Le Puy-en-Velay

( ル・ピュイ=アン=ヴレ )

ル・ピュイ=アン=ヴレLe Puy-en-Velay)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、オート=ロワール県のコミューン。県庁所在地および、ヴレ地方の中心地である。かつては短くル・ピュイとだけ呼ばれていた。

先史時代

青銅器時代の間、地中海地方に鉱物が供給される唯一の道は、ローヌ川渓谷を通る錫の道であった。アルモリカやコーンウォールで産出される錫はロワール川河口に輸送された。そこからローヌ川をさかのぼり到達したのである[1]。紀元前1世紀、シケリアのディオドロスによって、この錫の航行はローヌ川河口に達するまで約30日かかったと記録されている[2]。別の行き方として、ル・ピュイからルー峠へ向かう道を通り、ロアンヌを通過していたようである[1][3]。錫の道が安全であったわけではない。銅器時代の終わりにつくられたロエクスの墳墓がそのことを証明している。クロット地区に位置する墳墓には30人分の遺体が埋葬され、その全てが負傷または重傷を負っていた。錫の輸送に関して地元民との戦争があったことを意味しているのだろう[4]。

古代

ガリア系のウェラウィ族が占有していた土地をローマ人が征服し、彼らは移住してアニシウム(Anicium)と呼んだ。ローマ時代、現在大聖堂のある場所は信仰の中心であった。その場所は元々ガリア人が同じく信仰の場所としていた。大聖堂の扉背面には、ラテン語の碑文ADIDONI ET AUGUSTO | SEXTUS MUSICUS TALONIUS D. S. P. P.(アディドンとアウグストスへ。この記念碑は音楽家セクストゥス・タロニウスの犠牲によるもの)が刻まれている。ローマ時代の遺構の多くが、鐘楼を建てるために使用されてきた。2005年、コスト・デフェルヌ住宅団地を建設中に、ガロ=ローマ時代、紀元1世紀後半のヴィラの遺構が発掘された。このヴィラは3世紀から4世紀まで使われていた[5]。

キリスト教徒への迫害の時代、信者への憎悪によってブリウドのユリウス、聖フェレオル、聖イルピズ、聖マルセルが殺害された。ローマ帝国がキリスト教信仰を受け入れた後も、聖シャフルが死刑にされている。聖シャフルはル・モナスティエ=シュル=ガゼイユの修道院創設者である。

5世紀の異民族侵攻時代、ルエシウム(現在のサン・ポーリアン)も被害は逃れられなかった。一部の人々は、365年頃、ヴォジー司教区を守ることをあきらめ、ル・ピュイの土地に移住し新たに司教区をつくることにした。ル・ピュイの土地は外からの侵攻に防御するのがたやすく、適していたのである。

5世紀終わりのオーヴェルニュは波乱の時代であった。クレルモン司教シドニウス・アポリナリス、そしてローマに忠実なガロ=ローマ人たちの反対にもかかわらず、475年に皇帝ユリウス・ネポスは、ヴレも含まれる属州の管理を西ゴート族に委ねた。ガロ=ローマ人の伯であるウィクトリウスは、エウリック王からアルヴェンヌ公位を授けられた。507年のヴイエの戦い後、クロヴィスがアクイタニア全土を征服した。

中世  パヌサックの塔

9世紀、聖母マリア崇敬が町で重要視され、町の名はアニシウムからル・ピュイ・ド・ノートルダムとなった。924年、アキテーヌ公ならびにオーヴェルニュ伯であったギヨーム2世が西フランク王ラウールの宗主権を認めると、ギヨーム2世同意の下、司教アダラールに対し、ノートルダム・デュ・ピュイ教会に隣接する町とその中に含まれていたオーヴェルニュ伯のドメーヌ全てが与えられた。市場を開く権利、通貨の法律などが与えられ、司教はル・ピュイ・ド・ノートルダムの領主となった。

955年、司教ゴドスカルクはランへ向かい、924年にラウール王によって行われた寄進をロテールに追認させた。961年、司教ゴドスカルクはサン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂を聖別した。10世紀から、ヴレは司教伯の領地となった。町はヴレ地方の中心かつ、司教座の中心であった。この頃既に、スペインから一部のイスラム教徒がやってくるほど、『熱病の石』(Pierre aux fièvres)による癒しは有名になっていた。ルイ聖王が黒い聖母を町に与えたことからさらに知られるようになった。ル・ピュイには何千人もの巡礼者たちが訪れるようになり、大きな繁栄を経験した。このル・ピュイ巡礼は、中世を通じてフランスで最も有名な巡礼の一つであった。なぜならば、サンティアゴ・デ・コンポステーラへとつながる主要な巡礼路4つのうち1つであったからである。司教ゴドスカルクは951年に初めてサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を行っている。

1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世は、第1回十字軍使節としてル・ピュイ司教アデマール・ド・モンテイルを指名している。1148年、ルイ7世は宮廷を引き連れてル・ピュイを行幸し、この地で聖母の被昇天日を祝った。

1142年、トリポリ伯レーモン2世はル・ピュイ司教に対し、自身がヴェラヴ地方に所有する全財産を寄進している。これがヴレ伯領に関する最古の記録である。ヴレはオーヴェルニュの一部であった。この文書はオーヴェルニュおよびヴレ伯ロベール3世に送られた。

封建時代には、ヴレはギュイエンヌ公のアパナージュとして与えられた。1162年、ギュイエンヌ公とル・ピュイ司教との間にいさかいが起こった。侮辱された司教はフランス王ルイ7世のもとにこの問題を持ち込んだ。王は高位聖職者に肩入れしており、ギヨーム2世からヴレ伯領をとりあげ司教に与えた。しかしその後、1307年にヴレは王領に統合され、フィリップ端麗王は支配権を教皇と共有することになった。これは、地方で最も輝かしい一族であるポリニャック家の地位を築き上げることになった。巡礼者や、成功したビジネスの展望にひきつけられた商人の富がもたらされたのである。

1220年から1240年の間に町を取り巻く壁が建設され、18世紀までそれが町の境界となっていた。パヌサックの塔は町を取り巻いた壁の一部である。中世のル・ピュイは宗教都市というよりむしろ、権威ある文学の町であった。サン・マヨルのアカデミーは、オクシタニア全域からの学生を受け入れていた。町はまた、オック語の詩作で有名であった。

ヴレ地方は、1377年に創設されたラングドックの王国政府(本拠地はモンペリエ)に依存した。そして1789年までル・ピュイは他から独立した代官区であった。ル・ピュイは、パリとサン=ジルをつなぐレゴルダーヌ街道から近かった。

近世  1907年頃のトラム 1905年頃のサン・ルイ広場 20世紀初頭の市街

巡礼とともに、ル・ピュイの繁栄を担ったのはレース生産であった。ル・ピュイのレースについて記述した最古の記録は1408年である。1640年、残念なことに、トゥールーズ高等法院は、貴族やブルジョワたちからの召使が雇えないという抗議を受け付けた。この時代、地域で7万人もの女性たちがレース生産に従事しており、レースのついた衣服の着用が禁じられると、レース産業は荒廃し失業者があふれた。イエズス会の神父フランソワ・レジスはこの状況を変え、高等法院の決定を無効にさせた。

ル・ピュイはセヴェンヌ山脈のユグノーから攻撃され町に被害を与えられても常に抵抗した。司教セネクテール師は、聖母の敵をかわすため鎧を身につけ、剣を抜いた。また、アンリ4世がカトリックに改宗していたにもかかわらず、数ヶ月にわたって彼をフランス王として認めなかった。

1886年、ル・ピュイ=アン=ヴレ駅が開業した。1896年には市街を循環するトラム路線が開業し、第一次世界大戦まで運行された。

現代

第一次世界大戦中、ル・ピュイ都市圏には刑務所が2箇所あった。1つはロッシュ・アルノー孤児院(現在は閉鎖)で、ドイツ軍将校が収容されていた[6]。もう1つは、ブリーヴ=シャランサックにあったかつてのシャルトルーズ会修道院で、600人の民間人捕虜(ドイツ人、オーストリア=ハンガリー人、アルザス人、ロレーヌ人)を収容していた。こうした民間人捕虜は大半が旅行者で、1914年8月よりフランスが戦時体制をとったため、敵国人とみなされ捕虜となった[7]。

第二次世界大戦中、占領されていたル・ピュイが解放されたのは、1944年8月、フランス軍第1機甲師団(en)によってである[8]。

^ a b La route de l'étain ^ Les chemins du Roux ^ Entre les communes du Roux et de Saint-Cirgues-en-Montagne, la route départementale D160 emprunte aujourd'hui le fr:tunnel du Roux ^ Jean Gagnepain, Préhistoire du Verdon : Alpes de Haute-Provence et Var, des origines à la conquête romaine, Édisud et Parc naturel du Verdon, Aix-en-Provence, 2002. ISBN 2-7449-0347-7, p. 76. ^ Inrap rapport d'activité 2006 p. 20 Archived 2012年10月17日, at the Wayback Machine. ^ Fanny Hoessl, Mon été 1914 au Puy, Prisonnière cent jours en France, Éditions Jeanne-d'Arc, 2014, p. 145. ^ Fanny Hoessl, Mon été 1914 au Puy, Prisonnière cent jours en France, Éditions Jeanne-d'Arc, 2014, 222 pages. ^ Stéphane Simonnet, Atlas de la Libération de la France, éd. Autrement, Paris, 1994, réimp. 2004 (ISBN 2-7467-0495-1) , p. 32
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