。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、バルト海南岸に領土を拡大し、バルト海沿岸の交易を独占する大帝国となった(バルト帝国)。
ロシア帝国時代1700年に始まった大北方戦争でスウェーデンの要塞を陥落させ、ネヴァ川河口を占領したピョートル1世は、1703年5月27日(当時ロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始した。これがサンクトペテルブルクの歴史の始まりとされ、現在では5月27日は建都記念日として市の祝日となっている[1]。当時、この地域はイングリアと呼ばれ、荒れ果てた沼地であったが、ピョートル1世は、内陸のノヴゴロドに代わるロシアの新しい貿易拠点となる都市を夢見ていた。建設は戦争と同時進行であったため労働条件は過酷で、1万人ともいわれる人命が失われたという。建設費用と戦費は借款によって賄い、後に貿易によって生じる利益で返済する計画だったため、経済面においてこの都市にかかる期待は非常に大きかった。1713年、ポルタヴァの戦いに勝利後、この地が首都と定められた。1721年、大北方戦争が終結し、ロシアと同盟国側の勝利となり、戦後のニスタット条約によりフィンランド湾沿岸のスウェーデン領が正式にロシアに編入された。
1725年に皇帝エカチェリーナ1世がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた[2]。翌年ロシアがウィーン同盟に加盟したため、ロシアの仮想敵国はプロイセンだけとなった。1728年イスタンブールに印刷所が開設され、オスマン帝国の情報が黒海経由で科学アカデミーに集積され、ライン川へ送られた。1734年、英露通商条約[3]。ロシアはオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)でブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒに軍政を委ね、アゾフ海とクリミア半島の奪取に成功した。
歴代ロシア皇帝は帝都サンクトペテルブルクの整備を続け、1754年には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿として冬宮が完成し、ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。1757年には演劇アカデミーが創設された。エカチェリーナ2世の時代の1762年には冬宮の一角に後のエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約を締結[3]。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣であるアシグナツィアを流通させた[4]。この年アムステルダムでロシア初の外債も発行した[4]。このため市章はラバルムをモチーフとした。1779年、アシグナト銀行が設立された。ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した[4]。1787年、仏露通商条約[3]。
1800年、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する[2]。フランス皇帝ナポレオン1世の侵攻による1812年の祖国戦争において第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した[4]。1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱が起きたもののすぐに鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設された。この鉄道事業には、ベアリングス銀行とホープ商会が投資していた[4]。1851年にはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道が完成した[5]。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設立した。このときロスチャイルドのロシア投資を仲介するアレクサンドル・スティグリッツが初代総裁となった[4]。1869年、人口は67万人になった[2]。1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている[6]。
1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図 ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆1894年、ロシアがドイツ帝国と通商条約を結んだ。1897年、国立銀行が中央銀行となる。1898年6月、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリバの支配に対抗した。19世紀末には聖イサアク大聖堂や血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物の多くはこの時期に建設された。また、サンクトペテルブルク市民の経済力も向上したため、ネフスキー大通りを中心に豪奢な建築物が立ち並ぶようになった。
1905年10月、サンクトペテルブルクでソビエトがゼネストを起こす。1907年、英露協商。1910年には人口は190万人に達していた[2]。同年、露亜銀行が誕生した。この頃、株式商業銀行を含めたサンクトペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で支配力を急速に増した[4]。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果である。1912-14年、ロシアの大銀行がパリ・ロンドンなどの国際金融市場へ支店・持株会社を設立した[4]。1913年にもサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。
ソビエト連邦時代 スモーリヌイ修道院 ソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がモスクワに移されるまでソビエト政府の中枢であったロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉軍の派遣を恐れ、首都を国境地帯に近いペトログラード(サンクトペテルブルク)からモスクワに移転。1922年にモスクワが正式に首都と定められたことで、サンクトペテルブルクは首都の地位を失った。1924年にロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが死去すると、その功績を称えペトログラードは「レーニンの街」の意であるレニングラードに改名された。
レニングラードはフィンランドとの国境地帯に近いため、有事の際はフィンランド軍によって占領される危険性があった。そこでヨシフ・スターリンはフィンランドに対してレニングラード周辺のフィンランド領の割譲を要求したが、フィンランド政府がこの要求を断固拒否したため、1939年に冬戦争が勃発。当時のソ連軍とフィンランド軍の戦力差は絶望的であり、当初はソ連の圧勝かと思われたが、フィンランドは善戦し、ソ連軍は多大な犠牲を払うこととなった。しかし結局翌1940年にはレニングラード周辺地域の割譲をもって講和がなされ(モスクワ講和条約)、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営への参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ軍による約900日(872日[7])、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍はレニングラード市民の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側はこの苦境を耐え抜き、最後までにレニングラードがドイツ・フィンランド軍の占領を受けることはなかった。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。
戦後もレニングラードはソ連第二の都市として大きな存在感を持っており、その歴史的経緯や地理的要因から首都であり最大都市のモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることはソビエトの政治体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力闘争でも大きな影響力を持つことになった。なお、ロシア革命以降でレニングラード(サンクトペテルブルク)出身者がロシアのトップに登り詰めたのはソ連崩壊後の2000年にロシア大統領に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてである。
ロシア連邦成立後1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。2006年には第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナのコンスタンチン宮殿[8]。
2013年よりラフタ・センターという、高層ビルを含む5つの建物で構成される複合施設が市の郊外に建設されている。高層ビルは高さ462mに達しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。
2019年10月1日より、電子査証によるサンクトペテルブルクおよびレニングラード州への訪問が可能となった[9][10]。
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