ラダック(英: Ladakh、チベット語: ལ་དྭགས་, la dwags)はインド北部にある旧ジャンムー・カシミール州東部の地方の呼称。広義には、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた一帯を指し、ザンスカールおよび、現在パキスタンの支配下となっているバルティスターンを含む。中華人民共和国との国境に接し、アフガニスタン北部にも近い。中国が実効支配するアクサイチンも、かつてはラダックの支配下であった。中心都市はレー (Leh)。

かつてはラダック王国という独立した仏教国であったが、19世紀にジャンムー・カシュミール藩王国に併合された。長らく、行政区画の名称としては使用されていなかったが、2019年10月31日に発効したジャンムー・カシミール州再編成法に基づく旧ジャンムー・カシミール州の分割に伴い、連邦直轄領となった。

ラダックの総人口は2020年時点で289,023人と推定されている。人口のうち、46.6%はムスリム、39.7%はチベット仏教徒、12.1%はヒンドゥー教徒である。ラダックにはチベット仏教徒が多く、チベット仏教の中心地の一つとして有名である。インダス川流域に、多くのゴンパが存在している。文化大革命で破壊された中華人民共和国のチベット自治区よりも古い文化が良く残っていると言われ、特に曼荼羅美術の集積はチベット自治区を凌ぐとされている。

古代史

ラダックにおける人の痕跡は青銅器時代までさかのぼることができる。その頃に掘られたと思われる岩面彫刻から、当時の人々が中央アジアの草原から来た狩猟民族であることが推測されている。この狩猟民族は今でもカザフスタンや東トルキスタンに住んでいる狩猟民族と先祖を同じくすると考えられている。また、次の移住者としてやってきたダルド族が先住民と混ざる、あるいは入れ替わる前、チベットビルマ語族がこの時代、この地域に住んでいた可能性もある。初期仏教は少なくとも紀元前2世紀にはラダックに伝播したと思われる。クシャーン朝時代の仏教遺跡も見出される。初期仏教はこの地域へ経てさらに東へ伝わっていく。7世紀、チベットの吐蕃王国がシャンシュン王国を併合、ラダックと西ヒマラヤ地方を支配し、チベット民族が定着してゆく。8世紀になるとチベットから流入した仏教が再び盛んになる。

中世

841年に吐蕃が滅亡すると、842年に中央チベットの豪族であったキデ・ニマゴン(Skyid lde Nyima-Gon/Kyide Nyimagon)がラダック王国(英語版)を建国したと伝わる。17世紀にはバルティスターン王国と同盟を結び、センゲ・ナムゲル(英語版)王の治世下に最盛期を迎えた。ザンスカールを支配下に収め、1630年には西チベットのグゲ王国を滅ぼした。1684年、チベットのダライ・ラマ政府(ガンデンポタン)と紛争が起こった結果、旧グゲ王国領域をチベットへ割譲され、ラサに朝貢することを約す。しかしチベット本国とはその後も対立が続き、その間にカシミールの諸侯が影響力を伸ばした。1822年、クルとラホール、キンナウルの連合がザンスカールを侵略し、1834年にはジャンムーのドーグラー王グラーブ・シングによってレーが陥落、1840年にはバルティスターンのスカルドゥも陥落した。シク王国の将軍ゾーラーワル・シングがドーグラー兵を引き連れ、チベットに向けて侵攻したが、チベットは1842年に講和してカシミール連合軍の侵入を阻止した(清・シク戦争)。だが、1846年にはイギリスが介入した第一次シク戦争の結果、グラーブ・シングの下でイギリス植民地のジャンムー・カシミール藩王国(1846年 - 1947年)が成立し、ラダック王国とバルティスターン王国は他のカシミール諸侯とともに藩王国の一部として併合された。(その後もラダックとバルティスターンの王家は藩王国内の一諸侯として一定の自治権を保持した。)

近現代

第二次世界大戦後、カシミール紛争に伴って、1947年にバルティスターンの大部分がパキスタンの実効支配地域『北方地域』(現ギルギット・バルティスターン州)と改称された。1949年、中華人民共和国は、ヌブラと新疆の境界を閉鎖し、アクサイチン地方は実効支配下となった。この結果、狭義のラダック地方とザンスカール地方がインド支配地域となり、レーに置かれたラダック自治山間開発会議がこの地域の事実上の地方政府となっている。このような激動の歴史にもかかわらず、インド連邦に対する忠誠的な姿勢のおかげで、インド支配下のラダックは8世紀から続く文化的、宗教的な遺産を失わなかった。また、貴重なチベット文化、社会、建造物が残ったのは、中国の文化大革命の破壊から守られたことも一因である。国境紛争以来、ラダックは外国人立入禁止地域となっていたが、1974年になって外国人の立ち入りが開放されて以降、多くの旅行者がラダックを訪れるようになった。

1999年、カールギル紛争(英語版)が勃発。インドとパキスタンの間で、カルギル地区のカシミールと軍事境界線をめぐる紛争が起こった。

2019年8月5日、インド政府は憲法第370条(英語版)で旧ジャンムー・カシミール州に認められてきた特別自治権[1]を剥奪する大統領令を公布[2]し、インターネット通信などを制限した[3]。特別自治権の剥奪を受けてインド議会ではジャンムー・カシミール州再編成法(英語版)が承認され、8月9日に成立した。

ジャンムー・カシミール州再編成法の規定により、2019年10月31日付けで旧ジャンムー・カシミール州はラダック連邦直轄領とジャンムー・カシミール連邦直轄領に分割され、連邦政府直轄領となった[4][5]。

^ “インド最大野党が政権公約を公表、核政策見直しへ”. ロイター通信. (2014年4月7日). http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYEA3606020140407 2014年4月8日閲覧。  ^ “インド政府、ジャム・カシミール州の特別自治権を剥奪”. AFP通信. (2019年8月5日). https://www.afpbb.com/articles/-/3238581 2019年8月5日閲覧。  ^ “通信、通行の制限続く=カシミール自治権剥奪1カ月”. AFPBB. (2019年9月5日). https://www.afpbb.com/articles/-/3243227 2019年9月6日閲覧。  ^ “10月末にカシミール州消滅 インド、連邦政府直轄地に”. 共同通信. (2019年8月10日). https://web.archive.org/web/20190810095135/https://this.kiji.is/532668908785927265 2019年8月10日閲覧。  ^ “インド、カシミール自治権撤廃 パキスタン・中国は反発”. 朝日新聞デジタル. (2019年8月7日). https://www.asahi.com/sp/articles/ASM871PPCM87UHBI001.html?iref=sp_ss_date 2019年8月10日閲覧。 
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