サンピエール島・ミクロン島

サンピエール島およびミクロン島
Collectivité territoriale de Saint-Pierre-et-Miquelon

サンピエール島およびミクロン島(フランス語: Saint-Pierre-et-Miquelon)は、北アメリカにあるフランス領の群島。カナダ・ニューファンドランド島の南、セントローレンス湾内にある。サン=ピエール島はニューファンドランド島南部ビューリン半島西端から南西19kmにあり、ミクロン島は同じくビューリン半島西端から南西21kmにある。元は海外領土であり、その後特別な地位を持つ地方自治体、現在は海外準県(collectivité d'outre-mer; COM)となっている。

群島を構成するのは主に2つの島である。サン=ピエール島は海外準県の人口のおよそ86%が集中する最小の島であり、ミクロン島は3つの半島で構成されている。他にも無人島や小島がある(ヴェルト島の主権は、フランスとカナダの間で係争中である)。

群島は、アメリカ大陸に7つあるフランス領土(グアドループ、マルティニーク、ギュイヤンヌ・フランセーズ、サン・マルタン島、サン・バルテルミー島、クリッパートン島)の1つであり、18世紀半ばの七年戦争で失われたヌーヴェルフランスの北アメリカ唯一の名残である。

島を訪れたのはパレオ・エスキモー人(fr)である[1]。それは、グロスウォーター人(紀元前800年から紀元前100年頃。古パレオ・エスキモー人)、そしてドーセット人(西暦100年から900年頃、ドーセット文化を生み出す。新パレオ・エスキモー人)である[2][3]。1100年から1500年の間に、ベオスック(fr)の祖先たちがサン=ピエール島のアンス・オ・アンリに居住地をかまえた。

植民地化
アンリ=フェリックス・ド・ラモットは、19世紀後半にサンピエール島およびミクロン島の司令官その後総督となった 
アンリ=フェリックス・ド・ラモットは、19世紀後半にサンピエール島およびミクロン島の司令官その後総督となった
1713年以降、ユトレヒト条約によってヌーヴェルフランスはサンピエール島およびミクロン島を失った 
1713年以降、ユトレヒト条約によってヌーヴェルフランスはサンピエール島およびミクロン島を失った
1759年のケベック征服は、サンピエール島およびミクロン島がフランスに復帰する1763年のパリ条約の源となった 
1759年のケベック征服は、サンピエール島およびミクロン島がフランスに復帰する1763年のパリ条約の源となった

ポルトガル人航海士ジョアン・アルヴァレス・ファグンデスが島に上陸した1520年10月21日の日付が、発見日としてしばしば引用されるが、島の発見はもっと古かった可能性がある。1497年にジャン・カボットが発見していたというものである。また、航海者たちの間で1524年にヴェラッツァーノが発見していたと引用されている。ともかく、16世紀に島々はノルマン人漁師、ブルトン人漁師、バスク人漁師の拠点となり、バスク人漁師が最初に恒久的な拠点を築いたのは1604年にさかのぼる。バスク人たちはそこで捕鯨を行っていた(北アメリカでの捕鯨が早くから行われていたことを参照すれば、日付がさらに古くなる)。捕獲されていたのは間違いなくヒゲクジラ(バスククジラとも呼ばれた)、ホッキョククジラ、コククジラであった。こうした漁師たちの生まれが、サンピエール島およびミクロン島の旗に表現されている。

しかし、18世紀、1713年にユトレヒト条約が批准され、コート・フランセーズ・ド・テール=ヌーヴとして知られる、ニューファンドランド島沿岸で独占的に漁業を行う権利がフランスに付与されると、島は放棄された。その後、1763年のパリ条約で、サンピエール島およびミクロン島はフランスに復帰した。アメリカ軍とフランス軍に敗北した後、ノバスコシアに駐留していたイギリス軍は島々を攻撃し、1755年に住民たち(アカディア人追放によって生まれた難民たちを含む)を国外追放とした。しかし、群島は1783年のヴェルサイユ条約で再びフランス領となった。

数名の著名な旅行者が未開発の島々を訪れた。1768年に地理学者ジャン=ドミニク・カッシーニ、1791年には文筆家シャトーブリアンが訪れ、著作『墓の彼方の回想』において群島を不滅のものとした。

フランス革命のさなか、アカディア人のコミュニティはマドレーヌ諸島に避難するために突然ミクロン島を離れた。それは、サン=ピエール島の共和国派運動が、1793年の新たなイギリスの攻撃で突然終了したからである。ルイ18世による復古王政まで、フランス領サンピエール島およびミクロン島に対してイギリスの攻撃が減少することはなかった(当時のノバスコシアはイギリス領であった)。

植民地の発展と初期の繁栄

北アメリカとニューファンドランドの漁場への途上にある簡素な足跡、そして古のヌーヴェルフランス最後の名残である、漁師が暮らす小さなフランス植民地を研究する当時の著名な訪問者の中には、1850年代に訪れた外交官で文筆家のアルテュール・ド・ゴビノー、1888年から1890年まで群島に滞在した医師アルベール・カルメットがあげられる。

19世紀後半、タラ漁のおかげでサンピエール島およびミクロン島は著しい経済成長を遂げた。

群島はフランス領植民地であったためアメリカの法律(ボルステッド法)が適用されず、アメリカの禁酒法時代に特別な役割を果たした。1919年から1933年にかけて、カナダおよびアメリカ沿岸にフランス産ワインとウィスキーを密輸する、酒の密貿易で真の繁栄を享受した。カナダで建造されるか、サン=ピエール島民が組み立てたスクーナー船かスピードボート(ラム・ランナーと呼ばれた)で酒を密輸したのである。これがブートレッガー(fr、酒の密輸業者)の時代である[4]。

1933年に禁酒法が解除されるまで、年間最大30万ケースのアルコール飲料が群島を通過した。アルコール飲料のケースに使われた木材は島で放棄され、燃料に使われるか、全体が同名の酒の木箱で建てられたヴィラ・カティ・サークを含む多くの住宅建設に使われた[5]。1970年代には、酒のケースやフランス産シャンパンの板で覆われた小屋がサン=ピエール島にまだあった。

ニューファンドランドの船乗りたちは木箱に入った酒を受け取った。彼らはジュート袋に酒を移し替えて、木材を回収した。密輸船がアメリカの沿岸警備隊の船に妨害されると、警備隊が前進してくる船の反対側で、酒の入った袋を海に投げ込めば十分だった。袋はすぐに沈んだ。警備隊の乗員が乗り込んだ時には、密輸の痕跡は深海に沈んでしまっていた。貨物は失われたが、犯罪者を刑務所での苦しみから救った。密輸で逮捕される危険は、送料の一部に上乗せされており、受取人が支払う法外な金額を正当化していた。これにより、本当にヨーロッパから輸入された酒よりも、安価な密造酒が広まることになった。

第二次世界大戦

第二次世界大戦中、1940年6月22日の停戦とドイツ軍によるフランス一部占領の後、サンピエール島およびミクロン島はヴィシー政府管理下に置かれた。

群島の総督ジルベール・ド・ブルナは、フランスの金準備金で賄われた助成金を手に入れるため、アメリカ当局と交渉しなければならなかった。彼は直属の上司であるジョルジュ・ロベール提督から委任されたのである。提督は、1939年9月に西大西洋地域担当高等弁務官(グアドループ、マルティニーク、サンピエール島およびミクロン島、フランス領ギアナに対する権限を持つ)に任命されていた。

同じ時期に、隣国カナダは、アメリカ政府の後援で、サンピエール島およびミクロン島を占領するための上陸計画を準備していた。ヴィシー政府のプロパガンダ放送を行うラジオ局が群島に所在することを含む、いくつかの口実が提示された[6]。一部の人々は、このラジオ局がニューファンドランドの漁場で活動するドイツのUボートを支援したとさえ主張していた[6]。カナダ首相マッケンジー・キングはこうした計画の実行を許可しなかった。

この時代、地質学者エドガール・オベール・ド・ラ・リュエ(fr)がサン=ピエール島に居住していた。

アメリカおよびカナダ両政府と意見が相違していたにもかかわらず、ロンドンのド・ゴール将軍の命令で、エミール・ミュゼリエ海軍中将(fr)は、サンピエール島およびミクロン島に上陸した(fr、自由フランスによるサンピエール上陸)。上陸は、アメリカとカナダの当局が知らぬ間に行われ、そして助言に反していたが、チャーチルから最初に同意を取り付けていた[6]。この1941年12月24日の出来事によって大いに議論が巻き起こり、ルーズヴェルト大統領のド・ゴールに対する不信感が強くなった。ミュゼリエ海軍中将は、自由フランスに有利な国民投票を組織した[6]。したがって、サンピエール島およびミクロン島は、自由フランスに参加した最初のフランス領土となった。

3年後の1944年6月6日、キーファー中佐の指揮でノルマンディーに上陸した自由フランス海軍フュージリアー海兵隊第1大隊177名の中には、ルネ・オータン兵長がいた。オータンはサンピエール島およびミクロン島が自由フランスに合流した後、自由フランス軍に加わった。オータンは1921年10月27日に群島で生まれ、1960年1月11日に群島で死去した。

現代

第二次世界大戦後、1946年に旧植民地から海外領土(Territoire d'outre-mer、TOM)に昇格した。

1960年1月3日、サンピエール島およびミクロン島全体議会の全議員14人のうち11人と、元老院議員アンリ・クレーローは、群島に新たにフランス・フランを導入したことで発生した経済危機を非難するため辞職した。

ド・ゴール将軍は、有名なケベック訪問に出発する前、防空巡洋艦コルベールに乗船して1967年7月20日に島を訪問し、自由フランスにおいてサンピエール島およびミクロン島が果たした役割に謝意を示した。これはフランス国家元首が行ったわずか4回のサンピエール島およびミクロン島訪問の1つである(他は1987年のミッテラン、1999年のシラク、2014年のオランドによるもの)。

1976年7月19日、海外領土はさらに共和国との統合を進め、海外県(département d'outre-mer、DOM)となった[7]。1985年6月11日の85-595法によって特別地方自治体の地位を獲得した。2003年3月28日の憲法改正は、海外準県(collectivités d'outre-mer、COM)というカテゴリーを創設し、ここにサンピエール島およびミクロン島が含まれた。現在の地位は、2007年2月21日の基本法第2007-223によって、地方自治体の一般規定に固定されている。

伝統的に、サンピエール島およびミクロン島は、200海里の排他的経済水域に付随する漁業権のため、大きな経済的関心を示してきた。こうした国際ルールの適用について仏加間の異なる解釈が、カナダ側がフランスのトロール船クロワ・ド・ロレーヌ号を拿捕した1988年から生じた。

1992年にニューヨークで行われた国際的な仲裁によって、以後、群島に東に12海里、西に24海里、幅が10海里で南北に長い全長200海里の回廊が、排他的経済水域として割り当てられた。

^ "« Les Paléoesquimaux : d'où viennent-ils ? »". arche-musee-et-archives.net. L’Arche musée et archives de Saint-Pierre-et-Miquelon - Collectivité territoriale de Saint-Pierre-et-Miquelon. 2013年9月18日閲覧. ^ "« Groswater (800 à 100 av. J.-C.) »". arche-musee-et-archives.net. L’Arche musée et archives de Saint-Pierre-et-Miquelon - Collectivité territoriale de Saint-Pierre-et-Miquelon. 2013年9月18日閲覧. ^ "« Dorset (100 à 900 ap. J.-C.) »". arche-musee-et-archives.net. L’Arche musée et archives de Saint-Pierre-et-Miquelon - Collectivité territoriale de Saint-Pierre-et-Miquelon. 2013年9月18日閲覧. ^ fr:Jacques Nougier, Les Bootleggers de Saint-Pierre, Provinces maritimes, SPM, L'Harmattan, Paris,‎ 2002, 302 p. (ISBN 2-7475-2332-2, lire en ligne). ^ fr:Bruno Fuligni, Folle Histoire. Les aventuriers des îles, Éditions Prisma,‎ 2016, p. 67. ^ a b c d fr:Winston Churchill, The Second World War, Plon, 1948-1954 ; rééd. La Deuxième Guerre mondiale, Le Cercle du Bibliophile, 12 vol., 1965-1966, tome sixième, « La grande alliance – L'Amérique en Guerre, 1941–1942 », chap. XV : « Washington et Ottawa », p. 303-304. ^ Loi n°76-664 du 19 juillet 1976.
写真提供者:
Statistics: Position
1091
Statistics: Rank
104142

コメントを追加

この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

セキュリティー
159234768このシーケンスをクリックまたはタップします: 7478

Google street view

どこの近くで寝れますか サンピエール島・ミクロン島 ?

Booking.com
489.353 総訪問数, 9.196 興味がある点, 404 保存先, 180 今日の訪問.