Lisboa

( リスボン )

リスボン(ポルトガル語: Lisboa IPA: [ɫiʒˈboɐ] ( 音声ファイル)[liʒˈβoɐ] リジュボア、英語: Lisbon IPA: [ˈlɪzbən])は、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は54万5,796人を擁し(2021)、市域面積は84.8平方キロメートル(33平方マイル)に過ぎないが、そのぶん高い人口密度を保持している。リスボンの都市的地域は行政区としての市域を越えて広がっており、人口は300万人を超え、面積は958平方キロメートル(370平方マイル)を占めており、欧州連合域内では11番目に大きな都市圏 (enを形成している。

リスボンはローマ時代から知られ、13世紀以来ポルトガルの首都となった。いわゆる大航海時代(15〜16世紀ごろ)に、香料貿易で急速に発展したことで著名な都市である。18世紀の1755年には大地震に見舞われ、甚大な被害を受けた。

ローマ以前  フェニキアの遺跡発掘、リスボン大聖堂。

考古学的な発見から、フェニキア人の影響は紀元前1200年にさかのぼることが提唱され、おもな歴史家はフェニキア人の交易地が現代の都市の中心である城丘の南斜面辺りを占めていた可能性があると考えている。テージョ川の河口に保護された港は、集落やシリー諸島やコーンウォールへ航海するフェニキア人の船に安全な港を提供するには理想的な場所であった。新しい街はフェニキア語で安全な港を意味するAllis Ubboと名付けられた可能性があり、リスボンの元になる地名学の説の一つとなっている[1] 。ほかの説では集落がローマ以前のテージョ川の名称(LissoやLucio)を取ったことが提唱されている。テージョ川の集落は内陸部の部族にとって、貴金属や塩、彼らが獲った塩漬けの魚の販路や古代に著名であったルシターノ(英語版)馬を売るなど交易の中心として重要であった。中世のリスボン大聖堂の下から紀元前8世紀からのフェニキアの遺跡が発見されたが、現代の歴史家は遺跡は古代の先住民の集落(オッピドゥム)の1つで、せいぜいそれは陶器や工芸品によりフェニキア人との商業的なつながりであったと考えている[2]。

リスボンの名称は地理学者でヒスパニア出身のポンポニウス・メラ(英語版)により、ラテン語でUlyssippoで書かれた。その後、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスにより「Olisippo」と言及され、ギリシャ人はOlissipo (Ολισσιπών) やOlissipona (Ολισσιπόνα)と言及した[3]。伝説によれば、この地はオデュッセウスにちなんで命名され、入植地は彼がギリシャとの連合から逃れるためイリオスから去ったあとに創建された[4][5]。のちにギリシャ名は俗ラテン語にOlissiponaの形式で表れている。

ローマ時代  ローマ時代の城壁の一部。

ポエニ戦争中のハンニバルの敗北に続いて、ローマはカルタゴのもっとも価値がある領地であるヒスパニアを奪うことを決意した。ヒスパニア東部でスキピオ・アフリカヌスにより敗北したカルタゴの軍隊は、デキムス・ユニウス・ブルートゥス・カッライクスがリードする西部の和平を許している。デキムスはオリシッポOlissipoの同盟(北西部のケルト人の部族に対抗するためローマ軍団と一緒に戦う男を派遣する)を獲得し、Municipium Cives Romanorum Felicitas Juliaとして帝国に統合された。地元の権威者は50キロメートルにわたり自らの支配が認められ、税の免除や市民にはローマ市民権の特権が付与されローマの属州であるルシタニアに統合されている。ルシタニアの主都はエミレタ・アウグスタ(英語版)であった。ローマの支配していた期間には、ルシタニア人(英語版)の襲撃や反乱から入植地の周りには壁の建設を必要とした。

アウグストゥスの統治の時代、ローマ人は巨大な劇場やカシアンの浴場、ユーピテルやディアーナ、キュベレー、テーテュースやフリギアの概念(小アジアからの珍しいカルト)からの神殿、それらに加えて皇帝への神殿やフィゲイラ広場の下の大きなネクロポリスやフォルム、インスラなど城丘と歴史的な都市の中心部の間に建てた[6]。

都市は海賊を排除して進んだ技術を取り入れ、フェリキタス・ユリア(Felicitas Julia)はローマの属州であるブリタニアの、特にコーンウォールやラインとの交易の中心となった。経済は力強く、オリッシポ(Olissipo)はガルム(魚醤の1種で、帝国のエリート層に珍重されアンフォラでローマに輸出されていた)やワイン、塩、馬の繁殖で知られ、ローマの文化は後背地に浸透しつつあった。幅の広い街道によりヒスパニア西部やほかの大都市であるヒスパニア・タッラコネンシスのブラカラ・アウグスタ(現代のブラガ)、ルシタニアの主都であるエメリタ・アウグスタ(英語版)(現代のスペインのメリダ)と結ばれていた。都市はJuliiとCassiaeの2つの一族が占める寡頭制の議会によって支配されていたが、地方の統治はローマの名誉総督か皇帝のティベリウスによるものであった。住民の大半がラテン語の話者というなかで、大きなマイノリティーのギリシャ人の商人や奴隷も暮らしていた。

オリッシポは帝国西側のもっとも大きな都市のように、キリスト教普及の中心であった。最初のリスボン総主教(英語版)がPotamius(356年)であった証明や、いくらかの殉教者がキリスト教迫害の時期にありメリダのエウラリアなどは重要な例である。当時のローマ帝国の衰退(英語版)により、オリッシポは重要なキリスト教の中心となっていった。

 アラファマのサン・ジョルジェ城のムアー人の城塞。

ローマ帝国の崩壊に続いて、蛮族の侵入があり409年から429年に街は連続してサルマタイやアラン人、ヴァンダル族に支配された。スエビ族はガラエキア(英語版)(現代のガリシア州やポルトガル北部)に王国を制定し首都をブラカラ・アウグスタ(Bracara Augusta)に置いて、リスボン地域は585年まで支配下に置いていた。585年、スエビの王国はゲルマン系の西ゴート族のトレドの王国に一体化された。この王国はイベリア半島のすべてを構成しており、リスボンはその当時ウリシュボナ(Ulishbona)と呼ばれていた。

中世

711年8月6日、リスボンはムーア人の勢力の手に落ちた。これらの征服者のほとんどは北アフリカや中東からのベルベル人やアラブ人で、多くのモスクや住宅が建てられ Cerca Mouraで知られる城壁が再建され支配機構が確立した。ムラディ、キリスト教徒、ベルベル人、アラブ人、ユダヤ人、ザンジュ、サカーリバなど多様な住民はそれぞれの社会的・文化的な生活様式を維持することが許可されていた。モサラベ語はほとんどのキリスト教徒の住民が話す母語であった。イスラム教は慣習として、アラブ人やベルベル人、ザンジュ、サカーリバの公式の宗教であった。キリスト教徒はズィンミーの下では宗教を維持することやジズヤと呼ばれる人頭税と引き換えに居住が認められていた。付加税を支払う見返りに、キリスト教徒とユダヤ人はイスラムの軍に参加するようなイスラム教徒に割り当てられた特定の任務から除外され、その安全はイスラム国家によって保証されていた。それ以外は、キリスト教徒とユダヤ人は財産の法律の下では契約や義務に関してはイスラム教徒と等しかった。

イスラムの影響は現代でもアルファマ地区に残っており、1755年リスボン地震でも生き残った古いリスボンの1地区で、多くの場所の名称がアラビア語からもたらされた。短い期間、リスボンはバダホスのタイファであるRegulo Eslavoの街の中心で、そのときは独立したタイファとしてリスボン・タイファ(英語版)であった。

 1147年のリスボン包囲でのムーア人の降伏。

1108年にリスボンはノルウェーのシグル1世(英語版)が率いる十字軍により攻略されたが、彼らは聖地へ向かうノルウェー十字軍の一環であった。しかし、1111年に再びムーア人のムラービト朝に再征服されている。

1147年にレコンキスタの一環として、アフォンソ1世率いる十字軍の騎士はリスボンの包囲と再征服を行った。当時、リスボンの街には約15万4,000の市民が暮らしていたが、キリスト教の支配に戻った。ポルトガルのレコンキスタやキリスト教の再成立は、リスボンの歴史にとってはもっとも重要な出来事の1つで、年代記である『リスボンの征服に関して(英語版)(Expugnatione Lyxbonensi)』に描写され、地元の聖職者は十字軍により殺され住民は聖母マリアに祈ったと伝えている。アラビア語は街の日常の生活から失われ、多く残っていたイスラム教徒の住民は力ずくでカトリックに改宗させられるか追放され、モスクは破壊されるかキリスト教教会に変えられた。

1179年にリスボンは最初の特許書(フォラル(英語版))を受けたが、アンダルスからは定期的にイスラム教徒の侵略者が住民を捕らえ奴隷にしたり、宝物を奪うなどキリスト教徒が支配するイベリアの王国に挑戦し続けていた。1189年のリスボンに対する襲撃では、ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールは3,000人の女性や子どもを捕らえて行った[7]。1255年、リスボンは新しいポルトガル人の領土の首都となり、その中心部に位置した。1290年には最初のポルトガルの大学がディニス1世によりリスボンに設立され、長年ストゥディウム・ゲネラーレは断続的にコインブラに移転し、16世紀には恒久的にコインブラ大学として設置された。

中世の最後の世紀にはリスボンの街は大幅に拡張され、北ヨーロッパや地中海の都市両方にとって重要な交易地となった。

近世  最も古くから知られたリスボンの情景 (1500–1510) Crónica de Dom Afonso Henriquesから。 by Duarte Galvão

15世紀から17世紀の大航海時代、多くのポルトガルの遠征隊がリスボンから旅立っていったが、この中には1497年にインドへ遠征したヴァスコ・ダ・ガマも含まれる。1506年には3,000人のセファルディムのユダヤ人が虐殺された[8]。16世紀はリスボンの黄金期で、リスボンの街は航海で獲得した豊富な香辛料や奴隷、砂糖、織物、ほかのさまざまな商品により、ヨーロッパとアフリカ、インド、極東、のちにはブラジル植民地(英語版)との交易の中心であった。この時代、豊富なマヌエル様式の建築が盛んになり、多くの16世紀の建築物にはその足跡が残されている。この様式には、ベレンの塔やジェロニモス修道院など世界遺産に登録されている建築物も含まれる。16世紀のリスボンの描写はダミアン=デ=ゴイス(英語版)により書かれ、1554年に著されている[9]。

ポルトガルの独立は1580年のイベリア連合のあとに失われている。リスボンでは貴族やブルジョワ階級がクーデターを組織し、1640年12月1日に成し遂げ、ポルトガルの独立は回復したが、それとともにポルトガル王政復古戦争が始まった。1640年の革命により60年間続いたスペイン・ハプスブルク朝の下でのポルトガルとスペインの二重君主制は終わりを迎えたが[10][11]、1640年から1668年の間にポルトガルとスペインの間では定期的な衝突が続き、これと同様に、より深刻な短期間の戦闘がリスボン条約 (1668年)(英語版)が調印されるまで続いた。

18世紀初期、ブラジルからもたらされる金がジョアン5世がバロック様式の教会や劇場を街に建築することを可能にした。

 リスボン地震で破壊されたリベイラ宮殿。

18世紀以前、リスボンはいくつかの大きな地震を経験している。14世紀には8回、16世紀には1531年の1,500戸が破壊された地震や、3つの通りが消えた1597年の地震を含め5回、17世紀には3度起こっている。1755年11月1日にはリスボン地震が起こり、当時人口20万から27万5,000人[12][13]であったリスボン市民のうち、およそ3万から4万人の市民が地震と津波により犠牲になり[14]、市内の建物の85パーセントは破壊された[15]。これによりいくつかの市内の重要な建物が失われ、リベイラ宮殿や王立トドス・オス・サントス病院(英語版)は失われている。沿岸部では、リスボンから北へ80キロ離れたペニシェなどでは多くの人が津波にさらわれた。リスボンから南に30キロのセトゥーバルでは、水が建物の2階にまで達している。ポルトガル南部のアルガルヴェでも破壊は著しく、津波が沿岸部の要塞や低地の多くの住居を破壊している。いくつかの地点では津波は30メートルに達していた。アルガルヴェ沿岸の町や村のほとんどは大きな被害に遭っているが、ファロは砂丘により免れた。ラゴシュ(英語版)では波が城壁の一番上まで達している。多くのポルトガルの沿岸は地震そのものの被害よりも津波の破壊的な影響の方が悲惨であった。

 ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョのリスボンを再建するための精通した計画。

1755年のリスボンは当時ヨーロッパでも最大規模の大都市で、この大惨事はヨーロッパ中に衝撃を与え、全体の心理に深い印象を与えた。この地震のあと、市街はポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョの計画によって大規模に再建された。下町ではバイシャ・ポンバリーナの開発が始まり、中世の街を再建する代わりにポンパル侯爵は地震のあとも残っていた建築物を取り壊し、近代的な都市計画の原理に従って中心部を再建することを決めた。2つの長方形の配置の広場であるロシオ広場とコメルシオ広場が再建された。

19世紀から現代まで  建設中のロシオ駅、1886年頃。

19世紀の最初の年、ポルトガルはナポレオン・ボナパルトの軍隊に攻め込まれ、マリア1世とジョアン6世は一時的にブラジルに逃れることを余儀なくされた。新しい王がリスボンに戻るころには、多くの建物や資産は侵略者に略奪されるか破壊された。19世紀、リベラルな動きは都市の景色に新たな変化をもたらした。主要な地区であるバイシャやシアード地区ではタバコ店やカフェ、書店、クラブ、劇場、店舗などが急増した。商工業の発展は都市の発展を決定づけ、リベルダーデ大通りは北側に伸び、通り自体はテージョ川から続いている。リスボンは1908年のカルロス1世の暗殺の場所で、これにより2年後に共和国が成立する。

リスボンでは数世紀の休止ののち、1911年に大学が再び設立され、以前の専門学校やほかの大学でない高等教育の学校が改革・統合された。第二次世界大戦中、リスボンはわずかしかなかった中立のヨーロッパの大西洋側の港で、アメリカへ向かう難民にとっては主要な玄関口で、スパイにとっては避難場所であった。10万人を超える難民がナチス・ドイツからリスボンを経由して逃れることができた[16]。

エスタド・ノヴォ統治期(1926 - 1974)、リスボンは膨張しナショナリストやモニュメント的な計画により国内のほかの地域ではコストが嵩んだ。新しい住宅や公共の開発が建設され、ベレン地区では1940年のポルトガル博のために変えられ、人口増加により外周に沿って新しい住地区が現れた。20世紀にはリスボンは3度の革命が起こっている。最初は1910年10月5日革命で、これによりポルトガルの君主制が終わり、非常に不安定で汚職の多いポルトガル第一共和政が成立した。1926年5月28日クーデターにより第一共和政は終わりを告げ、独裁ながら安定したエスタド・ノヴォまたはポルトガル第二共和政が統治することになった。最後の革命は1974年4月25日に起こったカーネーション革命で、右翼のエスタド・ノヴォは終わり、改革が行われ現在のポルトガル第三共和政となった。

 2007年にジェロニモス修道院で署名されたリスボン条約。

1990年代、多くの地区は改修され歴史的な地区では近代化の計画が制定された。いくつかの地区では建築様式や遺産となる建物の再取得、テージョ川の北側周辺ではレジャーや住宅などに用途変更、ヴァスコ・ダ・ガマ橋の建設、市の東側の地区ではリスボン国際博覧会のために用途の変更などが行われ、博覧会はヴァスコ・ダ・ガマがインドに向けての航海から500年を記念して開催されている。1988年に火災により多くのシアード地区の18世紀のポンバル様式(英語版)が焼失した。一連の修復により地区は以前の姿を取り戻し、高水準のショッピング地区になっている。

リスボン戦略(英語版)は欧州連合の経済に新しい活力を与えるための欧州連合の協定で、リスボンで2000年3月に調印された。2007年10月にリスボンでは欧州理事会が開催され、欧州連合の新しいガバナンスモデルについて合意に達した。その結果、リスボン条約は2007年12月13日に署名され、2009年12月1日に発行した。

^ Japan Aerospace Exploration Agency (2008年11月5日). “Lisbon, Portugal – Where the Land Ends and the Sea Begins”. 7 December 09閲覧。 ^ José Mattoso, ed. (1992) (Portuguese), História de Portugal. Primeiro Volume: Antes de Portugal, 1, Círculo de Leitores  ^ Smith, William (1854), Dictionary of Greek and Roman Geography, illustrated by numerous engravings on wood, London, England: Walton and Maberly  ^ Cailleux, Théophile (1879) (French), Pays atlantiques décrits par Homère, Ibérie, Gaule, Bretagne, Archipels, Amériques: Théorie nouvelle, Paris, France: Maisonneuve et cie  ^ If all of Odysseus' travels were in the Atlantic as Cailleux argued, then this could mean that Odysseus founded the city coming from the north, before trying to round Cape Malea, (which Cailleux located at Cabo de São Vicente), in a southeasterly direction, to reach his homeland of Ithaca, supposedly present Cadiz. ^ Many of these ruins were first unearthed during the middle 18th century (when the recent discovery of Pompeii made Roman archaeology fashionable among Europe's upper classes). ^ Brodman, James William. “Ransoming Captives in Crusader Spain: The Order of Merced on the Christian-Islamic Frontier”. Libro.uca.edu. 2010年11月21日閲覧。 ^ Rabbi Jules Harlow (2011), “A 500-Year-Old Memory – Another tragic date in Jewish history” (Portuguese), Jewish Week, Lisbon, Portugal: Comunidade Judaica Masorti – Lisboa  ^ Jeffrey S. Ruth, ed. (1996) [1554], “Urbis Olisiponis descriptio”, Lisbon in the Renaissance, New York, New York  ^ EncyclopædiaBritannica. “John IV (king of Portugal)”. 2019年1月3日閲覧。 “king of Portugal from 1640 as a result of the national revolution, or restoration, which ended 60 years of Spanish rule.” ^ Geoffrey Parker The army of Flanders and the Spanish road, London, 1972 ISBN 0-521-08462-8, p. 35. ^ “The Economic Impact of the Lisbon 1755 Earthquake – p. 8, estimates a population of 200,000” (PDF) (2006年3月). 2010年11月21日閲覧。 ^ “Historical Depictions of the 1755 Lisbon Earthquake, citing an unreferenced estimate of 275,000”. Nisee.berkeley.edu (1998年11月12日). 2011年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月21日閲覧。 ^ Pereira, A.S. (2006年3月). “The Opportunity of a Disaster: The Economic Impact of the Lisbon 1755 Earthquake” (PDF). Centre for Historical Economics and Related Research at York, York University. 2010年11月21日閲覧。 ^ “Historical Depictions of the 1755 Lisbon Earthquake”. Nisee.berkeley.edu (1998年11月12日). 2011年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月21日閲覧。 ^ "Portugal". The Virtual Jewish History Tour.
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