الصحراء الكبرى

( サハラ砂漠 )

サハラ砂漠(サハラさばく、الصحراء الكبرى‎, al-Ṣaḥrāʾ al-Kubrā, アッ=サフラー・アル=クブラー)または単にサハラ は、アフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大級の砂漠である。

南北1,700キロメートルにわたる。面積は約1,000万平方キロメートルであり、アフリカ大陸の3分の1近くを占め、アメリカ合衆国とほぼ同じ面積である。

サハラ砂漠周辺への人類の定住は古く、50万年前にさかのぼる。石碑などの出土品からは、当初この地帯は湿潤な気候で、野牛などの狩猟が行われたことが伺われる。アフリカ沿岸の航路が開拓されるまでは、サハラ砂漠内にはいくつかの重要な通商路が存在した。考古学的にも、サハラ周辺とほかの地域との交易が有史以前から行われたことが明らかにされている。アルジェリア南東部のタッシリ・ナジェールやニジェール北部のアイル山地、リビア西部のタドラルト・アカクスなどでは洞窟壁画が発見され、その移り変わりによってサハラの気候変化と、それにともなう人々の生活の変化がわかる重要な資料となっている。

 リビアで発見された壁画先史時代 ブバルス時代 (Bubalus period):紀元前35000年ごろから紀元前8000年ごろ 野牛、ゾウ、カバなど、今日ではこの地域で絶滅した動物が生息したことが伺われる。 人間はおもに棍棒で武装したものと推定される。ほかに斧や弓も使用されたが、槍は使用されなかった。また一部では兜も用いられた。 家畜時代 (Cattle period):紀元前7500年ごろから紀元前4000年ごろ 家畜の飼育が普及した。ヒツジとヤギが飼育され、窯業が始まった。 研磨による石斧や石の鏃などが生産されるようになった。弓矢はおもに狩猟のために使用された。家畜類はアジアから輸入された。 この時代の後期には村落が形成され、それまでより多数の人口が維持可能になった。また家畜の群れを飼育することも行われるようになった。 イマジゲン時代 (Imazighen period):紀元前3000年ごろから紀元前700年ごろ この時代の初期にはウマ、ラクダ、乳牛の飼育が行われるようになった。イマジゲン(アラビア語: إيمازيغن‎ ; Īmāzīghan)とはいわゆるベルベル人のことである。 紀元前1220年ごろから、フェニキア人との交易により鉄器がもたらされた。 サハラ砂漠からエジプトに渡っていくつかの王国による連合体が作られた。これらの王国は海岸付近に位置したが、中には砂漠の中におよぶものもあった。歴史時代  13世紀~15世紀初頭のマリ帝国とサハラ交易路

このころから、地中海沿岸には都市国家が栄えるようになった。中でも有力なものは地中海に面するフェニキア人の植民地を元とする都市国家カルタゴであり、紀元前8世紀ごろから紀元前3世紀ごろにかけて繁栄した。共和政ローマによってカルタゴが滅ぼされると、これらの地域はローマの勢力下に治められ、アフリカなどいくつかの属州に分割された。しかしこれら諸国の支配は海岸部に限られ、サハラ砂漠内におよぶことはなかった。紀元前20年にはローマ帝国軍がフェザーンに攻め込んでガラマンテスの首都ガラマを占領している[1]が、恒久的に領土化することはなかった。

サハラ砂漠内の諸民族で、もっとも早く文献に登場するのはトゥアレグ人の先祖であるガラマンテス人である。これは現在のフェザーンに本拠を置いた民族で、紀元前5世紀ごろから5世紀ごろまで栄えた。ガラマンテス人は馬車を使用し、穴居する黒人を狩ったとされる。この時代の馬車の絵がトリポリからガオまで、またアルジェリア南部からセネガル方面までの2ルートで砂漠を縦断するように発見されており、砂漠の縦断ルートはすでに形成されていたことがうかがえる。しかし、馬車の絵は常に戦闘状態にて描かれ、またサハラの南北双方においてサハラを越えた先の物品の出土がないことから、この時代にはサハラを越えての通商はまだ行われていなかったと推測されている。

サハラの歴史に重大な転機が訪れるのは3世紀ごろである。このころサハラにラクダが普及し始め[2]、馬に比べてはるかに砂漠に強いラクダの使用によって砂漠越えの通商が採算に合うようになったのである。このころから、サハラに居住する民族によってサハラ交易が徐々に拡大していった。やがてローマ帝国が衰えると、429年ごろにヴァンダル人がイベリア半島経由で北アフリカに進入し、ヴァンダル王国を築いた。ヴァンダル王国532年ごろに東ローマ帝国によって再び征服された。

647年ごろにイスラム帝国が北アフリカを征服すると、サハラ交易はさらに盛んになっていった。北アフリカにおけるイスラム教の隆盛とアラブ人の進出とともに、砂漠に住むベルベル人たちもハワーリジュ派のイスラム教を受け入れ、サハラ砂漠は徐々にイスラム教化されていった。このころ、砂漠の南のサヘル地帯にも西アフリカ最初の黒人帝国であるガーナ王国が成立し、サハラ交易、特に塩と金の交易に基盤を置いて繁栄した。

サハラ交易の基盤は、北の塩と南の金の交換にあった。北の塩床から塩を切り出して砂漠を越えて南へ運び、サヘルの黒人王国まで運んでいく。黒人王国はこの塩をさらに南、セネガル川やニジェール川最上流の産金地帯まで運んでいき、ここで金と交換して自国へ戻り、この金を北の商人に渡す。この流れは16世紀にポルトガル人が海岸地方に来航するまでサハラ交易の基本システムとなった。

1040年、ベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族の間でイスラム教の改革運動が起き、1056年、この教団がムラービト朝を建国した。ムラービト朝はサハラを北進してサハラ交易の一中心であったシジルマサを押さえ、モロッコ、さらにはスペイン南部を占領する一方、南のガーナ王国に対して1061年ごろジハードを宣し、1076年にこれを滅ぼして、サハラ砂漠の南北にまたがって領土を持つ最初の国家となった。1087年にはガーナが再独立したものの、往年の力はなく、やがて13世紀に入るとその南のマリ帝国が力を持つようになり、西アフリカの覇者となった。マリはニジェール川流域を支配下に置き、やはりサハラ交易によって栄え、マンサ・ムーサ王がサハラ砂漠を越えてメッカへと巡礼に向かうなどしたが、15世紀には衰えた。

マリのあとに西アフリカを支配したのはソンガイ帝国である。14世紀に強大となったこの王朝は、サハラ中央部のテガザ塩鉱を支配下に置き、塩と金の双方を支配下に置くことで繁栄した。しかし、16世紀末にテガザ塩鉱の支配権をめぐって北のモロッコのサアド朝と紛争を起こし、1592年にサアド朝の遠征軍によって滅ぼされた。これによってサアド朝もサハラの南北にまたがって領土を持つこととなったが、サアド朝本国の内乱によってこの支配はわずか22年で終了する。この後もニジェール川流域に土着したモロッコ系豪族によってモロッコの名目上の支配は続くものの、西アフリカの統一も、サハラの南北統一も二度となされることはなく、サハラの西側を通る交易ルートは徐々に衰退していく。

これに代わって、すでに15世紀にエジプトのマムルーク朝の勃興とともに復活していたサハラの中央部を通る交易ルートが隆盛に向かった。このルートは南に金鉱を持たなかったため発達が遅れていたが、北の馬と南の奴隷を柱とする交易で栄えるようになった。この交易ルートを押さえていたのが、チャド湖を中心に栄えたカネム・ボルヌ帝国と、その西にあるハウサ諸王国である。カネム・ボルヌは16世紀、イドリス・アローマ王のもとでチャド北部、さらにはフェザーンまでを支配下に置き、サハラ中央部まで進出して交易ルートを握った。このころオスマン帝国がサハラ砂漠に隣接する北地中海沿岸を版図に収めており、サハラ砂漠交易ルートはいまだに隆盛していた。

しかし、大航海時代とともに、西ヨーロッパ各国がアフリカ大陸の海岸部に進出してきた。ヨーロッパ諸国はギニア湾岸に交易地を多く建設していき、これにともなって海岸へと向かう交易ルートが新たに開発されるようになった。中央部や東部のサハラ交易はまだ影響を受けなかったが、西部の交易は次第に海岸部向けのものが主流になっていく。アシャンティ王国やダホメ王国などの海岸に近い国家が新たに交易によって繁栄するようになり、内陸は徐々に寂れていった。それでも東部の交易は続いており、18世紀にはトリポリのカラマンリー朝がフェザーンを征服してサハラ中央部にまで支配を伸ばすなどしている。しかし19世紀後半、交易が完全に海路中心となり、さらにヨーロッパの列強諸国がサハラに進出して、サハラが国境線によって完全に分断されるとともに交易ルートも切断され、サハラ交易はここに終焉した。

サハラ砂漠に積極的に進出したのはフランスで、北のアルジェリアからサハラを南下するルートと、西のダカールからサヘルを西進し、そこから北上するルートで攻略を進め、20世紀初頭にはサハラ砂漠の大部分がフランス領となった。そのほか、海岸部の西サハラをスペインが、エジプトとスーダンをイギリスがそれぞれ支配し、1912年には伊土戦争の結果オスマン帝国からリビアをイタリアが奪取し、残るモロッコ王国も同年フェス条約によってフランスの保護領とされて、サハラ砂漠はすべて欧米列強によって分割されることとなった。

第二次世界大戦後は独立が進み、1960年の「アフリカの年」に旧フランス領諸国が一気に独立を果たして、さらに1962年にアルジェリアが独立することでこの地域は西サハラを除いてすべて独立を達成することとなった。

^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p184 ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p9 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
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